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赤い糸なんて切ってしまえ_5
時間通り待ち合わせ場所に現れた綾乃は、明らかにおかしいこちらの態度にも何も言わなかった。
彼女の気遣いに感謝しつつ自宅に戻ると、血の濃いアルファらしく感情の機微には鈍感な母に、なんやかんやと綾乃と過ごす用事を言いつけられる。
夕食後の気怠いお茶会を済ませてようやく一人になると、しっかりと自室の鍵を閉めてスマートフォンを取り出す。
偶然知ってしまった事実を思うと心臓が抉られるようだが、亮介との絆が切れてしまったわけではない。大丈夫だ。亮介は相談に乗ると言ってくれた。今夜と約束までしたのだから、逆に遅くなり過ぎては失礼になる。
一度深呼吸をすると、意を決してとっくに暗記している番号を呼び出す。そういえば、亮介はこの電話番号を変えてはいなかった。だから昼間の連絡も繋がったのだ。
別れの時から俺が海外に行くことは決まっていたし、なによりお互いの実家や彼の職場も把握している。今さら電話番号くらいと思われただけだろうが、いつでも連絡できる手段が断たれていなかった事実は素直に嬉しい。
『……はい』
「今晩は、遅くにごめんね。いま大丈夫かな」
『ああ、昼間のストーカーの件だろう』
「うん」
やはり以前のようにとはいかないのか、どこか緊張している声の亮介に俺はこれまでの経緯と分かっていることを説明した。
これまで遠巻きなものだった村瀬のストーカー行為は、今日明らかな変質を見せた。そして綾乃の危険とも言える提案。この後に及んで村瀬の真意を問いたいなどと言う綾乃に、やはり彼女は何かを隠しているとしか思えない。
『そこまで具体的な行動に出たなら、榊でなくても警察に訴えれば口頭注意からの告訴もありえるだろうが、相手が行方不明となるとちょっとな』
「うん。誘き出して真意を問いたいとは言っているけれど、おそらく性による衝動が原因だろうから難しいと思う。村瀬は特にオメガの血が濃いから……ああそうだ、調査会社からの資料もまとめて渡すよ。俺が亮ちゃん家に持って行くから、また目を通しておいて」
本当は顔を合わせる口実にしたい所だが、彼の口から断りの言葉を聞くのは正直まだキツい。
前に出過ぎて拒否されないように慎重に距離を測ってそう言うと、やはり直接会おうと言った言葉はなく『ああ』とだけ返事が返ってくる。
「そ、れじゃあ、明日の日中にでも届けておくね」
『翔平、お前本当に大丈夫なのか?』
「え、何が」
『何がって、その、俺の杞憂なら別に良いんだが、従姉妹の綾乃さんというのがお前の婚約者なんだろう。当然ストーカーは、お前を邪魔者にしてくる。危険だ』
「ああ、それなら大丈夫だよ。報告書を見たところ元々は大人しそうな人だし、伊達に子どもの頃から鍛えていないからね。俺が喧嘩で負けたことないの、亮ちゃんなら知っているでしょう」
『それは確かにそうなんだが……とにかく、自分が撒き餌になるつもりなら十分に注意しろ』
「うん、ありがとう」
心配をしてもらえたことに不謹慎だがドキドキした。久しぶりに聞く彼の声に、全身の細胞がワクワクと浮き立っているのが分かって恥ずかしい。
綾乃の件に関しては、警察を頼る気は元からない。証拠が弱いこともあるが、何よりこの件を表沙汰にすることが榊本家の体面上宜しくないからだ。
村瀬本人を捕まえることが出来たら、あとは彼が二度と綾乃に近づかないよう此方がグレーな方法を取ることになるだろう。
それを思うと、真剣に案じてくれている亮介に対して申し訳なさが募るが、どんな形であれまた彼と関われるという誘惑には抗えなかった。
しかしそんな些細な幸せも、脳裏をよぎった夕刻の会話によって霞んでしまう。いま亮介は実家で暮らしている。もしかしたら、彼の結婚相手も同じ場所にいるのかも知れない。
「夕方……さ、おじさんに会ったよ。それでその、聞いちゃったんだけど、結婚するんだね」
端末の向こうで亮介が沈黙した。言うべきではなかったかと後悔するが、どちらにしても彼の父親から話が伝わってしまう可能性もある。
亮介は無責任に会話を打ち切るような人ではない。彼がこの件に関して自分になんと返事をするか、嫌な音を立てる心臓に耐えながら返事を待つ。
『そうか、どこまで聞いた?』
「その、名付けを頼まれたことと、まだ身内しか知らないからってこと。あ、おじさんが自分から俺に話したんじゃないよ。たまたま名前用の本を選んでいる所を見かけて声をかけちゃったものだから、成り行きでね」
『ああ、別に気にしていない。全部身内だけで済ませるつもりだし、産まれたら地方に転勤になる予定だ。お前はまたあっちに戻るんだろうから、挨拶ができてよかったよ』
なんだ、それ。まるで普通の友人のような台詞を言う亮介に、腹の底からぐっと憎しみにも似た怒りが込み上げる。
遠回しではあったが、ずっと亮介に好意があることは伝えてきたつもりだ。なにより一度だけ彼を抱いた日に、そしてそれから別れを告げられるまで、必死になって好きだと、愛しているから一緒になってくれと言い続けてきた。
そんなこちらの気持ちを知りながら、あっさりと他の誰かの手を取り、自分には与えなかったものを与えた亮介を許せないと思ってしまう。
「……亮ちゃん、いま幸せ?」
『ああ、すごく楽しみだよ』
早く会いたいなと呟かれた小さな声は、とても優しくて幸せそうで、醜い嫉妬と憎しみに呑まれそうな俺とはまるで違っていた。
情けないことに、はたりと生温かい水が目から溢れ出る。悔しかった、情けなかった。なにより、彼の隣に立つのが自分ではないことが、悲しくて寂しくて堪らなかった。
「そう」
おめでとうも良かったねも言えない小さな男に、亮介はまた資料を見てから連絡をすると言って通話を切った。
深いため息を吐いてから、そのまま音を立てて座っていたベッドに背中から倒れる。たった一人の人間にここまで振り回されて乱されて、もう何もかも嫌になりそうだ。
せめて泣くことくらいは許そうと、枕に顔を押し付けて抱きしめた。
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