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赤い糸なんて切ってしまえ_6

 アルファという存在は、完璧で正しい唯一の種だ。それは両親から、祖父母から、榊家からずっと言われてきたこの世の真実であり、そんな一族の考えを不快に思いながらも心の底では同意をしていた俺自身の奢りだった。 「翔平さん、あなたほとんど食べていないじゃない」  理想的な量と栄養バランスで作られた朝食が、果物をひとつ減らしただけの状態で皿の上に乗っている。  しかしどうにも胃が受け付けず、心配そうというより不満そうな母にすみませんと謝ってから席を立った。  朝だけでなく全ての食事量が極端に減ってから一週間近くたつ。立場上体力の低下が不味いのは分かっているが、食べようとしても入らないのだから仕方がない。  どうも俺は、自分が思っていたよりもずっと、馬鹿で愚かな恋愛脳体質だったようだ。  エネルギーが足りていない体を叱咤し、なんとか身なりを整えて下に降りると、先に用意を済ませた綾乃がすでに待っていた。雇っていた護衛を下がらせてからは、俺が彼女と大学に同行することになっている。 「行きましょう」 「はい」  並んで玄関を出る俺たちを、事情を知らない母親は満面の笑顔で見送ってくれる。なんだか本当になし崩しに綾乃と婚約させられそうだが、それすら他人事のようにどうでも良かった。 「翔平さんのご友人、とても親切で誠実な方ですね」 「それは良かったです。法に関することは、やはり本職の知恵を借りるのが一番ですから」 「はい。具体的なアドバイスを頂けて、闇雲に怖がる気持ちが少し楽になりました。今度、直接お会いして頂けることになったんです。お忙しいとのことだったのですが、お話ししているうち現状のままも良くないからと仰られて」 「ッ、亮介と会うんですか?!」 「え、ええ」  思わず食い気味に声を荒げてしまい、綾乃が驚いたように目を少し見開く。しまったと視線を逸らせても、既に手遅れだ。じっとこちらを見つめる視線に、気まずい沈黙が落ちる。 「あの、翔平さん」 「なんですか」 「的外れだったら御免なさい。翔平さん、どなたか好きな方がいらっしゃるのではないですか」 「どうしてそんな質問を?」 「近ごろ調子がお悪そうなのは、もしかしてそのせいかと思いまして」  軽く笑いを含んだ優しい声に、年下の、それも密かに侮っていた相手に見抜かれたと死にたくなった。こんなみっともない、情けないまでに一方通行で本気の恋心を知られるなんて、恥以外の何者でもない。 「差し出がましいようですが、お相手の方も貴方を気にかけていらっしゃいますよ。とても遠回しに、用心深く、私から貴方のことを聞き出そうとされている。なんだか、もどかしいです」  思いがけない言葉に、運転に集中しようとしていた意識が再び綾乃の方に向く。彼女はいつも、榊の一族の中ではみ出し者だった。裏を返せばそれは、榊綾乃が純潔のアルファらしくない人間だという証明でもあると今さらながら気付かされる。 「翔平さんは私を守ってくださる婚約者なのでしょう。当然、私が出歩く先には隠れてでも同行していただけますよね」  前を見てくださいと悪戯っぽい笑みと共に言われ、慌ててハンドルを握り直した。  確かに今の自分の役目は綾乃を守ることだ。それを口実にすることは心苦しいが、どうにも此方を避けているらしい亮介に会うには最適な理由と言えるだろう。 「綾乃さんは、どうしてそんな事を?」  しかし流石に、二つ返事で彼女の提案に乗ることは躊躇われた。  榊の人間にとって、家の用意した相手以外の者を望むことは許されないことだ。自分が一族から放逐されるだけならば良いが、万が一にも亮介に危害が及ぶ事だけは避けなければならない。 「安心なさってください。私はただ興味があるだけです。誰かを恋い慕う気持ちというものが何なのか……私は知りたい」  そう言ったきり、綾乃は自身の思考に沈んだように口をつぐんでしまった。こちらから話すことも特になく、無言のまま車は目的地へと向かっていく。  知りたいのはこちらも同じだ。亮介がオメガであれば、彼の意思を無視する気があれば頸を噛んでしまえば強制的に自分のものに出来ただろう。  しかし彼はアルファ判定の出た人間で、その身の内にあった僅かなオメガの血が、奇跡的な確率で此方の遺伝子と合致してしまっただけにすぎない。それを運命の恋だと思うか、呪わしい本能衝動だと思うかは、実際のところ紙一重なのだろう。  亮介はアルファを愛していた。アルファである事を切望し、そうなるべく努力してきた。それを誰よりも近くで見てきたのは、誰でもない俺自身だ。  会いたいと、話をしたいと吐くように思う。しかしその結果として再び彼に拒絶された時、自分が何をするのか怖くてたまらない。彼の夢を壊すのが榊翔平だなんて、そんなことがあってはならないのだ。

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