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【13】

 数日後――。  貴滉は浅香と共に産婦人科を受診していた。真吏の知り合いだという産婦人科医師の増田(ますだ)が在籍する総合病院。多くの受診者が訪れるため、基本的に予約のみの受付となっている産婦人科だが、貴滉のために時間を空けてくれた。真吏がどの程度の知り合いなのかは分からなかったが、分単位でスケジュールをこなす多忙な増田の時間を融通出来るほどの関係に驚いた。  本来ならば貴滉の隣にいるのは真吏のはずだった。しかし、警察からの事情聴取と仕事が重なり、真吏の代理として浅香が貴滉に付き添った。  増田は、真吏の方から大まかな話を聞かされていたようで、貴滉の体を心配してくれた。  克臣から受けた凌辱、そして飲まされた発情促進剤が不妊治療のために処方されたものだという点を踏まえて、一通りの検査を行うことになった。  無理やり犯された後孔は軽度の裂傷が見られる程度で、数日の抗生物質の服用で済みそうだ。血液検査でもホルモンの異常は見当たらない。受精してから着床するまでに時間がかかるため、生まれつき発情しない貴滉の体質を考慮し、経過を観察するということで診療科をあとにした。 「浅香さん、いろいろとすみませんでした」  隣を歩く長身の浅香を見上げた貴滉は、足を止めて深々と頭を下げた。浅香は眼鏡の奥の瞳を細めて微笑むと、落ち着いた声音で言った。 「こちらこそご迷惑をおかけしてすみません。あの……私のこと社長から聞いてますよね?」  妹の美紅のことだとすぐに分かったが、貴滉は言葉を濁した。浅香が彼女の兄だということを知ったのは克臣からもたらされた情報で、真吏から聞いたのはその後だった。順番が違うだけで、こんなにも複雑な気持ちになるものだろうかと表情を曇らせた。 「えぇ……。あの……SNSで三年前の事件のことを拡散されたのは俺のせいなんです。真吏に怪我を負わせた彼は……俺の同僚で……」 「社長から聞いています。まさか三年前のことを蒸し返されるとは思わなかったですね……。でも、隠すつもりはありません。事実ですから」 「浅香さん……」 「私はあの事件ですべてを失った。それまで、α性であることで優位に立っていたことが嘘のように蔑まれるようになった。代々伝統を重んじてきた家柄というだけで周囲からチヤホヤされていた。でも、あの日を境に『一族の恥さらし』に変わったんです。世間の目は冷たく、親戚からは絶縁を言い渡され、家族はバラバラ。私は職も地位も失った」  院内に設けられたカフェテラス。病院を訪れた誰もが自由に利用できるスペースだ。入口のカウンターでオーダーを済ませると、大きなガラス窓から柔らかな日差しが降り注ぐテーブル席に向かい合うように座った。  一見冷淡にも見える浅香だが、初めて会った時に感じた紳士的な雰囲気は変わらない。シルバーフレームの眼鏡の奥にある黒い瞳が何かを思い出すように揺れた。 「――でも、社長は拾ってくれた。彼の兄を殺した殺人犯の身内を……そばに置いてくれると言ったんです。そのせいで、漆原家からの風当たりは前にも増して強くなりました。クールウェブゲートが傘下に置かれ、監視の目も厳しくなり、社長の立場も精神状態もかなり危うい状態になっていたんです。自暴自棄になって身勝手な行動をすることも多々ありました。でも……仕事だけは手を抜かなかった。そんな社長がこのまま堕ちていくのを見ていられなかった……」  テーブルに運ばれたコーヒーカップを口元に寄せ、自身を落ち着かせるかのように一口啜った浅香は、貴滉を真っ直ぐに見つめて続けた。 「優秀だと言われるα性でも出来ないことがあるんですよ……。彼を助ける術を見つけることが出来なかった。 でも、あなたは社長を救った……」  貴滉はコーヒーカップに手を添えたまま浅香の話に耳を傾けていたが、ゆっくりと首を横に振った。  自分は何もしていない。真吏を救いたいとは思ったが、逆に自分が救われたような気がしていた。そのせいで彼は誹謗中傷され、怪我まで負ってしまった。 「俺……真吏さんが好きです。でも、これが恋なのか……分からなくなる時があって。