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ハリネズミの憂うつ_1

『それはまた、本当に珍しいね。父さんがそっちに行った方がいいかな』 「九時に駅前で待っているから、母さんたちには知らせずに来てくれ。俺と会うとか、言わないで欲しいんだ」 『分かった。理由は会った時にでも聞かせろよ。それじゃあ後でな』  明るい調子でそう言うと、父はあっさりと電話を切った。もっと追求してくると思っていたのに、なんだか拍子抜けした気分でこちらも準備に取り掛かる。  顔を洗いに洗面台の前に立つと、徹夜で床に座り込んでいたせいか酷い顔の男がそこに居た。不摂生への抗議のように、また腹の奥が微かに動く気配がする。  深くて長いため息をついて、冷たい水で乱暴に顔を洗う。とりあえず第一関門は突破した。アルファ以外を排除しようと躍起になってきた俺の人生で、こんなことを相談できるのは元オメガの父親だけだ。軽蔑してきた人間に最低最悪の弱みを見せることになるのは屈辱的だが、この状況でそうも言っていられない。  あえて普段は外出時には着ないラフな服を引っ張り出すと、髪は手ぐしで整えただけでキャップ帽を目深に被る。  普段あまりしない格好であることを確認すると、覚悟を決めて玄関のドアを閉めた。  駅前に着くと、いつもは時間にルーズな父親が先に到着して待っていた。それにしても、あの格好はなんだ。紫の柄シャツにサングラスという珍妙な格好に、先ほどから行き交う人にちらちらと見られているではないか。  舌打ちをしてクラクションを鳴らすと、こちらに気づいた父親が手を振りながら近づいてきた。窓を開けて早く乗ってと小声で言うと、はいはいと返事をしてジゴロのようなおっさんが助手席に乗り込んでくる。 「時間ぴったりだね」 「そっちこそ珍しい。それより何だその格好。めちゃくちゃ目立ってるぞ」 「これから行く所にはこっちの方がいいと思って。ちゃんとトイレで着替えたよ。お父さんだってちゃんと考えてるんだから」 「ああ、そう。それは知らなかった」 「で、父さんに相談ってのは?」  車が出発をすると同時に投げられた本題に、そのつもりで来たのに言葉に詰まってしまう。  言うのか、この父親に。散々バカにして、存在を無視するような態度すらとってきた相手に、妊娠したかもしれないから助けてくれと今さら縋るのか。 「そ……や、なんと、言うか……つまり」 「うん」  ゆっくりで良いよ、と言外に含まされたり空気に、不覚にも目の奥がツンと痛む。運転のため視線は前を向いているのに、父がどれだけ優しい顔をしているのか分かってしまった。  まだ幼かった頃、どうして友だちから遠巻きにされるのか分からなかった。好戦的なアルファに虐められたことも一回や二回ではなく、負けて泣きながら家に帰ったことだってある。  そんな俺を、父はいつも笑って抱きしめてくれた。抱きしめて、傷の手当てをして、好物のお菓子を出してきて、馬鹿みたいに甘やかしてくれた。 「ッ、ごめん、ちょっと」  予約時間にまだ余裕があることを確認すると、ちょうど目に入ったコンビニの駐車場に車を停める。運転をしながら話すには、自分の精神状態が危ない気がした。 「ちょうどいいや。お父さん朝ご飯まだだから、何か買ってくるよ」  そう言って車を降りると、しばらくしてから父はコーヒーとパック入りのゼリー飲料を買って戻ってきた。 「はい、亮介の分だよ」  口を開けてゼリー飲料が差し出されると、グレープフルーツの香りが鼻腔をくすぐる。匂いに吐き気を催すようになって久しいのに、爽やかな香りに胃が空腹を感じた。 「ありがとう」 「これ、美味しいよね」  同じものを並んで口にする父を、横目でちらりと伺い見る。あれほど毛嫌いしていた父親の纏う柔らかな空気に、気がつけば俺はこれまでのことをボロボロと話してしまっていた。 「そうかぁ。思っていたよりハードだったけど、亮介が僕に電話をしたのにも納得がいったよ」  相手があの榊翔平であることはなんとか伏せたが、アルファの匂いに当てられたあげく妊娠してしまったかもしれないだなんて、親に相談するには過激すぎる内容に居た堪れない。 「よし、運転を変わりなさい」 「え、なんで?」 「父さんの知り合いの医者の所に行こう。安心して、ちょっとアングラだけどギリギリ違法じゃないから」 「いや、病院はちゃんと、予約してあるからさ」 「職場にバレたくないんだろう。大丈夫、父さんこれでも歌舞伎町の顔だったんだから」  初めて見る自信満々な父親の顔に、俺は気がつくと頷いていた。

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