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あなたの側で_6
衝撃的だとか、ショックだとか、そんな次元の話ではなかったと思う。
厳つい腕に放り込まれるように押し込まれた場所は、診察室の奥に作られた間仕切り空間だった。
診療所で直接処方する薬剤や、昔のカルテらしきものが整理整頓されて並べられた場所の一番奥で身を屈めていると、しばらくしてインターホンのチャイムが鳴った。
ドアが閉まる音と、和んだ空気の会話。間違えようのない亮介の声に、ドクドクと心臓が鼓動を早くした。
こっそりと覗いた先で、亮介は診察用の椅子に座って澤井と話しながら血圧を測っていた。不自然に膨らんだ彼の腹部と二人の会話に、頭がこんがらがって何が何だか分からなくなった。
はっきりと分かる事実は、亮介の子を妊娠していたのは見知らぬ他人ではなく彼自身であり、俺の番にそんなとんでもないことをしでかした野郎が責任を放棄して逃げ出していたということだった。
悲しいのか、悔しいのか、嬉しいのか。ぐちゃぐちゃに混じり合ったものが爆発して、気がつけば狭い空間の彼方此方にぶつかりながら飛び出していた。
何が起こったのか分からないといった顔をしている亮介のお腹は、やはり不自然に膨らんでいる。ああ、泣いてしまいそうに苦しい。相反する感情に、榊翔平という人間が引き裂かれてしまいそうだ。
「いやお前、なに言ってんの?」
突然ゲラゲラと笑い出した澤井に気を取られていると、一段声のトーンが落ちた亮介がそう言って立ち上がる。
「え、だから、俺と結婚してください」
「そうじゃないだろう。この子が誰の子だって?」
「亮……ちゃんの子」
「そこは見れば分かることだろうッ。お前がいま、この子の父親のことを何て言ったかって聞いているんだよ!」
「く、クズ野郎、は少し言い過ぎたかもしれな……いや、身重の人を置いて逃げる奴なんて、クズ野郎以外の何者でもなくない?!」
「俺が妊娠したことを黙ってたんだから、別にクズ野郎なんかじゃない。知ったら絶対、馬鹿なことするだろうって思ったから教えなかったんだ。俺の子どもだ、俺一人で立派に育ててみせる!」
「ぇえ、てことはまさか、相手の人は子どもが出来たこと知らないの。それは、あまり庇いたくもないんだけど、ちょっと酷いんじゃ……あ」
そこまで言ったところで、馬鹿な俺はようやく気づいた。どうしてその可能性を一番初めに考えなかったのだろう。
やっぱりお腹の子の父親は、最低で情けなくて鈍感のクズ野郎ではないか。全身から力が抜けて、この場にへたり込んでしまいそうになる。
「ごめん……俺、どうしても亮ちゃんに関しては自信が持てなくて。いま想像していることが正解だったとしても、また必要ないって言われるんじゃないかと怖くてたまらない。でも例えそう言われたとしても、本当に嫌われているんだとしても、俺の気持ちは変わらないから。誰に何を言われても、俺には亮ちゃんしかいないから」
「……翔」
「だから、俺と結婚してください。亮介の人生に俺が居ることを許してください。世界で一番大好きですッ」
小っ恥ずかしい子どもみたいなプロポーズに、顔から火でも吹いてしまいそうだ。
こんな情けない、必死なだけの言葉の羅列に、見つめる先の亮介の顔から一筋の涙が落ちる。
「でも、お前は、すごい所のお坊ちゃんで」
「榊の名前は捨ててきた。だからその、正直に言うと大学も中退になっちゃうから無職の高卒なんだけど、これから必死になって頑張って、必ず一人前の社会人になるから!」
「ばっ、馬鹿、誰がそんなことしてくれって頼んだ。俺はそんなことッ」
「俺が決めたことだよ。ここで亮介に手を振り払われても、一度自分で決めた選択をやり直したりしない。亮介が認めてくれるまで、うるさいって言われてもずっと傍にいる。亮介が行くところなら、何処にだってついて行く」
「そんな、そんなの……」
「いい加減、覚悟を決めなさいよ」
俯いてしまった亮介の前でおろおろしていると、あれほど爆笑していたのが嘘のように穏やかな声が語りかけてきた。
両手で顔を覆ってしまった亮介の肩を、澤井の大きな手が優しく勇気づけるように何度か叩く。
「坊やはこれからの人生全部、あなたと一緒に歩くって決めてここに来たのよ。一人で子どもを育てる覚悟を持てるなら、彼の覚悟と人生も背負って生きるくらいの気概を見せなさい。一生に一度の大恋愛って、そういうものでしょう!」
ばんっと力強く背中を叩かれ、ついた決壊したように亮介の綺麗な目から涙が次々とこぼれ落ちる。俺の視界もまた、つられたようにぼやけて霞んでいく。
「翔平、ごめん。黙っていてごめん、勇気がなかったのは俺の方なんだ。お前を信じる勇気も自信もなくて、一人で平気だって突っ張っていた。お前は俺の憧れで、たった一人の友だちだから。お前と対等になることが俺の人生の目標だったから」
恐る恐る伸ばされた手が夢ではないと確かめたくて、目の前にいる人を強く強く抱きしめた。
亮介からいつも香っていた匂いがやはり感じられないことは寂しかったが、もうそんなことはどうでも良かった。運命の相手であってもなくても、彼を愛おしいと思う気持ちだけが真実だ。
「門脇亮介さん、俺と結婚してくれますか?」
「ッ……うん、うん、一生……翔平と一緒に居る」
その日は綺麗な青空だったのだと、後から亮介に聞いた。曰く、彼の運命の日は、必ず雲ひとつない晴天に恵まれるのだそうだ。
似たようなジンクスなら俺にもあったが、正直あまり当てにはならないので秘密にしておいた。だって運命を前にした胸のざわめきなんて、亮介に出会ってからは収まったことがないのだ。
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