同じような境遇を共有することで互いの傷を舐めあっていただけなのかなって」 「社長は……なんて?」 「誰にも渡さない――って」  貴滉の言葉に、浅香は肩を揺らして「社長らしい」と笑った。毎日、すぐ近くで真吏のことを見ている浅香。彼の言動に関しては貴滉よりもかなり熟知している。 「傲岸で自己中心的……。ここだけの話ですが、以前はSNSで書かれているように、何人かのセフレがいたと聞いています。でも、今はいませんよ」 「え……?」 「感情のないセックスは馴れ合い。そこからは何も生まれない――それが社長の持論です」 「どういうことですか?」 「発情しない体になって気が付いたんでしょう。遺伝子を残すためだけに本能で結ばれる運命ではなく、ゆっくりと互いの心を通わせて惹かれ合う相手と出逢うことが『運命』なんだと。――稲月さん、社長とセックスしましたか?」  不意に直球を放った浅香に戸惑いながら、貴滉は頬を薄っすらと染めたまま恥ずかしげに俯いた。 「してない……です」  バスルームでの事が脳裏を掠め、羞恥にスラックスをぎゅっと掴み寄せた。真吏の雄々しいペニスを目の当たりにした時、恐怖よりも愛しさが勝っていたことは口が裂けても言えない。 「――社長は発情出来なくなってからED(勃起不全)を患っています」 「え?」  クラブでフェラチオを強制された時、彼のペニスは勃たなかった。しかし、マンションのバスルームでは赤黒く変色し、激しく脈打つほど猛っていた。そして、貴滉と共に絶頂し大量の白濁を溢れさせた。 「どうして……」  貴滉が考えを巡らせている様子を見て察したのか、浅香はわずかに身を乗り出して小声で言った。 「つまり――社長の体はあなたにしか反応しない」  それは貴滉も同じだった。克臣に犯された時、薬で強制的に発情して快楽を得ていたというだけで、真吏に愛撫された時に与えられるような幸福感はなかった。それに、体の芯を焼くような熱さと甘い疼きを感じられるのは真吏と触れ合っている時だけ。  唇を重ねただけで腰が砕けそうになる心地よさを思い出したが、慌ててそれを払拭すると、貴滉は唇を強く噛んでから思い切ったように切り出した。 「あの……浅香さん。俺、真吏さんと離れようと思うんです」 「どうして? お互いに想いは通じ合っているのでしょう?」  怪訝そうな表情で見つめる浅香に、貴滉は冷めたコーヒーを口元に運びながら言った。 「少し考える時間が欲しいんです。今は真吏さんのことで頭がいっぱいで、これが本当に自分の求めていた恋なのかどうか分からない。それに、克臣のことで怪我まで負わせてしまった。罪悪感しかないんです……。冷静になったら、一過性の病気みたいに彼への想いが消えて、ただ恋に憧れていただけってことに気付くかもしれない」 「貴滉さん?」 「それだけじゃないんですっ。もし、克臣の子を妊娠していたとしたら……。怖いんです……。それを彼に知られるのが。だから……っ」  テーブルに降り注いでいた陽射しが雲に遮られ、二人の手元に薄っすらと影を落とす。  真吏がナイフで切りつけられた時、貴滉は自分の中でそっと幕を引いた。克臣に対する怒りと憎しみ以上に、真吏への想いの深さを知ったからだ。  好きな人を傷つけてまで、想いを貫き守ってもらいたいのか。そんな都合のいい恋を続けていいのか――。  貴滉の中で『恋の定義』が大きく揺らいだ瞬間だった。だから、自分に罰を下した。  一番苦しくて、切なくて、つらい罰を……。 「好きだから……離れたいんです。病院にはきちんと通います。ですが、この事は真吏さんに内緒にして欲しいんです。あのマンションも近々引っ越します。携帯も……。彼には「会えなくなった」とだけ伝えてもらえますか?」 「稲月さん、あなたはそれでいいんですか?」 「はい……。決めたことなので」  貴滉の答えに、浅香はそれ以上追及することはなかった。短く「分かりました」と返し、カップに残ったコーヒーを飲み干すと伝票を手に立ち上がった。  雲が途切れ、明るい陽射しが再びテーブルに注いだ。眩しさに目を細めた貴滉が席を立とうとした時、浅香が大きな窓越しに空を見上げて、まるで独り言のように呟いた。 「恋をしている時間って意外と短いんですよ。