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タイムマシンを探しに行こう_5

 飛び立つ飛行機が、またひとつ夜空の彼方へ消えて行く。同じものに乗って翔平がここを去るのなら、きっとそれが一番いいのだ。  俺が欲しいものを生まれた時から全て持っている、妬ましい程に完璧な理想のアルファ。翔平のようになりたいと、彼に近づきたいと、ずっと努力をしてきた。俺が夢見たのは、彼に愛されて庇護される立場ではない。キラキラしい男の隣で堂々と友人だと言える、そんな人間になることだ。 「さよなら、翔。お前のこれからの人生が、ずっと輝かしいものであることを祈っている」  顔を伏せたままの翔平は返事をしなかった。どれくらい飛ぶ飛行機の軌跡を見ていたのか。やがてエンジンがかけられ、冷たい夜の空気の中を車はゆっくりと出発した。  到着したマンションの入口で別れるとき、翔平の目にはもう泣いた跡など残っていなかった。じゃあさよなら、とだけ言って去った彼が、またと言わなかったのが返事なのだと思った。  すぐに週末は過ぎて、翔平はまた海の向こうへと行ってしまった。なんだか夢、そう、悪夢のような一瞬の邂逅だった。  それからしばらくは、平穏な日常が戻ってきた。続いていた体調不良も治り、時おり突撃をかましたお坊ちゃまのことで揶揄われることはあるものの、概ね以前の日常に戻りつつあったある日、それは時限爆弾のように俺の人生に降りかかってきたのである。 「門脇、また食欲落ちてねぇか?」 「ちょっと良くなっていたんですけど、ぶり返しちゃったみたいで。今度はなんかこう、胃が圧迫される感じがして食べられないんですよね。腹の調子が悪いわけでもないのに、なんか腸が動いてる気もするし」  ほぼ手付かずで箸を置いてぼやくと、医者に行った方がいいぞと坂田検事がアドバイスにもならない返事をくれる。  医者にかかる時間があるなら、とっくの昔に行っている。それに吐き気が強かった頃に内科にかかったが、二時間近く待ったあげくに渡されたのは胃薬と漢方薬だった。もう一度行ったところで、また同じ薬を渡されて疲れるだけだろう。 「気を付けろよぉ。刑事部の最上さん、お前と同じようなこと言ってたんだけど、仕事中に大量の血を吐いて救急車で担ぎ出されたんだ。大穴開いてたらしいけど、それでも病名は胃潰瘍だろう。出世は絶望的だよ」 「……脅かさないでくださいよ」  いまの俺にはあまりに笑えない話に、口元を歪めるしかない。そうでなくても翔平のおかげで醜聞を立てたばかりなのだ。これ以上マイナスになるような面倒を起こしては、出世を夢見るどころか足元が危うくなる。  かといって、通院のために有給を取らせてなどくれないのが、この国の組織という存在の大いなる矛盾なのだ。土日も受け付けている病院を探すしかないが、想像しただけでしんどくなる一日仕事になるだろう。 「あら、門脇くん。胃の調子悪いの?」  重い気持ちでスマートフォンで検索していると、通り過ぎかけていた人の気配が立ち止まって声を掛けてきた。  隠していたわけでもないので、検索しかけていた文字が見えたのだろう。返事をしようと顔を上げると、ランチの乗ったトレイを持つ立ち姿も美しい刑事部の女傑、香西嶺検事がそこに居た。 「こ、これは香西検事、お久しぶりです」 「坂田検事もお変わりなく。相変わらず、噂話がお好きなようですね」 「いやいや、とんでもない。こいつが胃の調子が悪いって言うのに医者にかからないものですから、放置すると大変なことになるぞーって教訓をですねぇ」 「あら、そ」  坂田検事の軽口を切って捨てると、女史のキリッとした視線がこちらに注がれる。香西検事はいかにもアルファといった理知的な女性で、鬼のような刑事部の仕事量を軽々とこなすと同時に、いつ見ても隙なく美しい。  既に既婚であるのが残念だが、女王さま然とした目上の女性に見下ろされると変な意味でも緊張してしまう。 「あの、何か……」 「あなた、本当に胃腸の調子が悪いの」 「え、はい。一度内科にかかったのですが、少し荒れているだけだろうと薬を渡されて終わってしまったので」 「ふぅん、その時に尿検査はした?」  キツめの美人の口から出た尿という単語に意味もなく焦ってしまうが、質問している香西検事の表情は至って真面目だ。なんだろうと思いつつ、数ヶ月前の記憶をなんとか掘り起こしてみる。 「それが、病院に行くこと自体が久しぶりで、初診でその手の検査があることを失念していました。結局しませんでしたが、それが何か」 「そう。いまの段階ではっきりした事は言えないけれど、もう一度病院に行った方がいいと思うわ。なるべく丁寧に診てくれる、評判のいいお医者さまでね」 「は、はい、ありがとうございます。なんとか時間を見つけて行ってみます」 「早い方が良いわよ。それじゃあ」  こちらを煙に巻くようにそれだけ言うと、香西検事は残り香を残して去ってしまった。柑橘系の爽やかな匂いなのに、やはりそれが胃を刺激してまたムカムカと不快感が湧き上がってきてしまう。 「坂田検事、香西検事のお言葉もありますし、来週にでも有給を取らせてください」 「お、おう。なんだか知らんがそうしろ。一日くらいなら俺がカバーする」 「ありがとうございます」  香西検事の言葉に不安になったのは、坂田検事も同じだったようだ。  さすがは刑事部の鬼と感謝しつつ、今度こそ腕の良さそうな医者を探そうとその時の俺は心に誓ったのだった。  坂田検事が人一倍鈍かったのか、香西検事の観察眼が鋭すぎたのか。それともやはり、あの美しさで二児の母という経験のなせる技だったのか。詳細は不明ではあるが、結果として香西検事の見立ては核心をついていた。  相変わらず微妙な気持ち悪さを抱えて丸椅子に腰をかけている俺の前で、人の良さそうなアラフォーくらいの医師が困ったように検査結果の数値を眺めている。  胃腸の診断って、一般の尿検査で分かるものだっただろうか。いやいや、俺の知らない間に出来るようになっていたとしても、カメラとか飲むまでは確定ではないだろう。  あまりに不穏な医師の態度に、最悪の事態を想定してしまい冷たい汗が背中を伝う。書類に向けられていた眼鏡越しの視線が、ゆっくりと上げられてこちらを射た。  どうしよう、ガン保険入ってない。あのときの勧誘員を断らなければと後悔しても後の祭りだ。 「門脇さん、あなた妊娠していますよ」 「そんなッ、うちにはまだ面倒を見なければならない家族が居るんです。ステージはいくつなんですか、手術すればまだ生きられますか、先生はっきり言ってください!」 「いえ、病気じゃなくておめでたです。ここじゃ専門外なので、紹介状を書きますね。このあとご予定がなければ、すぐに産科に行かれることをお勧めしますよ。おそらく中期に入ってるんじゃないかな」 「……え?」 「ですから、妊娠中期。最初のは初期の悪阻で、今のは赤ちゃんが大きなってきて胃が圧迫されてくる吐き気なんじゃないかと。詳しくは産科の先生に聞いてください」  会計の時に紹介状はお渡ししますとだけ言うと、穏やかな仏顔の先生は頭が真っ白な俺を診察室から追い出したのだった。

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