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あなたの側で_1

 それではお願いしますねと言って、綾乃は先に店内へと入っていった。  彼女が待ち合わせに指定したのは、普段なら利用することのないファミリーレストランだ。入店をずらす為に暫く時間をつぶすと、時計を確認してから意を決して車を降りる。  重い手動のドアを押して中に入ると、平日のランチタイムを過ぎたばかりの店内は丁度いい具合に混み合っていた。  ちらりと視線を走らせると、出入り口からは一番遠い角の席、予定通り自分がドアからの視界に入る位置に座った綾乃の姿が見える。  そしてその向かい側、黒髪の後頭部を見つけると、反射的に心臓がどきりと大きく跳ねた。慌てて被っているキャップ帽をさらに目深にし、死角から二人の座る席へと近づいていく。  家族連れ向けの席はそれなりに幅があるため、少し危険ではあるが隣のボックスに入ることにした。背中合わせの方が見えにくいだろうと、手を伸ばせばすぐ側に亮介がいる位置に緊張しながら腰を下ろす。  なんとか気づかれずに席につけたことにほっとすると、今度はメニューを眺めながら耳を澄ませる。さすがにすぐ隣だけあって、二人の会話は支障なく聞き取れ出した。 「そうですか。お話を伺う内にもしかしたらと思ったのですが、それなら村瀬を放置して渡英することを躊躇われるのにも納得がいきます」 「申し訳ありません。私が地元を離れれば、彼は必ず接触してくると判断したのですが」 「これまでは貴方の周囲のガードが固く近づけなかったのでしょう。たとえ一人でも、プロとなると素人は用心して当然です」 「いざという時に私だけでは逃してしまうかもしれないと思ってのことでしたが、失敗しました。村瀬が行方知れずになってからそろそろ半年になります。彼の精神状態が心配です」 「その点ですが、知り合いの医師に相談してオメガ専用の精神安定薬を処方して貰いました。使い方はインスリンの皮下注射と同じですが、これはあくまで緊急時用です。貴女を信用してよろしいですか」 「……はい。ありがとうございます」  こちらはまるで預かり知らない話に、好奇心を抑え切れずそっと横目で後ろを伺う。目の前に見える亮介の後頭部にドキリとしたが、すぐに意識をテーブルの上に向ける。  化粧ポーチ程の大きさの黒いナイロン地ケースを受け取ると、綾乃は一度中身を開いて確認してから丁寧にチャックを閉める。 「それでは、今後のことで……ッ」  下を向いていた綾乃の顔が、再び亮介の方を見ると同時に突然強張った。  何があったと思うより先に、ドンッと何かがぶつかってくる衝撃と共に、腹部に痛みのような熱のような奇妙な感覚が広がっていく。 「……な」 「翔平さんッ!」 「しょ、翔平?!」  ガタガタと二人が席を立つ音と切羽詰まったような叫び声。何処かから甲高い悲鳴が上り、反射的に押さえた腹からじわりと生温かい液体が滲んでくるのを感じる。 「お、お前が悪いんだ。俺の、おれの綾乃さんを、俺には彼女しか居ないのに、それなのにッ」 「時臣さん、貴方自分が何をしたのか分かっているのですか!」  時臣と呼ばれた名前に、ピンとくるのに数秒を要した。刺されたと意識してしまうと同時に、脳髄まで響くような痛みが全身をビリビリと走り抜けていく。  油断していた。先にこちらを攻撃してくる可能性にはずっと用心してきたはずなのに、呆気ないほどに他所ごとに気を取られていた。 「村……せ、か」  神経質そうな顔の痩せてみすぼらしい男が、肩で息をしながら血濡れの包丁をこちらに突きつけている。  あれが腹に刺さって引き抜かれたのか。傷口を押さえていても止まらない出血に、一瞬だがくらりと視界が回った。 「あんたを、アルファを信用した俺が馬鹿だったんだ。こうなる事くらい、分かっていたはずなのに……くそ、くそ、くそっ」 「待って、違うの!」 「うるさいッ。お前たちアルファの御託はもう沢山なんだよ。この男を殺されたくなかったらお前がこっちに来い、綾乃ッ」 「分かったわ。だから、その手の物を離しなさい」 「離したら俺を捕まえるつもりだろうが、この裏切り者めぇ!!」  とうに理性など手放してしまっている目をした村瀬が、今度は綾乃たちの居る方へ向かって包丁を振りかざして走り出した。  恐怖からか固まってしまってる綾乃の前に、庇うように人影が立つのが視界に入る。それが亮介だと理解すると、苦痛に遠のきかけていた意識が一瞬でクリアになった。  凶行に走る男の背後から襟首を掴むと、力いっぱい後ろに引き倒す。きゃあと悲鳴が上がったが、反響したようなぼやけた声に俺を止める力などなかった。  無言のまま床に倒れた細身の体に覆い被さると、なんの力加減もなく相手の顔面を数発殴る。鍛錬をサボっていたツケか、骨がぶつかり合って痛い。  だがそんなことは気にもならない。いつの間にか両手で頭と顔を庇っている男に、今度は鳩尾めがけて拳をめり込ませた。 「やめて、翔平さんもう止めてくださいッ」  うるさい。どうして止める。こいつは今、俺の目の前でやってはならないことをやろうとした。亮介を傷つけようとする人間を、俺は絶対に許さない。 「馬鹿ッ、出血で死ぬぞ!」  さらに殴りかかろうとしていた腕が強い力で引き戻される。邪魔をするなと怒鳴りながら振り返ると、そこに居たのは必死に俺の腕に縋り付く亮介だった。 「りょ……ちゃ、ん」 「翔平、おま、お前、なにやってんだよ。くそ、なんだよこれッ」 「警察が来ました、もうすぐ救急車も到着するそうです!」  血を流し過ぎたのか、ふと気がつくと呼吸が浅く不規則なリズムを刻んでいた。視界がぼんやりとして、だらだらと嫌な汗が全身から噴き出してくる。  いつのまに近づいていたのか、黒っぽく見える警官らしき男性が村瀬を取り押さえ俺と引き離した。よろめく身体が支えられたかと思うと、そのまま床に寝かされ、上から薄手のコートがかけられる。 「じっとしていろ、大丈夫だから」  そう言って傷口を押さえる亮介の顔は、記憶の中の彼よりもちょっとやつれていた。必死に伸ばした指の先で、彼の黒髪がさらりと揺れて逃げていく。  なんだかとても不思議なものを目にしたような気がしたけれど、酷く眠くなってきたせいでよく分からなかった。

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