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ハリネズミの憂うつ_5

 保冷バッグに入ったゼリーを手渡しながら、二週間に一度は健診に来なさいと澤井先生は言った。  正式な手帳はなくても良いからねと一言添えてくれた先生の手は、やっぱりとても温かかった。  父親の運転する車に乗り、人が増え始める前に歌舞伎町を後にする。ゆっくりと流れていく町の景色に、そういえば人に運転を任せるのは久しぶりだなと思う。  翔平のカブリオレに乗ったことは、彼をあの場から引き離す目的があったのでノーカウントだ。  十八歳で免許証を取ってから、誰かの運転する車には乗らなくなった。行き先もスピードも乗り心地も、全て自分で決めて動きたい俺には、助手席は居心地が悪い場所以外の何者でもなかった。 「そうだ。亮介の部屋、来客用の布団とかあるかな」 「布団はないけど、ソファーはベッドになるタイプだよ。泊まるの?」 「それなら毛布を積んできたから大丈夫だね。お父さん、暫く亮介と暮らすから」 「えっ?!」 「ご飯も食べられない息子を一人にはしておけないでしょう。家に帰ってきたら一番安心だけど嫌なんだろうし、亮介のマンションならお父さんの通勤にも支障はないからね。和馬ちゃんからレシピも色々貰ったし、大船に乗ったつもりで定時帰りのお父さんに頼りなさい」 「いや、それ自慢できることじゃないから」  とうの昔に、いや最初から出世コースなど縁のない人だが、流石に父親の歳で毎日定時帰りを威張られるのは情けない。  そもそも、黙っていればイケメンだと近所の奥様方にも評判の容姿と、愛想が良い性格だけが取り柄のような人が出来る仕事とは、どんなことなのだろう。  父親の職場は祖父が昔馴染みに頼み込んで雇ってもらった弁護士事務所だ。そこで何人もの年下弁護士にアゴで使われているのかと思うと、仕方がないとはいえ息子として悲しくなる。 「別にいいよ。俺は一人で平気だって」  アルファになれたあの年から、ずっとそうあろうと生きてきたのだ。誰かに頼らなければ生きていけないような、父親のような人生はまっぴら御免だと公言して憚らなかった。  グレーゾーン扱いで診てもらえる病院を紹介してもらえただけで御の字だ。自分で蒔いた種は自分の手で始末しなければならない。親とはいえ、これ以上頼るわけにはいかないのだ。 「一人じゃないでしょう」  思いの外きっぱりと言われた言葉に、反射的に口をつぐんだ。いつも穏やかな、悪くいえばヘラヘラしているだけの父親の真剣な声に、反抗的な子どものように唇を噛むことしかできない。 「亮介は本当に強い子だ。今までよく頑張ったね。でもこれからは、お父さんも一緒だ。亮介さえ良ければ、母さんにお爺ちゃん、お婆ちゃんだっていつでも力になってくれる。それが家族でしょう」 「っっ、母さんはともかく、爺さんに知られたりしたら血管切れちまうだろう。絶対に門脇の家を再興してやるって約束したのに……俺」  突然ぽんと頭に置かれた左手の感触に、ふと遠い昔のことを思い出した、  自分を取り巻く不条理の原因が両親だと知るまで、俺はかなりの父親っ子だった。どんな時も優しく受け止めてくれる父親が、大きくて温かな父の手が大好きだった。 「お爺ちゃんは、そんな狭量な人じゃないよ。とっても家族思いで、優しい人だ」 「怒られてばっかりの親父がよく言うよ」 「でも、母さんとの結婚を許してくれた。お義父さんが大事にしてきた美咲ちゃんをオメガにしても、子どもを産むことを許してくれた。おまけに父さんの仕事先を探してくれて、家にも住まわせてくれてる。めちゃくちゃ良い人だろう。そんな優しいお爺ちゃんが、困っている可愛い孫を見捨てるはずがないだろう」  俺はなんて、恩知らずで生意気な、自分勝手な人間なのだろう。ずっと見下すような態度をとってきた息子なんて、俺が親ならとっくに見放している。都合の良い時だけ泣きつくなと、冷たく拒絶している。 「泣かない、泣かない。ほら、早く帰ろう」 「な、泣いてねぇし」  長年心の中に巣食っていた、自分の人生の不条理は両親のせいだというわだかまりが、ホロホロと砕けて小さくなった気がした。

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