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ハリネズミの憂うつ_2
独特の空気が支配する夜とは違い、土曜日の午前中の新宿歌舞伎町はいたって普通の歓楽街といった雰囲気だ。
空いているパーキングに車を止めると、こっちだよと父親が先に立って歩いていく。彼のよく知る頃の町とは変わっているだろうと思うが、前を歩く背中に迷いは見られない。
ケバケバしいネオンが煩そうな店の角を曲がり、ひと一人通るのがやっとの細い路地に入ると、そこには俺の知る東京とは別世界が広がっていた。
夜なら隠れているだろう、古ぼけた木戸やトタン屋根の店。そこだけやけに目を引く鮮やかな朱色の柱や階段が、東京というより大陸のスラムのような雰囲気を醸し出している。
「ここの二階だよ」
ドン引きしている俺とは逆に、父親は足取りも軽く狭い路地を歩いていく。
じっとしていると静まりかえった店の奥から視線を感じ、そそくさと小さな子どものように父親の後追った。錆の浮いた赤い階段を駆け上ると、かんかんと耳障りな音が周囲に響き渡る。
「ちょっと、父さ……」
「和馬ちゃん、起きてるー?」
話しかけようとした声が、階段の突き当たりにあった安っぽいドアを叩く音にかき消される。
呼出しボタンの壊れたインターホン上のには、サインペンの手書きで『澤井診療所』と書いた表札があり、怪しさ以外の要素が何ひとつ見当たらない。
「こら和馬ちゃん起きなさい。もう昼が来ますよッ」
褒めていいものか、紫の柄シャツでドアノブをがたがたと動かす父親は、怯えている俺とは違いこの町の空気に溶け込んでいる。
「うるせぇぞっ、診察時間外だ!」
いきなり雷のような声を浴びせられたかと思うと、薄いドアが外れそうな勢いで開く。
飛び出てきた人物をひと目見て、俺は背を向けて走り出したくなった。秋が来るというのにアロハと短パンという格好だけでも意味不明なのに、つるっつるのスキンヘッドとぶっとい金ネックレスまでプラスされては、どこから見ても立派な闇医者だ。
「け、健ちゃん?」
「和馬ちゃん、久しぶり。元気そうだね」
「えー、え、え、健ちゃんだぁ。やだ、どうしたのよ突然、嬉しいー!」
がっしりと熱い抱擁を交わす二人に、歌舞伎町初心者の俺は呆然と立ち尽くすしかなかった。
「来るなら来るって連絡ちょうだいよ。で、これが紹介状ね。どれどれ」
映画に出てきそうな歓楽街の裏路地にある診療所は、外観とは裏腹に中は落ち着いたインテリアでまとめられていた。
ラグビー選手のような厳つい体型の澤井医師は、預かってきた紹介状を開いて小さく頷いている。
「じゃあまず、エコーしてみましょうか。経腹で見えると思うから、そこのベッドに仰向けで寝て。ここに来る前になにか食べた?」
「ゼリーを少し。最近あまり、固形物が食べられなくて」
「可能とはいっても、男性は身体の作りが妊娠向きにはできてないからねぇ。たいていの人は妊娠期間中、食べられなくなるものよ。ちょっと脱水気味みたいだし、あとで点滴しましょう」
「はい、お願いします」
診察用のベッドで仰向けになると、立っている時よりも腹の奥に何かの存在を感じてしまう。シャツを上げて指示されるままにしたも少しずらすと、ヒヤリとしたゼリーを腹部に塗られる。
「それじゃあ、じっとしててね」
ゼリーの上に置かれたプローブが動き、医師が見つめる先の画面に白黒の映像が映し出された。レントゲン写真と同じで、一見したところ素人には何がなんだかよくわからない。
「あー、うん、元気に動いてるね」
「げ、んきに」
「見やすいよう角度変えるよ。ほら、ここが頭で、あ、いま手を動かしてる」
頭が真っ白になるとはこのことだ。白黒の世界でもぞもぞと動く、頭でっかちの何か。想像よりもずっと人がましい姿をしたその存在に言葉が出てこない。
「頭の横幅と大腿骨の長さからみても、妊娠五ヶ月くらいで間違いないかな。うちは血液検査と尿検査は結果待ちになっちゃうけど、赤ちゃんは問題なさそうだよ」
「はぁ……そう、ですか」
「診察は以上だけど、せっかくだからお茶でも飲みながらゆっくり話しましょ。ね、健ちゃん」
「そうだね。久しぶりに和馬ちゃんのお手製スイーツも食べたいし」
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