突然始まって、その展開はまるでジェットコースターのようだと言います。恋をしてる自覚さえなく、本人たちも気付かないうちに恋に落ち、深まっていく……」 「浅香さん?」  浅香は貴滉の方を見ると、眼鏡レンズの奥で優しく目を細めた。 「それがいつしか恋ではなく愛に変わってしまうんです。そうなったらもう、離れたくても離れられなくなる――稲月さんは真面目で……。どこまでも純粋で、一途な方なんですね」  その声はどこか楽しそうで、何かを期待しているような余韻を残した。  浅香と別れ、マンションの部屋に戻った時、きっと涙が止まらなくなる――そう思った。  悲しみの感情と涙を失っていた二十余年間。それはすべて、出会うべくして出会った真吏のための涙。  だから今はグッと堪える。貴滉は笑顔で浅香に挨拶した。 「ありがとうございました……」  不意に、耳に流れ込んでくる周囲の音。今まで自分が異空間にいたような錯覚を覚えていた貴滉は、やっと現実世界に戻ったことに安堵し、ほぅっと細い息を吐き出した。 (恋する夢を――見てたのかな)  それは長くて、楽しくて……時につらく悲しい夢。胸を押し潰されるほどの苦しみと、触れ合うだけで幸せだと思える時間を同時に味わった。  もう二度と見ることはないだろう。そして、愛しい人に触れることはもう……ない。  *****  あれから三ヶ月――。  相棒として一緒に仕事をしていた克臣が逮捕され、隣のデスクには多くの資料が積み上がっていた。  事件のことは、直後に会社中に知られることとなり、腫れ物に触るかのように貴滉に接していた皆だったが、最近になって今までと変わらない生活が戻り始めていた。  貴滉は事件のあったマンションを離れ、郊外のマンションへと引っ越した。通勤には時間がかかるようになったが、静かで環境がいい街が気に入っていた。  あの日依頼、浅香とは連絡を取っていない。もちろん、真吏とも……。  携帯番号を変え、引っ越し先の住所も教えていない。真吏への恋心からの逃避だった。  克臣がいなくなった分、貴滉の仕事量は格段に増えたが、同時にやりがいも見い出し始めていた。今まで見えていなかったことが、一人になったことによって気付くことも多くなった。  でも……心に開いてしまった大きな穴は埋まることはなかった。  真吏と関わった数ヶ月間が嘘だったかのように、メッセージアプリの着信は未だに0件のまま。着信も会社関係者や取引先以外はない。時々掛ってくる間違い電話に過剰反応してしまうのは、まだ彼のことを忘れられないからだろう。  自分が決めたことなのに。自分が背負った罰なのに……。  彼と離れて気が付いたのは恋と錯覚していたことではなく、それよりももっと切なく、胸が張り裂けそうになる寂しさだった。  夜になると真吏のキスを思い出し自慰に耽ることが増えた。目を閉じると彼の息遣いを感じて、吐息する自分がいる。忘れようと思うたびに、その存在はより大きく膨れ上がり、消すどころか貴滉の体を余すことなく支配していった。  それと同時に、体の異変に恐怖を覚えるようになった。体の火照り、軽い眩暈、下腹の疼き……。  産婦人科医である増田の診察は定期的に受けてはいたが、克臣の精子がまだ体の中にあるような気がして眠れない日々が続いていた。もし、妊娠しているとすれば、そろそろ明確になる時期であったからだ。  日に日に増幅していく真吏への想いと妊娠の恐怖に苛まれ、貴滉は仕事に打ち込むことで払拭しようと必死にもがいた。  残業で疲弊した体を引き摺るように、長い時間電車に揺られて帰宅した貴滉は、ポストの中に見慣れない封筒があることに気付いた。ダイレクトメールの類とは違う上質な紙面に『Invitation』と書かれている。  訝しげにその封筒を開いてみると、貴滉の良く知った会社名がそこに記されていた。  The One――恋活イベント企画会社からの『招待状』だった。  桜色の用紙に印刷された文面に目を通すと、それは訳アリ性対象者限定の恋活イベント開催の通知だった。前回のイベントでトラブルが発生し、迷惑をかけたお詫びに再度イベントを企画したという旨の内容だ。この招待状を持参すると参加費も無料になるらしい。  