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あなたの側で_5
「駄目だなぁ、今朝はどこも満車だ。お父さん暫く彷徨いてるから、診察が終わったら連絡しなさい」
「分かった。ありがとう」
「階段には気をつけてね。危ない場所にも近づかないようにね」
「はい、はい」
目的地そのものが表通りから外れた危なそうな場所なんだがとは思ったが、殊勝に頷いて出発する車に手を振る。
空を見上げると、清々しいまでに春の青空だ。活動を終えた歓楽街の空気はやや澱んでいるが、爽やかな空の色にそれすら浄化されるようだ。
「さてと、行くか」
重たくなってきたお腹をひと撫ですると、通い慣れた道を歩いていく。
すっかり増えてしまった独り言に、お腹の子は耳を傾けてくれているのだろうか。コツンと中から蹴られた感触に、小さく笑って同じように軽く叩き返して返事をする。
自分の身体の中にもう一人の人間がいる。このなんとも奇妙で不思議な体験との付き合いも、いよいよ後半戦が目の前に迫っていた。
男性は身体が大きく腹筋も多いため女性ほどお腹が出ないらしいが、それでもサイズの大きな服やコートで誤魔化すのはそろそろ限界だ。
すでに上司には報告の上、出産後は左遷も決定済み。仕方ないが小さな仕事しか回されず、あからさまに自主退職を促されている身としては、激しさを増していく好奇の視線を我慢するよりは溜まった有給を使う方が賢いのかと真剣に悩む。
そんなことを考えていると、診療所へと続く朱塗りの鉄階段が見えてきた。澤井先生の好意に甘え土日の朝早くに健診を受けてきたが、後期に入ると同時に出産予定の大学病院で診察を受けるようにと言われている。
男性は難産になりやすいからと信頼できる転院先を手配して貰えたのはありがたいが、週一になる健診を大学病院でとなると平日の診察、それもほぼ一日仕事になることは間違いない。
やはり休職した方が良いのかと悩みながらインターホンを押すと、はーいと返事があってから玄関のドアが開いて見慣れたスキンヘッドの医師が顔を見せる。
「おはようございます。すみません、予約時間より少しはやく到着してしまいました」
「全然大丈夫よ。それじゃあ、採尿を済ませたら診察室に来てね」
「はい」
待合スペースでもある廊下のコート掛けに荷物と上着を掛けると、いつものようにまずは採尿の為にお手洗いに入る。
それが終わると、体重や血圧などの測定をする為に先生の居る診察室のドアを開ける。
「そういえば、この間怪我した亮介ちゃんのお友だち、無事に退院出来たみたいね。まだ動くと少し痛むでしょうけど、若いししっかり鍛えているから傷口も綺麗だったって看護師の人が言ってたわよ。良かったわね」
「そうですか。綾乃さんからも経過は順調だと連絡を頂きましたが、病院の方からそう聞くとほっとします」
「アタシ、医者友だちは少ないけど、看護師や薬剤師のお友だちは多いのよねぇ。うん、血圧も問題なし」
土曜日の朝にお願いしている健診日は、美味しいお茶をご馳走になりながら相談ごとが出来る貴重な時間だ。
とはいえ、ここひと月ほどはお腹の子とは別件の愚痴や相談ばかりになっていた。新年度からこっち、当分戻って来ないようなことを言っていたくせに人の視界をウロチョロする翔平に振り回されっぱなしである。
幸いと言って良いのか。干され気味の仕事は暇だったので助かったが、誤魔化してはいても違和感を感じる体型を見られたらと思うと、毎日が綱渡りな気分だった。
それでも、おずおずと近づいてくるのを拒みきれなくて、もう決まった相手が居ると分かっているのに声を聞きたくて、危なっかしいことに首を突っ込んでいるのが心配だと理由を付けて、翔平と関わることを止められなかった。
「結局、一度もお見舞いに行かなかったのね」
「無事だと分かれば、それで十分でしたから」
「それじゃあこのまま何にも言わず、生まれたばかりの赤ちゃんと二人で東京を離れるつもりなのね。もう二度と、彼とは会わないつもり?」
「実家がお隣さん同士のうちは、流石にそれは難しいかなと思いますけど。そうですね、まあ……もっと時間が経って、子どもが大きくなって、懐かしいなって笑えるくらいになったら、文句のひとつくらいは言ってやろうかな」
子どもの事について深く話す気はないけれど、いつかそんな他愛のない日が来たらと願ってしまう。
ぼんやりと遠い未来に想いを馳せていると、突然何かが雪崩を起こしたような物凄い音が部屋の奥からした。
反射的にお腹を庇いながら音の方を振り返った俺の横で、澤井先生がキャーッだの、薬棚がぁーッだの叫んでいる。
「亮ちゃん、これは一体どういうこと。アルファの女性との間に子どもが出来て、それで結婚するんじゃないの。ずっと言ってた夢を全部叶えて、亮ちゃんは幸せなんじゃないの?」
ベッド奥の間仕切られた空間から飛び出してきたのは、今にも泣きそうな顔をした翔平だった。
何でお前がここに居る。最近、会うたびに出る言葉がまた頭に浮かんだ。そして一瞬の空白の後、ひた隠しにしていた全てを翔平に見られてしまった事実に全身の血液がザアッと下がっていく。
「や、これはその、つまりだな」
「俺はてっきり、誰かが亮ちゃんの子どもをと思っていたのに、まさか、まさか亮ちゃん本人がそんなことになっているなんて」
「落ち着け翔平、話せば長くなるんだ。俺はただ、お前に迷惑はかけたくなくて……」
「おまけに二人で東京を離れるってなに。それってつまり、亮ちゃんをそんな風にした奴は、責任も取らずに逃げ出したってこと?!」
「左遷はまあ仕方がないし、お前にみっともない所は見せたくなかったんだ。安いプライドだ、笑うなら笑ってくれ」
「そんなクズ野郎は俺が許さない。亮ちゃんが俺よりそいつの事が好きでも、俺は絶対に許さないし譲らない。俺が、俺が亮介も亮介の子どもも守る。誰の子だろうと、俺が一生守って幸せにするから!」
「ん、え、誰の子って、あれ?」
「っぷ、あはははははは、ごめ、ごめんなさい。だってあんた達、会話が噛み合ってなさすぎて、だはははははははッ、腹いてぇッ」
お腹を抱えて爆笑する澤井先生の、もしかしたら初耳かもしれない男言葉にぽかんとしつつ、俺は翔平とようやく正面から目を合わせることが出来たのだった。
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