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赤い糸なんて切ってしまえ_1

 春になって日本に帰ると、ちょうど桜が盛りを迎えていた。  あちらこちらに白っぽい花の塊がみえる風景を懐かしく感じながら、良いと言うのに空港まで迎えにきた母と綾乃に仕方なく手をあげて挨拶をする。 「お帰りなさい、翔平さん」 「疲れたでしょう。すぐに迎えの車も戻ってくるから、どこかでお茶でもして帰りましょうか」 「ありがとうございます。それ、お母さんが行きたいだけじゃないですか」 「やあね。だって貴方、桜を見るの久しぶりでしょう。椿山荘でも行きましょうか。あそこも昔に比べると騒がしくなったけれど、お庭が広いのはやっぱり魅力的よねぇ」 「はいはい、お供致しますよ」  思いつきのように言っているが、どうせ既にアフターヌーンティーでも予約済なのだろう。  それにどうせ家でお茶に付き合わされるなら、ホテルでも街中でもいいから、周囲に人のいる場所の方が気が紛れる。  綾乃の言うストーカーが気にはなるが、母が行動するときには運転手兼ボディガードでもある中野が側につくので安心だ。 「電話でも話したけれど、綾乃さんね、秋まで家に滞在していただくことになったのよ。ずっと準備されてきたとは言っても、やっぱり留学前は色々と大変でしょう。それにしても、翔平さんがお父さまの元でお勉強なさる時期と重なるなんて奇遇よねぇ。歳の近い人間がいる方が何かと良いでしょうし、暫くにぎやかになると思うと嬉しいわ」  いつになく饒舌な母に適当な返事をしていると、ふとした弾みで視線の合った綾乃が軽く会釈をしてくる。  綾乃からの相談を引き受けてから約二ヶ月。警護と共に密かに彼女の身辺調査もさせたが、さすがに本家の娘のガードは固く、大した情報は上がってこなかった。  結局ストーカーに関することも分からないまま、今日から秋まで彼女の釣りの餌として婚約候補者を演じなくてはならない。 「なんです。ため息なんて吐いていたら、幸せか逃げますよ」  無意識のうちに出ていたそれにすかさず母から指摘が入るが、そんなものは右から左だ。これだけは人に任せたくないと、荷物と共に渡さなかった土産の紙袋。中身は何の変哲もない代物だが、これを口実に門脇家のインターホンを鳴らそうと思っている自分には大切な品だった。  女性たちのお喋りに付き合ってから帰宅をすると、時刻はすでに六時を過ぎようとしていた。  あまり遅くなる前にと土産を持って外に出ると、春の生暖かい空気に混じって何処からか花の香りがした。乾燥した大陸とは違い、この国の春は空気がどこか重く湿気っていて、なんだか息が詰まる。 「あ」  ぼんやりと空を見上げていた視線を戻して歩き出そうとした所で、全身が強張って足が止まった。  真正面から合ってしまった視線に、相手もその場に縫いとめられように固まっているのが分かる。 「りょう、ちゃん」  大きく目を見開いた亮介が、こちらの呼びかけに我にかえったように一歩後ずさった。羽織っているコートの襟を握って背を向けるように体勢を変えると、逸らされていた視線がほんの少しだけ上げられる。 「なんで、お前がここに……?」 「え、と、あの、暫く大学を休んで、父の仕事の手伝いをすることになったんだ。あ、秋には戻るけどね。俺まだ卒業できていないから」 「そう、なのか」  戸惑っているらしい亮介の表情に、こちらも下手な事は言えず沈黙が落ちた。  約半年振りくらいだろうか。少しやつれたように見える横顔に、申し訳ない気持ちと同時に抱きしめたくなる。  しかし伸ばしそうになった手は、ぐっと爪を立てることでなんとか押し留めた。諦め切れない気持ちと、心底好きな相手の幸せ望む気持ちが、自分の中で綱を引き合ってどうして良いのか分からない。 「そうだ。これ、お土産のお菓子なんだ。届けようと思って来たんだけど、亮ちゃんと鉢合わせると思わなくてびっくりした。仕事帰りでしょう」 「ああ、ちょっと……その、ば、婆ちゃんが体調崩しててさ。親父たちだけだと心配で、俺も実家から通勤してるんだ」 「そうなの。秋に会ったときは元気そうだったのに、そんなにお悪いなんて知らなかったよ。今度お見舞いに行かせてもらっても良いかな?」 「えっ、や、そこまでして貰うほど悪くはないから大丈夫だって」  よほど具合が悪いのかと思って申し出ると、慌てたように亮介が先ほどまで言っていたことと逆の言葉を口にする。  なんだか妙だ。先ほどから微妙にそっぽを向いたままの姿勢といい、何かを誤魔化しているような、隠しているような態度が気にかかる。 「りょ」  その時、一陣の風が亮介の立っている方角から此方へと吹き抜けた。  しかし風と共に届くかと思った匂いは鼻腔を刺激することなく、ただ生ぬるい春の香りだけが通り過ぎた。 「……あ、これ、お土産。美味しいから、良かったら亮介も食べて。それじゃ、あ」 「あ、ああ、ありがとう」  手を伸ばすとぎりぎり届く距離までだけ近づいて、持っていた洋菓子の紙袋を差し出す。同じように伸ばされた手が土産を受け取ったのを確認すると、そのままろくに挨拶もせず背を向けた。  あれほど亮介に会いたいと、せめて姿を見るだけでもと思っていたのに、想像もしていなかった事態に頭の芯がぐらぐらと揺さぶられる。 「な……んで?」  日によって強弱はあっても、いつも彼から香っていた抗い難い甘い匂い。それが、何処にもなかった。他の人間たちと同じ、なんの色も感じられなかった。  ずっと自分を惹きつけていた亮介だけの匂い。例えば彼がどんなに姿形を変えたとしても、あの匂いがある限り絶対に見つけ出すと自負していた。  心臓が痛い。痛くて潰れてしまいそうだ。こんなに痛くて恋しいのに、もう自分の運命の人は彼ではないと本能は言うのだろうか。  眼球の奥が熱くなる感覚が情けなくて、泣いている顔を亮介にだけには見られたくなくて、何処に行く用もないのに逃げるように夕暮れの道を歩いた。

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