以前住んでいたマンション宛てに届いた郵便物を転送してもらう手続きを取っていたが、この封筒には住所も消印もなく、転送された様子がない。  ここに引っ越してからThe Oneに住所変更の連絡はしていない。それなのに、この封筒が直接ここに届けられていることが不思議で仕方がなかった。  開催日時と場所、そして同封されていたプロフィールカードに目を通し、貴滉はそれをリビングのテーブルの上に投げた。 「個人情報ダダ漏れだな……」  呆れたように髪をかきあげながら呟いてバスルームに向けた足を止める。ゆっくりと振り返って、テーブルに近づくとその手紙をもう一度手に取った。 「最初で最後の恋……か」  あの日、あのカフェで見上げた広告看板。そこに書かれていたこのフレーズが鮮烈に記憶に残っている。  自分もそんな恋がしてみたい……。そう思って参加したイベントで出逢ったのは、とんでもない男だった。  その男は傲岸不遜で、自己中心的で……。乱暴でデリカシーがなくて、辛辣な言葉を並べ立てて。  でも――。 「カッコ良くて……優しくて。強くて……温かくて……」  自然と口を吐いて出る言葉が震えていることに気付いた貴滉は、ポロポロとワイシャツに落ちる透明の滴に戸惑った。  何度拭っても溢れるそれは、浅香と別れたあの日にすべて出し尽くしたと思っていたものだった。 「ど……して、とまら、ない……」  桜色の紙が涙の滴で色を変えていく。滲んだ視界の中で彼の面影がゆらりと揺れた。  貴滉は手にしていた手紙をぐしゃりと握り締めると、床の上に叩きつけた。 「離れれば苦しまなくても済む……もっと楽になれると思ったのに……」  一度、恋を知ってしまった貴滉はもう、ただの出来損ないのΩには戻れなくなっていた。  それが夢であったらどれほど良かっただろう。真吏の指先、触れ合う唇、重なる吐息……。何もかもがリアルに思い出され貴滉を苦しめる。 「胸が痛い……体が熱い……助けて、真吏さん……」  三ヶ月前、浅香が別れ際に言った言葉を思い出す。   『――それがいつしか恋ではなく愛に変わってしまうんです。そうなったらもう、離れたくても離れられなくなる』  まさにその通りだった。貴滉の、真吏に対する想いはもう恋ではなくなっていたのだ。  狂おしいほどに焦がれる想い……それは愛。  冷たいフローリングの床に力なく頽れた貴滉は、そのまま倒れ込んだ。自身に科した罰は予想以上に重く、真実を突きつける。  もう、終わらせたい……何もかもっ!  貴滉は自身を抱きしめるように体を丸めると、声を押し殺して泣き続けた。  愛する人のためだけに――涙を流した。  *****  スーツの襟を正しながらロビーを横切った貴滉は、迷うことなくエレベーターホールへと向かった。  その顔はいつになく清々しく、期待に溢れていた。  高層ビルが並ぶビジネス街の中心部にある都内屈指の高級ホテル。そこで開催される訳アリ性対象者限定恋活イベント。もちろん主催はThe Oneだ。  今日は趣向を変え、デラックス・スイートルームを貸切って少人数で行われる。ドレスコードは男性はスーツ、女性はシックなワンピースとなっており、貴滉は今日のためにスーツもネクタイも新調した。  内ポケットにしまった招待状を掌でぐっと押え、新たな出会いに胸を膨らませる。 「三十八階か……」  参加申し込みを済ませた際に送られてきた専用カードキーは、会場があるフロアへの鍵にもなる。セキュリティを強化したそのフロアにはスイートルームが四部屋設けられている。いずれもΩ性の発情に対応した作りとなっており、フェロモンが外部に漏れ出さないよう特殊な壁構造になっているらしい。  一般的なイベント用のフロアでは何かと配慮しなければならないが、この部屋であればスタッフの負担も軽減される。  エレベーターに乗り、カードキーをかざすとそのフロアで停止するシステムだ。貴滉は鏡面で仕上げられたエレベーター内で、自身の姿を再度確認した。  貴滉が今回、それほど意気込む理由は一つ。真吏のことを忘れるための恋活だから。  自身を苦しめる元凶である彼を忘れ、新しい恋を見つけようと一念発起した。  足元に敷かれた毛足の長い絨毯が緊張感を和らげてくれる。