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赤い糸なんて切ってしまえ_2
亮介の匂いを特別に感じなくなった事実は、想像以上に精神を打ちのめした。
俺にとって特別な、自分たちが結ばれる運命を正当化できる唯一の証拠。千の贈り物や万の言葉よりも、お互いだけが分かる匂いの絆は親子のそれと同じくらい絶対的なものだった。どこかでそれを、諦めきれない感情の言い訳のようにしていた。
何度も拒絶をされて、側からみれば何の望みもない、長い長いひとり相撲の恋心だ。強制力のある性衝動とは無縁のベータであったなら、間違いなく俺は気味の悪い犯罪者予備軍扱いだろう。
「榊さま、お待たせいたしました」
予定より遅い相手の到着に、ぼんやりと物思いに沈んでいた意識が引き戻された。
待ち合わせに指定したホテルのティーラウンジは、平日の昼前とあって適度に混み合っている。近づいてきた三十代前後のサラリーマン風の男は、大手ではないが実績のある調査会社の社員だ。座ることを勧めると、丁寧に一礼をした男が向いのソファーに腰を下ろす。
「それで、ストーカーが誰か分かったというのは確かなのか」
「はい、こちらが調査報告書になります。身元は割れましたが、勤め先は半年前に辞めており現在はどこで何をしているのかも不明です」
「東京に出てきている可能性は高いが、思ったより具体的な行動を見せないな」
渡された資料を開くと、何かの集合写真を拡大したらしいぼんやりとした顔写真が目に入った。
成人男性にしては薄い長身の身体に、少し長めに切られた癖のある茶色味の強い髪。ほんの少しだけ上がった口角が、どこか物憂げな雰囲気の顔立ちを穏やかで優しいものに見せている。
「オメガ、なのか?」
見た目の印象からも予想はできたが、名前の横に記載された性別に驚きを隠せない。
「はい。村瀬時臣、19歳。去年高校を卒業したばかりの施設出身のオメガです。両親は彼が十歳の頃に事故で他界していますが、二人ともオメガ性だったようです」
「オメガ同士の子か。それは苦労しただろうね」
アルファ同士と同じく、オメガ同士もまたお互いに性的興味を持つことは稀な組み合わせだ。そしてベータ以外の同性婚により生まれる子は、それぞれの性差が強く遺伝する。
榊はその特性を利用してきた側の人間だが、アルファはともかくオメガの血が濃いことはマイナスにはなってもプラスになることがない。
その上、幼くして両親を亡くし施設行き。そうでなくても管理に手間がかかり、性的要素の強いオメガは虐待の対象となりやすい。より濃い血のオメガともなれば、彼の人生が平坦なものではなかったことは想像に難くなかった。
「綾乃さんとの接点は?」
「それが、どうも綾乃お嬢様はご当主に内密で養護施設へのボランティアに時折参加されていたようです。本家筋の素行調査になるため確定的な証拠は掴めておりませんが、村瀬と知り合う機会があるとすればそこではないかと」
「そうだね。恐らくそれで間違い無いだろう」
榊家の血を本人の勝手で外に出すことを嫌う本家は、基本的に結婚して子をなすまでプライバシーが厳しく管理されている。
綾乃の日常に素性のハッキリしない男が、それもオメガが関われるとしたら、そこしか考えられない。
「わかった。綾乃さんには俺から聞いてみておくよ。しかし、施設育ちでも地元の人間だろう。榊の長女を追い回すなんて真似がよくできるな」
「オメガは俯瞰的に物事を捉えることが苦手です。申し上げにくいのですが、恐らく村瀬にとっては綾乃さまのアルファとしての資質が得難いものなのでしょう。正直、話が通じるかどうかも怪しいかと」
優秀ではあるがベータである調査員から見れば、異常なまでの相手への執着は理解し難く動物的なものなのかもしれない。
性が絡む問題は厄介だと言外に含まされて、耳に痛い身としては沈黙するしかなかった。
引き続き村瀬時臣の行方を追うことと綾乃の身辺警護を頼んで調査員と別れると、セットしていたスマートフォンのアラームが鳴った。
あと一時間で、大学で講義を受けている綾乃を迎えに行く時間だ。彼女に確認しなければいけない事も多々あるが、一度車のシートにもたれ掛かると異様に重く感じる身体が起き上がれない。
ぼんやりと愛車の天井を見上げながら、内ポケットにしまったスマートフォンをもう一度取り出す。
何度もアドレス帳を開いて閉じを繰り返す自分が情けないのに、もう一度だけでも亮介の声を聞きたくて諦めきれない。
「あっ」
うろうろと躊躇う動作を繰り返していた指が画面に触れ、通信を繋げるため端末が動き出してしまった。
誤操作か、それとも無意識の故意か。何にしても既に呼び出しを開始してしまった端末は、今切ったところで相手側にも履歴が残ってしまうだろう。
どくどくと血液を送り出す心臓がうるさい。出て欲しいと願う心で指先が震える。同じくらいの強さで、出ないでくれと乞う矛盾した自分がいる。
どれくらい待っていたのか。ぷつりと止んだ呼び出しを音に目を開けると、画面には門脇亮介の名前の下で時を刻むデジタル数字が動いていた。
繋がった。彼が電話に出てくれた。咄嗟に声を出すことができず、思わずごくりと唾をのむ。
『……翔平、なのか?』
「う、うん。ごめん、咄嗟にかけちゃったんだけど、お仕事中だよね」
『いや、別に休憩中だから構わないが』
「本当。なら良かった、突然にごめんね。その、ええと、相談に乗って欲しいことがあって」
我ながらしどろもどろな言い訳に、端末の向こうで亮介が沈黙した。彼以外の相手なら、いくらでも饒舌にも寡黙にも自由自在になる舌が、まるで子どものような言葉しか話せない。
『相談?』
「うん。あの、いま従姉妹が家に滞在しているんだけど、実は地元で酷いストーカー被害にあって逃げてきたんだ。此方の都合で申し訳ないんだけど、彼女は本家の長女で色々とややこしい身の上でね。榊の名で警察を頼るわけにもいかなくて。俺も表立っては動きづらいものだから、その、一度法の専門家として被害内容を聞いてもらえたらなって」
やってしまったと思っても遅かった。綾乃のことを彼と会う口実にするだなんて、我ながら最低で情けない。
けれど突然感じられなくなった匂いに、少し妙だった亮介の態度。どんなきっかけでもいい。彼との微かな繋がりを切ってはならないと直感が告げている。
『俺は……ストーカー事件はあまり扱っていないから。具体的な相談には乗れないぞ』
「ッ、とにかく話を聞いてもらいたいんだ。頼むよ、本当にこの話、あまり表沙汰にしたくなくてさ。俺の知り合いで法律家なの亮ちゃんだけなんだ」
お願いと食い下がると、暫く迷うような沈黙があってから小さな声が聞こえてきた。
『電話でもいいなら、今夜でも相談にのるよ。それじゃあな、もう時間だ』
「うん、ありがとう。必ず電話する」
『わかった』
そっけない声と共に通話が切れると、どっと全身の血が沸騰してから、今度は一気に落ちるような上げ下げに襲われた。
繋がった。ほんの小さな、電話越しの約束だけれど、彼が次を許してくれた。その事実に、先ほどまでとは違う震えに襲われた。
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