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あなたの側で_4

 パーキングに停車した車からいつもの調子で降りると、腹に響いた痛みに歯を食いしばる羽目になった。  二週間ベッドに縛り付けられた入院生活と、それ以前の不摂生が祟って体力がかなり低下しているようだ。退院したとはいえ自宅安静と医者に言われているが、そうのんびりしてもいられない。痛みが落ち着いたところで、今度は衝撃をなるべく和らげる歩き方で目的地へと足を進める。  日本最大の歓楽街という一般的な知識しか持っていないが、早朝の歌舞伎町は店舗の前に積み上げられたゴミと散乱するタバコの吸い殻のせいか、どことなく廃墟のようなもの寂しさがある。  それでも彼方此方に朝食を提供している店が開き、町は完全に眠っている訳でもなさそうだ。教えられた住所を登録したマップを確認しながら角を曲がると、そこから先は路地が細かすぎるのか上手く表示されなくなってしまう。 「ここで、合っているよな」  如何にも怪しげな人ひとり分の細い裏路地を、細心の注意を払いながら進んでいく。普段ならここまで警戒することはないが、腹の傷を抱えた状況を考えると用心するに越したことはない。  しばらく歩くと、目印の朱塗り階段が見えた。入り口はここを上った所のはずだ。一段登るたび、ギシギシと錆びた鉄骨が鳴き声を上げる。  怪しげな手書きの看板を確認し、緊張をほぐすために深呼吸をしてからインターホンを押す。一度押してから中の様子を伺っていると、しばらくしてガタガタと誰かが動いている物音がして、営業時間外よと機械越しの声が答えた。 「先日お電話をした榊です。今日の早朝に伺うお約束だったのですが」 『あら、本当に来たの。OK、いま開けるわ』  野太い女性言葉がそう言って切れると、暫くしてガチャリと鍵が空いて玄関ドアが開いた。  声の印象からそんな気はしていたが、ぬうっと現れたスキンヘッドの大男に思わず一歩退がってしまった。 「あら、想像していたよりも、随分と可愛いお坊ちゃんじゃないの。どうぞ、なんのお構いもしませんけど」 「し、失礼します」 「ちょっと、そっちは診察室。あんたはこっちよ」 「え、でも」 「アタシ、これから朝食なの。あんたも付き合いなさい」 「はい」  診察室の札がかかった部屋に自然と足がむきかけていた体が、強引にもうひとつ奥に通じるドアの方へ引っ張られる。  住居も兼ねているらしい診療所は、大陸のスラムのような外観とは真逆の落ち着いた空間に整えられていた。スキンヘッドの医者、澤井の趣味なのか、彼方此方に飾られたハワイアンなインテリアの中には、手作りらしきクッションカバーなどがある。 「どうぞ、適当に座って」 「ありがとうございます」  どう考えても此方の為に用意してくれていたであろう朝食の皿を前に、頂きますと言って澤井に合わせてナイフとフォークを取る。  サラダにソーセージ、そしてスクランブルエッグという洋風のモーニングは、綺麗な焼き色の薄いパンケーキが中央に陣取っている。  プロ級の盛り付けを目で楽しんでからパンケーキを一口大に切って口に運ぶと、ふわふわのパンのような食感と絶妙な味加減が素直に感動する。 「美味しいです」 「あら良かった。市販品は苦手で自分で粉混ぜてるから、どうかなって心配していたんだけど。お坊ちゃんのお墨付きならアタシの腕もプロ級かしらねー」 「お坊ちゃんは勘弁してくださいよ」  先ほどから当て擦りのように繰り返される名称にやんわりと抗議の意を示すと、事実でしょうと言われて返す言葉もない。  確かに生まれた時から榊に守られて生きてきた男は、世間知らずで甘ったれの、それでいて自分が誰よりも優秀な人間だと奢っていたお坊ちゃんなのだろう。  それでも、本当に澤井が此方を拒否するつもりなら、この診療所を訪れることは許されなかった筈だ。榊の力で調べさせれば直ぐに分かることかもしれないが、きっとそれでは意味がない。ただ亮介に会って気持ちを押し付けるのではなく、今の彼と真っ直ぐに向き合うことが大切なのだと信じたかった。 「今日は、お時間を頂きありがとうございます」 「いいのよ。アタシも会ってみたいと思っていたもの。もっと高慢ちきで鼻持ちならない若造かと思っていたから、予想以上に可愛いくてお坊ちゃんって呼んじゃった。ごめんなさいねぇ」 「いえ、気にしていません。それであの、亮介はどうしてこちらの診療所に?」  電話でここの住所を聞いた時は驚きを隠せなかった。そして同時に、彼が簡単には処方されないオメガの精神安定薬を持っていたことに納得がいった。  歌舞伎町はオメガが集まる最大の歓楽街だ。そこで診療所を開いているということは、違法的な方面に顔が効く、もしくは闇医者である可能性もある。  そんな医者と検事である亮介が知り合いだなんて、もし職場にバレでもしたら不味いのではないか。どうしても浮かんでしまう悪い想像が蘇り、美味しかったはずのパンケーキまで味がわからなくなる。 「そんなに不安そうな顔しなくても、こちとら真っ当に商売してるわよ。亮介ちゃんはね、彼のお父さんの紹介でここに通い出したの。あら、もうこんな時間じゃない。さっさと食べちゃって、あと三十分くらいで来ちゃうわよ」 「え、予約の患者さんですか」 「そうよ。あんたが会いたがってる亮介ちゃんが来るの!」

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