小気味よい音と共に到着したエレベータの扉が開くと、貴滉は深呼吸を繰り返した。  案内図に従って広い廊下を進むと、角の部屋の前で受付の女性スタッフが待っていた。 「あ、稲月さん! 前回は本当に申し訳ございませんでした。今日は少人数制でお時間も多めに設定してありますのでごゆっくり歓談出来ます」 「あの、本当に無料でいいんですか?」 「はい。大丈夫です」  満面に笑みを湛えた彼女は事前に記入するプロフィールカードを確認すると、最後に気になった相手の名を記入するカードを貴滉に手渡して、豪奢な両開きの扉のドアハンドルを握った。 「あのっ! 抑制剤の服用は?」 「中のフードカウンターにご用意してありますので、不安があるようでしたらお飲みください」 「分かりました……。ありがとうございます」  素直に頭を下げた貴滉をエスコートするように扉を開くと、短い通路の奥にもう一つ扉があるのが見えた。 「どうぞお入りください。あの奥が会場となっています。認証機にカードキーをかざしていただきますと開錠されます」  緊張した面持ちで、大理石の床に足を踏み出す。綺麗に磨かれた石が、天井から注ぐ柔らかな光を反射して窓のない通路を明るく照らしている。  貴滉がその扉の前に立った時、背後でドアが閉まった音が聞こえた。肩越しに振り返り、もう後戻りは出来ないと腹を括り、大きく息を吸い込んだ。そして、カードキーを認証機にかざし開錠する。  ゴクリと唾を呑み込んで、唐草をあしらった金色のハンドルを引くと、大きな窓に霞がかった高層ビル街が広がった。晴れて条件が良ければ富士山を望むことが出来るようだが、あいにく雲に隠れてその姿を見ることは出来なかった。  静まりかえったリビングルームに、恐る恐る足を踏み入れる。他の参加者の気配はまだない。少し早く来すぎたかとため息をつきながらフードカウンターを探そうと視線を巡らせた時だった。ふわりと鼻腔を擽ったスパイスの効いた甘い香りに誘われるように振り返ると、部屋の中央にL字で配置されたブラックレザーのソファの真ん中に座る男の姿に貴滉は驚いて息を呑んだ。  濃紺にシャドーストライプをあしらったスリーピーススーツを隙なく着こなし、白いワイシャツにグレーのネクタイを合わせている。組まれた脚先には傷一つなく磨かれたウィングチップの革靴。スーツに合わせてブラウン系を選ぶあたりがこなれ感がある。  膝の上で組まれた長い指にはボリュームのあるシルバーリング。そして……一寸もブレることなく貴滉を見据える淡褐色の瞳はどこまでも優しい。  彼は、貴滉が知っている男に良く似ていた。日本人離れした端正な顔立ちも、薄く形のいい唇も耳に揺れるリングピアスも同じ。ただ一つだけ違ったのは髪の色。透き通るような金色ではなく、落ち着いた栗色で長かった襟足もカットされている。  穏やかな面差しでありながら、雄々しい野獣を内に秘めたその姿に、貴滉は瞠目したまま唇を戦慄かせた。 「し……んり、さん……?」 「初めまして……じゃ、ないよな?」  意地悪げにそう言った唇が綺麗な弧を描いた。その場所から目が離せなくなる。次に紡がれる言葉は何か……期待している自分がいる。 「どうして……ここに、あなたが……」 「恋活……。The Oneが企画した一対一の恋活イベント」 「え?」 「お前と恋を始めようと思ってさ。ゆっくり……少しずつ、想いを重ねて」  組んでいた長い脚を解き、ゆっくりと立ち上がった彼は手にしていたプロフィールカードを差し出した。そこには真吏のパーソナルデータが記入されていた。 「真吏さん……」 「俺たち、お互いのこと何も知らなかったなって……。でもさ、それより先にもっと尊いもの見つけちゃたんだよ。発情しなくても「こいつを守りたい!」って思えるのって、本当の『運命の出逢い』ってヤツなんじゃないか」  貴滉の前に立った真吏は少し照れたように俯くと、上体をわずかに傾けて微笑んだ。 「お前がいなきゃダメみたいだ……。なぁ……貴滉、お前は?」 「俺は……べ、別に……っ」  少しでも気を抜いたらこれまで抑えてきたものが決壊してしまいそうで怖かった。唇を噛みしめたまま、顔を背けた貴滉の頬に真吏の指先が触れた。  