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赤い糸なんて切ってしまえ_4

「すみません。帰る前に本屋に寄っていただけませんか」  自宅まであと十分ほどになった所で、綾乃が不意にそう言ってきた。  早く帰った所で母親からの攻撃に晒されるだけだ。いいですよと返事をして、車を本屋の入っているビル方面へと向ける。  夕方には少し早い時間のせいか、平日の駅前は思っていたより空いていた。一人で行かせるのも危険かと、駐車場に車を止めてから綾乃について歩くことを選択する。  賑やかな駅前通りには若い女性の興味を惹きそうな店がいくつもあったが、綾乃はそれらには目もくれない。  ストーカー騒動を通して分かったが、自分がこれまで知っていたのは、彼女のほんの一面に過ぎなかったようだ。  家長である父と後継である弟に頭が上がらず、一族の集まりで会ってもいつも影が薄く地味な女性。そんな綾乃への印象は、彼女と過ごす時間が増えるほどに変化していく。 「私は洋書コーナーを見ていますので、翔平さんも興味のある所をご覧になっていて下さい」  そうはいきませんと言いかけて、彼女の目が頷くことを促しているのが分かった。どうやら、ここに立ち寄ったのにも理由があるようだ。 「では、三十分後にあちらのカフェ前に待ち合わせで良いですか」 「はい。それでは後ほど」  店内にあるカフェを指定すると、にこやかに笑ってから綾乃は背を向ける。  この店の洋書量はわざわざ立ち寄る程のものではない。協力を求めながら手札を全て見せないことに不信感はあるが、どちらにしても乗り掛かったからには半端にはできない。  約束の時間まで店内をぶらつくふりをしながらそれらしき人物を探っていると、思いがけない知り合いに出くわした。 「おじさん、お久しぶりです」 「え、あ、あれ、翔平くん?」  突然声をかけられて吃驚したのか、こちらを見た亮介の父の手から分厚い本かばさりと落ちる。反射的に拾おうと身を屈めたところで、大きく書かれたタイトルに思わず目を奪われた。 「『赤ちゃんの名づけ図鑑』」 「あ、あ、ありがとうねー。傷とか出来てないかな」 「どなたかの名付け親でもされるんですか?」  なんとか声が震えないように尋ねると、えぇとと言いながらラフウェーブに整えられた髪が手ぐしに乱される。  いつも愛想の良いお隣さんの気不味そうな態度に、最も考えたくない可能性が脳裏に浮かんできてきしまう。 「もしかして……亮ちゃんが?」  自分の笑顔が張り付いたようなものになっている自覚はあったが、尋ねずにはいられなかった。  嬉しそうに本の中身を確認していた亮介の父からは、抑えきれない幸せのオーラが溢れていた。親にそんな顔をさせるのが、他人の子どもの訳がない。  俺の言葉に明らかに顔色を変えると、困ったなぁと言いたげに拾った本の表紙がこちらに向けられる。再び目に入ってくるタイトルの破壊力に、ヒビだらけになっていた心がさらにくしゃくしゃに握りつぶされていく。 「え……と」  何から聞いたらいいのだろう。結婚したのか。子どもができたのか。相手は誰なのか。いつからの付き合いなのか。ぐるぐると回る疑問と、それを口にしてしまったら疑惑が真実になってしまう現実に、無駄な抵抗をする様に舌が震えてしまう。  亮介に決定的な拒絶を受けた秋から約半年。俺がいじけて渡米している間に、彼がそこまで誰かと関係を深めるとは思わなかった。もう望みはないと諦めたつもりだったのに、何処かで番である存在を切り捨てられはずがないと信じていた。 「翔平くんにはずっと仲良くしてもらっているのに、なんか水臭くてごめんね。まだちょっと正式には色々と決まっていなくて、身内以外には知らせていないんだ」 「そう、なんですか」  つまり出来ちゃった結婚ということか。しかし結婚が後とか先とか、そんなことは些細なことだ。  バラしたことで取り繕う必要が無くなったのか、名前を考えてくれって言われちゃってと本を捲る亮介の父は、すっかり孫に夢中のお爺ちゃんの顔だ。  握りしめた拳の中で、爪が皮膚に食い込んで痛い。亮介が俺ではない誰かと結婚して、子どもまで作ったという事実に俺の理性が抗いきれない。 「また落ち着いたら、翔平くんにはきちんと知らせるからね」 「……はい。おめでとう、ございます」  白々しい祝いの言葉を口にした舌を、自分で噛み切ってやりたくなった。  何がめでたい。相手はどこのどいつだ。そいつが俺よりも彼に相応しい証明をしろ。どろどろとした暗い嫉妬と、鉛のように重い哀しみが、ズシリとのしかかってくる。  なんとか挨拶をすると、連れがいるからと断ってその場を離れた。最後に物言いだけな顔をした亮介の父が気にはなったが、彼が俺と亮介の関係を知っているはずもない。 「くそっ」  耐えきれずに出た悪態がつられて、涙が滲みそうになる。理不尽だとわかっているのに、本能が怒り狂っていた。亮介が、俺の番が他に誰かにその遺伝子を分け与えたのかと想像するだけで、アルファの凶暴な本能が牙をむく。 『こんな鬱陶しいもん、呪いみたいなもんだろう』  いつだったか亮介がぽつりと漏らした言葉が、今さらのように突き刺さった。  あの頃の俺には、その時の彼の気持ちが分からなかった。アルファにとって性差は、生まれ持った勝利だった。  だけど今なら分かる。こんなどうしようもない、理性を食い尽くすような本能など要らない。これは確かに呪いなのだと、内臓が焼け爛れるような嫉妬にようやく理解した。

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