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さよならとこんにちは_1

 目を逸らしていた真実を突きつけられたからか、一人きりではない環境が安心感をもたらしたのか。何を食べても吐くような症状は少し落ち着いて、俺は小康状態を保てるようになった。  とは言っても、選択をしなければならない期日が先に伸びたわけではない。日毎に成長していく存在と、俺は真摯に向き合わなければならなかった。 「門脇検事。次の裁判ですが、今日の午後に検事が参考人宅で直接お話を伺うとのことでしたが、変更なしでよろしいでしょうか?」 「あ、ああ、大丈夫です。ご迷惑をおかけしてすみません」 「いえ。ずっと顔色が悪かったので、病院に行かれると聞いて逆に安心しました。では先方には三時でお約束してありますので、よろしくお願いします」 「ありがとうございます」  忙しそうに立ち去る検察事務官に礼を言うと、固まった背中を一度伸ばしてからパソコンに向き直る。  少々身体が辛いからといって、刑事部が起訴した事件の裁判は待ってくれない。訪問前にもう一度資料を読み直しておこうとファイルを開くと、見覚えのある住所が目についた。 「ああ、そういえば実家の近くだっけ」  事件そのものは、それほど珍しくもない痴情のもつれによる傷害罪だ。  検事の仕事をして初めて気がついたが、傾向に偏りはあっても感情に負けて罪を犯してしまうことに性差などない。アルファもベータもオメガも、なぜそんな事をと言いたくなる理由で、人は簡単に罪人になる。  そしてそれは、一時の本能に負けた結果、いま生きている命の選択を迫られている自分も何ら変わりはない。  とにかく、仕事をしている時はそれに集中だ。一度だけ目頭を押さえて気持ちを切り替えると、目の前の資料に意識を向けた。  参考人との話を終えて外に出ると、長くなってきたとはいえ外は夕闇に包まれていた。  ここまで車で送ってくれた事務官は、急な呼び出しがあったこともあり先に帰ってもらった。表通りに出てタクシーでも捕まえるかと、見知った住宅街を歩いて行く。 「寒いな」  昼間が暖かったうえ車移動だったので、ついコートを置いて出てきてしまった。冷たくなってきた空気に足を早めたところで、後ろから追い抜いていった車がブレーキランプをつけて停車した。  立春と書く季節とはいえ、この寒空の下でカブリオレはないだろう。何でも趣味を優先する奴はネジが飛んでるなと思いながら、ガレージシャッターが開くのを待っている車の横を通り過ぎようとして足が止まった。  考えるよりも先に後ろに下がった足が、アスファルトに引っかかってほんの少しよろめく。  やはりオープンスタイルが寒いのか、運転席でハンドルを握る男の手は黒い革手袋に覆われていた。前を見ていたその顔が、ほんの少しだけ傾いて隣に座る女性に話しかける。  ふわふわした銀色の毛皮と、それと同じ素材の帽子は少し趣味が悪いが、見えた横顔には可愛らしい丸みが残っている。まだ年若い、下手をしたら二十歳前後かもしれない。楽しそうに響く女性の笑い声は、鈴の音のように高く澄んでいた。  シャッターが開いたガレージの中に入ろうと動き出した車に、慌てて背中を向けて元来た道を引き返す。大丈夫だ、あっちはこちらに気付いていなかった。  いやそれとも、気付いていたけれど知らんふりをされたのだろうか。吹き付けた風の冷たさに縮めた身体が、芯から凍えて震えが走る。 「カブリオレ……処分するって言ってたくせに」  嘘つき、と呟いてしまった自分が、情けなくて鬱陶しくて吐き気がした。

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