ビクッと身を震わせ、視線だけを彼の方に向ける。そこには少し切なげな表情を浮かべる彼がいた。 「そっか……。あの咬み痕消えちゃったんだな……きっと。だから、魔法が解けた……。少し遅かったかな……」 「魔法……って」 「消える前に迎えに行くって言ったろ? お前を幸せにするために……」  強く噛んだ後で、薄っすらと滲んだ血を舐めとる舌の感触を思い出し、貴滉はまた体の芯が熱くなるのを感じた。慌てて自身のうなじに手を当てて、その場所に触れてみるが傷らしきものは残っていない。 「俺だけのモノにする魔法……。浅香から聞いた。自分のせいで俺を傷付けたとか……そんなことで、なぜ逃げる必要がある? お前の『恋の定義』は、全部夢や幻想で終わらせればリセット出来る……そういう定義か? 俺とお前が出逢ったのも、何度もキスをして抱き合ったのも全部幻想だったのか? 違うだろ……」  真吏は貴滉の腰をそっと抱き寄せると柔らかな声音で囁いた。 「惹かれ合ったから恋に落ちた……。本能じゃなく、心が呼び合った……そうだろ?」  上着のポケットを探って取り出したスマートフォンに指を滑らせた真吏は、液晶画面を見つめながらニヤリと笑った。その画面を貴滉の方に向けると、誇らしげに咳ばらいを一つした。 「この写真……覚えてるか? お前にとっては忌々しい思い出しかないかもしれないが、俺にとっては宝物になってる……」  訝しげに画面を見つめた貴滉は息を呑んだ。泥酔して眠る貴滉にキスをする真吏の写真――それは、初めて食事に誘われた夜に撮影されSNSにアップされたものだ。 「それは……っ」 「あの時は悪かったと思ってる。でも、今だから言えることもある。あれだけ警戒してたお前が無防備に眠ってるのを見て、正直……可愛いと思った。どうしてかな……。あの時……無性に自慢したくなったんだよ。クズって呼ばれてる俺でも、こんなに可愛いΩと付き合ってるんだぜ……って」 「真吏さん?」 「言っておくが……。俺は過去に一度も、遊びで付き合った相手を誰かに見せようと思ったことはないし、SNSにもアップしたことはない。後にも先にも……お前だけだ。お前と付き合ってるってのは言い過ぎだったけど……いずれはそういう関係になりたいという願望がなかったわけじゃない。一目惚れだったって言ったろ? あれは嘘でも偽りでもない、事実だった……。お前は信じていなかったけどな」  画像をそっと閉じ、大切そうにポケットに仕舞った真吏は照れたように笑うと「今更だよな」と言い訳がましく付け加えた。 「お前は俺の苦しみに気づいてくれた。このまま手を伸ばして助けを求めてもいいのか悩んだ。でも、お前の方から手が差し伸べられた……。この手を離したら……もう、俺は二度と這い上がれないと思った。だから……」  真吏の手が貴滉の手を強く握った。その力強さに驚きながらも、指先からジワリと入り込んでくる彼の優しさを感じて、ふるりと身を震わせた。 「――この恋だけは絶対に終わらせない。そう決めた……」  強い意志のある言葉が貴滉の胸を大きく揺さぶった。  今までに何度、諦めようと思っただろう。そんな自分が恥ずかしく思えてくる。  貴滉自身も、真吏と同じ気持ちでいたはずだった。それなのに、まるで悲劇の主人公のように、恋をする自分を責めてばかりいた。どうしてもっと早く素直になれなかったのだろう。言葉に……しなかったのだろう。 「真吏さ……ん。俺……あなたに逢うのが怖かった。もし、克臣の子を身籠ったらって思うと……あなたを好きでいる自分が許せなかった。一緒にいちゃ、いけない……そう思った」 「出来損ないだから?」  彼の言葉に弾かれるように顔を上げた貴滉は、その瞬間唇を奪われた。互いの舌先が触れるとピリリと電流のような痺れが走り、それがじわじわと熱となって体中に広がっていく。その熱さに吐息を漏らした時、ふっと真吏の唇が離れた。そして、触れるか触れないかの距離を保ったまま、彼は低い声で囁いた。 「俺も出来損ないだってこと忘れんなよ。でもな……出来損ないなりに考えた。お前を守り、幸せにする方法……聞きたい?」  貴滉が小さく頷くと、真吏は嬉しそうに笑いながら唇を啄んだ。チュッと小さな音を立てるたびに恥ずかしくなる。