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さよならとこんにちは_2

 久しぶりに殆どの夕食を残すと、父親は少しだけ困った顔をしてから皿を下げた。  定時上がりとはいえ、仕事を終えてからわざわざ作ってくれてのに申し訳ないと思う。けれどなんとか本日の業務をまとめて帰ってきた身体は泥のように疲れていて、何だかもう座っていることさえ怠かった。 「亮介、少し休んだら今日はもう寝なさい」 「……そうする」  食べて早々にベッドにしたままのソファーで丸くなるだらし無さにも、父親は特に注意などしない。  朝晩の食事の支度に、昼は弁当まで。口に出来るものに制限のある俺に合わせて小まめに対応しながら、掃除や洗濯までこなしてくれる父が生まれて初めてスーパーマンに見える。  そんな甘ったれた環境にいるおかげで心まで子どもに戻ってしまったのか。ほんの数刻前に見た光景にまだ胸が痛くて、膝を抱えて自分で自分を抱きしめる。 「お茶が入ったよ」 「うん」  テーブルに置かれたマグカップからは湯気が立ち昇り、牛乳と蜂蜜の入ったルイボスティーの甘い香りがする。  せめてこれくらいは胃に入れなければと思うのに、重い身体を起き上がらせることができない。 「なぁ亮介。お父さんひとつ聞きたいことがあるんだけど、いいかな」 「なに、改まって」 「もしかして、お父さんも知っている人かい」  あくまで優しい口調で尋ねられた内容に、すぐに否定の言葉を口にすることが出来なかった。  ためらいは肯定と同じだ。そうか、とだけ答える父親には、相手が誰なのかなんてとっくにバレていたのかもしれない。 「なんで急に相手のことなんて気にするんだよ」 「亮介があんまり落ち込んでるからさ、もしかしてその人と会えたりしたのかなと思って」 「会えたというか、見かけたというか」  それも若くて可愛らしい女性を助手席に乗せて帰ってきた所を。  せめて車は別のにしておけよと、身勝手だが腹が立った。いつ帰国したのか知らないが、結局ほいほいと他の人間を乗せるなら、俺が嫌なら処分するとか初めから言うな。 「相談はしないのかい。相手の居場所が分かっていて連絡もとれるなら、一度きちんと話をした方がいい。一人で判断するには、重い問題だろう」 「無理だよ」  伸ばされていた彼奴の手を叩き落としたのは、他ならぬ俺自身だ。家が決めた人と婚約をしたかもしれない相手に、今さらのこのこと子供が出来たなどと言いに行ける訳がない。  それに相談したところで、結論は変わらない。一緒に飛行機の軌跡を眺めた夜ならいざ知らず、結果的にはひと晩寝ただけの関係の幼馴染みのことなんて過去の汚点のようなものだ。  翔平の綺麗な顔が当惑に陰るのを見たくなかった。あの耳障りの良い声で、当たり障りのない謝罪や誠意の言葉を聞きたくなかった。  そんなものを与えられるくらいなら、一人で悩んで一人で背負い込む方がずっと楽だ。目を瞑ると感じる微かな動きに、無意識のうちに腹を守るように丸くなる。 「彼奴と俺は、もともと住んでいる世界が違うんだ。相談したら親身になってはくれるだろうけど、産んでくれと言われたところで、今の俺に頷くことはできない。結局、俺自身の選択でしかないんだよ。それならなにも言わずにおく方が良いだろう」 「亮介、本当にそれでいいのかい」  どこか辛そうな声でそう言われると、心臓がキュッと痛くなる。  俺にだって、本当のところは分からない。ただもしも選んだ道を後悔するようなことがあるなら、俺はそれを翔平に背負わせたくなかった。 「次に澤井先生の所に行くときに、色々と相談してみるよ。それで、答えを出す」 「和馬ちゃんになら、話せそう?」 「うん」 「そうか。なら、良かった」  ぽんぽんと優しく頭を撫でる手に、今日この部屋に父親が居てくれたことが心の底からありがたかった。

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