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ハリネズミの憂うつ_3

「まかせて、と言いたいんだけど、急なことだから材料があるかしらねぇ。そうだ、ちょうど林檎ジャムを作ったばかりだから、アップルパイにしましょう。少し邪道だけど、冷凍パイシートがあればすぐにできるし」 「いいね。それじゃあ僕が買ってくるから、亮介はゆっくり休ませてもらいなさい。ついでに何がいるものある?」 「亮介くんには消化によくて冷たいものがいいわね。糖分の少ないゼリーを作るから、百パーセント果汁のジュースにゼラチンか寒天をお願い。あと果物ね。中期の食欲不振には、食事は少しずつ回数を増やすのがポイントよ」 「了解。それじゃあ、息子のことよろしくね。亮介も先生の言うことちゃんと聞くんだよ」 「……はい」  まるで幼い子ども相手のようにそう言うと、父親は鼻歌を歌いながら診察室を出て行った。  たったいま目にしたばかりの現実に気持ちがついていかない。呆然とベッドに寝転んで天井を眺めていると、その傍で厳ついおネェ先生がテキパキと点滴の用意を進めていく。 「アルコールのアレルギーは大丈夫かしら」 「はい」 「それじゃあ、三十分くらいで終わるように調整するわね。カーテン閉めておくから、少し寝なさい」  あっという間に針を刺して点滴をセットすると、先生はブランケットをかけてくれた。見た目は怖いけれど優しい人だなと、弱くなった心が絆される。  静かになると聞こえてくる街の喧騒にぼんやりと耳をすませながら、どうしようと堂々巡りの問答を繰り返す。  もしかしたら間違いかもしれないという微かな希望は、たったいま砕け散った。これからこの子は、どんどん大きくなってやがて生まれてくる。  仕事は、仕事はどうすればいいのだろう。産休をとっているのを見たことがあるのはアルファの女性ばかりだし、そもそも地検にオメガの男性などいないので前例が分からない。  何より一番の問題は、俺が未婚だという事実だ。未婚の親で、しかもアルファ性判定を受けながら妊娠した男。確実に晒し者コース。出世して家の汚名を雪ぐなんて夢のまた夢。 「……詰んだ」  それは幼い頃からの人生の目標が、音を立てて折れた瞬間だった。  いつの間にか寝入っていたのか、甘い香りに目を覚ますと、点滴はすでに取り外されていた。  脱水状態が軽減されたからか、いつもより食べ物の匂いを気持ち悪く感じない。ゆっくりと起き上がってベッドを降りると、物音に気がついたのか澤井先生が診察室に入ってきた。 「どう、気分は」 「少しましです。俺、長いこと寝ていましたか」 「二時間くらいかな。疲れていたみたいよ、寝不足だと余計に気分悪くなるから、寝るのは無理にでも夜は横になって目をつぶって。健康な時とは違うんだから、労わらなくちゃ駄目よ」 「とても……そんな気分には」  漫画やドラマで見た妊婦のように、無意識に下腹部を撫でてしまう。それでも、俺にとってコレは人生の重荷でしかない。いっそ無理がたたってと、酷いことまで考えてしまう。 「あのね、健ちゃんも承知の上で連れてきたんだと思うから伝えるけど、うちは産科、内科、小児科で看板出してるの。場所柄、簡単な外科処置も受けてるけど、アタシの本業は産科医。だから最後まで見てあげることも可能だし、望まない妊娠の処置をすることもできる」 「え」 「貴方はいま妊娠五ヶ月。母体保護法で二十二週までは中絶が認められるわ」  未婚の人間にはありえる選択肢は、なぜかその時まで俺の頭にはなかった。ひゅっと息を飲むと同時に、振り返ることなく去って行った翔平の後ろ姿が思い出されて、鈍くて重い痛みが腹部に走った気がした。

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