頬が熱くなり始めた時、真吏は貴滉を抱いたままソファに倒れ込んだ。 「え?――うわっ」  柔らかなレザーが貴滉の体を包み込むように沈む。そして、見上げた先には息を呑むほどの色香を纏った真吏の顔があった。押し倒された状態で、緊張に体を強張らせる貴滉を見下ろした真吏は真剣な表情で言った。 「俺は漆原家から追い出され、絶縁された。まあ、二度も警察沙汰になれば血の繋がった息子だろうと容赦しないだろ。そもそも俺は、アイツらの中では存在していなかった。これで良かったと思ってる。そして、クールウェブゲートは漆原興産の傘下から抜けた。これで自由の身になったってわけだ」 「これから……どうするつもりですか?」 「まあ、焦るなって。――で、藍吏が俺に託した夢を実現しようと思ってさ。The Oneと吸収合併し、これからは当社イベント企画開発部として動き出す」 「え?」 「The Oneのイベント企画力とうちのITに特化した能力・ブランド力を掛け合わせて、他にはない恋活・婚活イベントを作り上げる。種族・地位に拘ることなく自由に恋愛することを可能にするほかに、訳アリな人たちにも出逢い場を提供し、恋愛に対してもっと前向きになってもらえれば……って思ってる」  真吏の目がいつになく輝いているように見えた。未来を見据え、これから起こるであろう楽しみへの期待が込められた表情だ。  彼が犯した罪。自分を責めることで償えると思っていた日々……。しかし、それは何の意味もなさなかった。ただ自身を苦しめ、深みに沈んでいくだけの償いからは何も生まれない。  貴滉も同じだった。真吏を傷付けたことで自分に科した罰は、彼の存在をより大きくさせ、自分を苦しめるだけでなく彼をも苦しめていたことに気付く。  会えなかった三ヶ月という期間に、それぞれの心に生まれた新しい想いがここで一つになろうとしていた。 「――俺はもう代々α性に固執し、家柄というブランドを背負った漆原真吏じゃない。一人の男として、お前と一緒にいたいと思った」 「でも、俺は……っ」  貴滉は自身の下腹に手を置き、不安げに眉を寄せた。真吏とは一緒にいたい。でも――克臣の子を宿していたらそれは叶わない。たとえそれでもいいと言われても、一生罪悪感を背負ったまま彼と子供に向き合わなければならない。そのことでどれほどの苦痛を強いられるか、貴滉には安易に想像が出来た。  しかし、真吏は薄い唇の端を片方だけ上げると、下腹の上に乗せられた貴滉の手をそっと払いのけた。 「――お前は妊娠していない」 「え?」 「増田医師から直接聞いた。アイツが使った発情促進剤はもとより定期的に発情期を迎えている者にしか作用しない。お前が発情したと思い込んだのは、急激に促進されたホルモンがバランスを崩し暴走したせいだ。それに、男なら誰でも、物理的な刺激を与えられれば嫌でも勃起し射精する。脳は快楽を認識するが、子宮はイレギュラーな出来事だと判断し、異常収縮を繰り返してその機能を停止し閉ざしてしまう。そのおかげで、アイツの精液はシャットアウトされ、お前の子宮には届かなかった……」 「それは……本当なんですか?」 「増田医師が嘘を吐くと思うか? 産婦人科医の権威と呼ばれている人だぞ」 「でも……っ。薬が切れたあとも、体が火照って……。真吏さんにあんな……恥ずかしい姿を……っ」  バスルームでの痴態を思い出し、貴滉は頬が熱くなるのを感じた。触られてもいないペニスを勃起させ、あられのない声をあげていた自分。いっそ、まだ薬が残っていたせいだと言いたかった。  真吏もその時の事を思い出したのか、わずかに唇を綻ばせた。そして、困惑する貴滉の顔の横に手をついて体を重ねるように圧し掛かった。 「えっ。真吏さんっ!」  慌てる貴滉を尻目に首筋に顔を寄せた真吏は、スンと鼻を鳴らした。彼の息遣いが耳を掠める。それだけで心臓が激しく高鳴った。  先程のキスで燻っていた体の芯が再び熱を帯びる。彼の体から香るスパイスの混じった甘い香りは、オリエンタルな香水を彷彿させる。いつも使っているムスクとは違い貴滉により安心感を与える心地よいものだ。うっとりと目を細め、それを肺一杯に吸い込んだ時、下腹の奥の方がズクリと疼いた。  