32 / 45

赤い糸なんて切ってしまえ_3

 ふわふわとした気持ちのまま車を走らせると、いつも通りに約束の時間より先に待っている綾乃の姿が校門前にあった。  こちらに気づいて駆け寄って来る綾乃の表情が、心なしか強張っている。そもそも厳しく躾けられてきた彼女は、急いでいるからと言って無闇矢鱈と走ったりしない女性だ。  降りてドアを開けるよりも早く華奢な身体が助手席に滑り込んでくると、出してくださいと小さくで囁かれた。聞きたいことはあったが、とにかくこの場を離れるために無言で車を発進させる。 「どうしました。もしかして、村瀬が姿を見せましたか」 「いえ、ただ……こんなものが」  何も書かれていないA4程の茶封筒を取り出した手が、小さく震えているのが見える。  これまでになく怯えた様子の綾乃が見せたのは、大学構内での日常風景のような写真をプリントアウトしたものだ。そこに映る綾乃はどれも視線がこちら見てはおらず、撮られていることを意識していないことが分かる。 「これを、何処で?」 「授業が終わって教室を出たところで、知らない女の人から渡されました。私の友人だという男性に頼まれたとかで、開けてみたらこんな写真が何枚も入っていて。一枚一枚裏に……何か書いてあるようなんです。私、怖くて、全部は確認できていません」  写真から目を逸らして前を見つめる綾乃の身体が、カタカタと震え出した。  これまで控え目ではあっても冷静さを失わなかった綾乃のその様子に、どこか止まれる場所はないかと視線を巡らせる。  ようやく空いてるパーキングを見つけて車を停車すると、怯えている綾乃の背中を摩ってやってから強く握りしめている茶封筒を離させた。  袋の口を開けてみると、中には百枚近くはありそうな写真の束とカラフルな色の小さな袋が入っているのが見える。 「飴の、袋?」  開封された個包装のそれは、一見すると誤って紛れ込んだゴミだ。ちらりと綾乃の方を見ると、青ざめた顔がゆっくりと頷く。  何枚も撮られた同じような写真を裏返すと、そこには短くメッセージのようなひと言が書き込まれている。服装から見て別の日に撮りためた写真のようだが、『おはよう』から『お疲れさま』と、まるで彼女の行動に話しかけるような文が続く。  そしてこの飴の袋は、おそらく彼女が何気なく捨てたものなのだろう。構内では調査員を一人つけているが、人数を増やした方が良いのかもしれない。 「これは俺が預かっておきます。明日から外出時の警備を強化しましょう」 「そのことですが、あの、私に付けてくださっている方、暫く外していただけませんか」  考えとは真逆の提案をされ、驚きを隠せない。真意を問うように綾乃を見つめると、スカートを握る手は震えているものの、彼女の目には強い意志の光が見える。 「どういうことか聞いても?」 「警備の方が増えれば、村瀬は逃げてしまうかもしれません。私は彼と話をしたいと思います」 「それは危険です。相手はオメガでしょう。こんな事を言うと誤解を受けるかも知れませんが、こういった状態に陥った彼らに常識は通用しませんよ」 「村瀬時臣は……物静かで優しい、春のような人でした。私は村瀬の真意が知りたいのです」 「やはり村瀬と面識があるのですね」 「はい。彼が居た養護施設には、自由時間を使ってたまに訪れていました。両親がいい顔をしないので、本当に目を盗むようにこっそりと。園長先生がとても良い方で、内密にしたいと言う私の我儘を聞き入れてくださって」 「だからこそ、貴女は今回の件をご両親に相談できなかった。ストーカーの件が明るみになれば、間違いなくその施設は圧力をかけられますからね」 「……おっしゃる通りです。すみません、何もかも私の我儘と不手際のせいです。それでも、園の子ども達や園長先生にご迷惑をおかけするわけにはいかないんです。どうか、力を貸してください」 「しかし、護衛も断られるとなると」 「翔平さんが私の側に居てください」 「俺が、ですか」 「はい。婚約を前提にお付き合いをしているふりをして頂ければ、一緒にいても不自然ではないはずです。それにその方が、村瀬が直接的な接触を試みて来る可能性があがります」  確かに遠巻きの護衛よりもボディーガード代わりの恋人役の方が、嫉妬心から村瀬が姿を見せるかもしれない。  だがこのやり方は、相手を不必要に刺激する危険も伴う。どうするべきか。本家には内密に動いている以上、万が一のことがあれば避難は間違いなくこちらに向く。 「綾乃さんの意向は分かりました。今度知り合いの弁護士に名は伏せて相談する予定なので、返事はその後にさせていただきます。この写真やこれまでの資料を、その人物に見せてもよろしいですか」 「どちらで弁護士をされている方ですか」 「それは明かせません。ですが、信用できる相手であることは保証します。俺の協力を仰ぐなら、こちらのやり方にも譲歩していただかなければ困ります」 「分かりました。貴方のお知り合いを信用しましょう」  交渉成立と判断すると、車を出すためにエンジンをかける。  綾乃の要求はどこか違和感が拭えない。いくら本家に知られたくないとはいえ、ストーカーを振り切りたいだけなら、身辺警護を硬くしてあと数ヶ月待てばいいだけの話だ。住所不定で彷徨いているような男が、留学先まで彼女を追いかけられるとは到底思えない。  それなのに綾乃は、村瀬を誘き出すため護衛を下げろと言う。顔見知り故に本人と話をつけたいのかもしれないが、内気な彼女らしからぬ行動がどうも腑に落ちない。  いずれにしても、一人で考えると思考が偏る。口実のつもりだったが、改めて亮介の意見が真剣に聞きたくなった。

ともだちにシェアしよう!