26 / 45
さよならとこんにちは_3
二度目の歌舞伎町は、寒い雨の日になった。
「あらあら、嫌な天気ねぇ。冷えちゃったでしょう、早く中に入って」
人の顔を見るなり、診察室ではなくリビングへと招き入れてくれた澤井先生は、相変わらず半袖のアロハシャツスタイルだった。
適温にされた室内は、蒸気を吹きだす加湿器が爽やかなアロマの香りを漂わせている。
「午前の患者さんは亮介くんだけだから、ゆっくりして行って。少し温まってから診察しましょう」
「ありがとうございます」
もこもこのブランケットで暖をとりながら血圧を測り終えると、体重測定を済ませてから診察室へと移動する。
前回と同じようにエコーを受けると、画面を見ただけではよく分からないが、澤井先生はあちこち角度を変えて測定をしながら順調ねぇと小さく呟いた。
「前回の血液と尿は問題なし。今日採ったものも何かあった場合だけ連絡するわね。体重が落ちているのが気にはなるけど、こればっかりは悪阻がある限り難しいわね。食べられなくても、水分だけは意識的に多くとるようにして。質問がなければ、診察タイムは以上よ。あっちでお茶にしましょうか」
「はい」
「ノンカフェインコーヒーでカフェオレでも作りましょうか。それとも炭酸水の方がスッキリするかしら」
「カフェオレが飲みたいです」
「オーケイ」
広いとは言えない空間なのに、ここはどこも不思議と落ち着いて寛げる。大きな体でゆったりと動く澤井先生の空気が、そうさせているのかもしれない。
「先生はどうしてここで医者を始めたんですか」
「んー、まあ珍しくもない話かな。うちは親族みんな医者って家系なんだけど、アタシはどうしても病院って組織に馴染めなくてさ。結局我慢の限界がきて、研修医を終えると同時にドロップアウトしちゃったの。当然親兄弟から親戚までカンカンでしょう。土下座でもしたら何処かの病院にねじ込んでもらえたかもしれないけど、それじゃ飛び出した意味がないじゃない。で、自分ひとりでやってやるって意気込んだんだけど、医者の世界って狭いのよね。色々と邪魔や嫌がらせされて、有り金無くして流れ着いたところで健ちゃんに出会って助けてもらったの。ここはもともとお爺ちゃん先生が長くやってた診療所でね。当時まだ現役だった先生に医者として紹介してくれたのも健ちゃん。だから健ちゃんは、アタシの恩人の中の大恩人ってわけ。あ、アタシこれでもアルファなのよ」
「それは分かりますよ」
「あらそう、場所柄オメガと思われることも多いのよ。うふふ」
恥ずかしそうに口元を隠す姿は、確かに別の性に勘違いをされることも多そうだ。なにより澤井先生の対応は、ともすると杓子定規になりがちなアルファとは思えないほど、思慮深くありながら思いやりに満ちている。
そんな医師だからこそアルファの集団とは反りが合わず、オメガの集まるこの場所でも上手くやっていけるのだろう。
「じつは先日、父親にあたる相手を見かけたんです」
「あら……それでどうしたの?」
「声はかけませんでした。女性を連れていて、その、おそらく別れ際に言っていた婚約相手だと思ったので、情けない話ですが逃げたんです。そうしたら、自分でもびっくりするくらい落ち込んでしまって。また食事が取れなくなるわ、何もする気力がないわで、父にもすごく心配をかけてしまいました」
「お相手が婚約すること、知っていたのね」
「俺が彼を選ぶなら断ると言ってくれました。でも俺はそんな彼奴が嫌で、必死に縋ってきた手を振り払ったんです」
「彼のこと、好きじゃなかったの?」
「好きですよ。俺はアルファと言っても、両親が性反転をした半端者です。先生もご存知の通り、半端者への拒絶はオメガへのそれよりもきついんです。それでいて、性が定まらないせいで同性への拒否感も強い。友だちなんて一人もいない、そんな青春時代のたった一人の親友でした」
幼い頃に一度プロポーズをされたが、それ以降の翔平がはっきりと俺に恋愛感情を示すことはなかった。
それでも時々、冗談のように口にしていた言葉の数々。美男美女を虫のように引き寄せられる翔平に、彼女が欲しいアルファの女性と結婚したいと妬み半分に愚痴る度、それなら俺と結婚しようと何度も言われた。
翔平からだけ感じていた、甘ったるくまとわり付く特別な匂い。賢くて綺麗で強い、俺の理想のアルファ。
「親友として対等でありたいと思っていたはずなのに、こんなことにショックを受けている自分がショックでした。でも彼奴と番になることは何かが違うんです。だからやっぱり、この子のことは知らせないことに決めました」
本能の選んだ相手が正解とは限らない。榊翔平は、俺自身の夢なのだ。
「相応しくないから、運命にさからって一人で生きることを選ぶって言うのね。でもそれは、お相手に理想を押し付けている、貴方のエゴでもあるんじゃないかしら」
「そうかもしれません。ずっと見ないふりをしてきましたが、情けないことに今になって彼奴を恋愛対象として好きなんだと突きつけられました。きっともう、アルファとして相手を見つけることは不可能だと思います」
「それなら……」
「でも平気です。彼奴を見かけてから今日まで、もう何もかも放り出したくなるくらい考え続けました。俺の人生の最適解はどれなのか、迷いが完全にないかと言えば嘘になりますが、どの選択でも後悔する時があるなら、俺は貪欲でありたい」
きっと手の届かない、欲しいと願うならこちらに落とすしかない相手だった。翔平に恋をすることは、俺の愛するものを傷つけることと同義だった。
でもこの存在は違う。性による本能などに負けることは口惜しいが、キャリアを天秤にかけても手に入れたいと思った、運命の相手の分身。
「この子を産みます。彼奴が居なくても、俺は一人じゃありません」
ともだちにシェアしよう!