下半身に力が入らない。それなのに全身の血管が膨張しそうなほど心臓が早鐘を打っている。全身の感覚がさえわたり、真吏の息が耳朶に触れただけで唇が戦慄いた。 「――いい匂いがする。バスルームで嗅いだ匂い……。甘くて、絶対に抗うことの出来ない魅惑的な香りだ」 「真吏さん……何を言って……。ちょっと……え――?」  貴滉の腿に硬いものが触れた。それはスラックス越しでもハッキリ分かるほど熱く、大きくなっていた。それを誇示するかのように、貴滉の腿に何度も押し当てる。  真吏の息遣いが変わった……。まるで獣のように荒く、そして甘さを含んでいく。 「真吏さん、ど……したのっ」 「お前……自分が発情してるの、気付かないのかっ」 「え……? だって俺は発情しな――っ」 「してるんだよ……。この前も、そう……だった。今は、その比じゃない……濃度が……ちがう」 「真吏さんだって、発情しないんじゃ……っ」  長い睫毛に縁取られた真吏の瞳の中にある光彩がだんだんとその色を濃くしていく。緑がかったその目は飢えた野獣のように妖しい光を宿しながら貴滉を見据えていた。  自分が小動物になったように錯覚した貴滉は、咄嗟に彼の胸を押し退けようとしたが力が入らない。それどころか、自身の下半身にも変調が訪れていることに気付き息を呑んだ。 「いつからだったか……。お前とキスするたびに、自分が抑えられなくなってた。お前の匂いにやけに敏感になって……体が求めて」  ブラックレザーのソファを掴んだ真吏の爪が長く伸び始めていた。そして、苦しげに呼吸を繰り返す唇の端には、今までになく伸びた犬歯が見え隠れしている。  元より狼の血を濃く継いできたα性。発情時にはその身体も獣と同じように変化すると言われている。しかも、その血が濃ければ濃いほど狼の様相をよりハッキリと露わにする。 「真吏さんっ」 「――良かった」 「え? 何が? 何が良かったの?」 「お前が……アイツの前で発情してたら……。俺、マジでアイツを殺していたかもしれない」 「そんなこと、絶対にない……。俺は……俺が好きなのは、真吏さんなんだからっ!」  声を上げた瞬間、貴滉の栗色の髪がふわりと揺れて全身が粟立った。それまで体内でチラチラと揺らいでいた炎が一気に大きくなったような気がした。体中が熱くなり、腰の奥で逃げ切らない熱が渦を巻くように暴れはじめる。息が出来ないくらい胸が苦しい。でも、それまで貴滉が感じていた苦しみとはまるで違う、高揚感に溢れた心地よい痛み……。 「はぁ……はぁ……くるし、い! 体が……変だっ」  真吏が放つ香りがより強くなり、貴滉は酩酊感を覚えた。それなのに、意識は異常なほどにハッキリしている。彼の気配、触れ合う感触、声、息遣い……すべてが貴滉の脳へダイレクトに入り込んで来た。まるで、魂を喰らわんほどの勢いで。 「怖い……。真吏さんが、俺の中に……入ってくるっ」 「お前だって……んあぁ……何なんだ、これはっ」  貴滉の兆しに自身のモノを擦り合わせながら低く唸るような声をあげた真吏は、グッと拳を握りしめ奥歯を噛みしめると渾身の力で上体を起した。 「貴滉……。お前を俺のモノに……したい。生涯消えない……魔法を……。咬み痕を、残してもいいか?」 「真吏さん……」 「も……限界だっ。全部、俺に……よこせ! 俺と番って……くれ。愛し合いながら……恋をやりなおそうっ」  その答えを出したのは、貴滉の目から流れた涙だった。睫毛を濡らすその雫が、頬に幾筋もの痕を残し落ちていく。 「逃げるなよ……。絶対に逃がさないけどな……」  たった一人の男に支配される悦び。積り積もった思いの丈を真正面からぶつけられる。貴滉は、それを今度こそ全身で受け止めようと決めた。そして自分も、彼にありったけの想いをぶつけようと思った。  もう誰に遠慮する必要はない。後ろめたい想いもない。自分の想いに素直になれば、それでいい。  貴滉が震える指先を伸ばした。その手を真吏の力強い手が引寄せる。ソファから起された貴滉は軽々と抱き上げられ、全身を焼き尽くす灼熱に浮かされたまま寝室へと運ばれた。

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