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ハッピーエンドを目指して_2
南国の空は、四方を囲む海の色を映したように青が際立って美しい。
無論、空の青さにも海の青さにも科学的な理由は存在するわけだが、実際にその中間のような場所に立つとそんなものはどうでもよくなる。
アクセルを踏む足に力を込めてスピードを上げると、チャイルドシートに乗った晴がきゃっきゃとはしゃぐ。上の方だけ開けた窓から入る空気は、本州よりも早い梅雨明けをした夏の匂いだ。
「はるちゃん、あんまり動くとお母さん怖いよ」
「うーうー」
「うん、今日も海、綺麗だね」
離島の区検察庁勤務となって二度目の夏。夏生まれの晴が生後半年になる頃にやってきた南の島は、東京と同じ国とは思えないゆったりとした時間が流れている。
まだ単語レベルの言葉しか喋れない娘も、誕生日には二歳になる。生まれてからずっと東京の俺と翔平には、離島暮らしはカルチャーショックの連続だった。
しかし住めば都とは、よく言ったものだ。今では独特の島時間や濃い人間関係にも慣れて、それらを楽しむ余裕もできてきた。
フェリーターミナル近くの職場から保育園に寄り、そこから車を走らせること十数分。海に憧れのある俺たちが借りたのは、海岸に近い場所に立つ2LDKの賃貸マンションである。
この春から晴を保育園に入れたのを機に、翔平はアルバイトに留めていたダイビングショップで正式に働き出した。忙しさに偏りのある仕事だが、なにせ見た目が王子様の翔平目当ての客も多いので、ずいぶん前から店長の熱烈な勧誘を受けていたらしい。
とは言え、正社員となったからにはアルバイトのようにいかない。これまで助けてもらっていた分、多忙なシーズンを迎える翔平に代わり、しばらく晴のお世話は俺が中心になる。
「あれ、なんだろう」
晴を抱き上げながら郵便受けを開けると、広告ハガキやチラシに混じって薄い藤色の封筒が鎮座していた。
裏返して見ると、そこには手書きの字で村瀬綾乃と署名されている。今どき封書とは珍しいと思いつつ、翔平宛のそれを一旦下駄箱の上に置いておく。
綾乃が村瀬の姓を名乗り、性反転薬を服用し始めてから一年ほど経っただろうか。翔平とは従兄弟だけあってそれなりに連絡を取り合っているようだが、何か改ったことでもあったのかもしれない。
手洗いを済ませて冷蔵庫の中を確認していると、ぐいぐいとリビングでテレビを見ていたはずの晴に服を引っ張られた。
「まんま」
「あ、ごめん。お腹空いたね、すぐご飯にするから」
「んーんー」
「うっ」
こちらを切なそうに見上げる表情が翔平そっくりで、ダメだとわかっているのに負けそうになる。
確かに午後六時を過ぎた時間は幼い子には遅く、かつヘルシーで少なめの園のオヤツはとうの昔に消化されているだろう。あと三十分は欲しい夕食準備をただ待たせるのは、どうにも忍びなくて良心が痛む。
「……ちょっとだけだからね」
小袋のボーロを半分だけスナックケースに移すと、嬉しそうに足踏みをしながら晴が手を伸ばしてくる。夕食前の間食はダメだと翔平に注意されているのに、どうしても我が子のお願いビームに負けてしまうのだ。
目当てのものを手に入れた晴は、早速のようにスナックケースに手を突っ込んでご機嫌である。とにかく早く夕食を作ろうとエプロンをして動き出すと同時に、俺の頭からはあの手紙の事は消え去っていた。
その存在を思い出したのは、遅い夕食と風呂を済ませた翔平と並んで冷えたビールで晩酌をしている時だった。
玄関に置きっぱなしされていた手紙を取って戻ると、なんだか怪しげなものを触る手つきで翔平が封を開ける。
中に入っていたのは、封筒と同じ藤色の便箋と長野県の住所が記載されたカードが一枚。どうやら、転居案内の挨拶だったらしい。
「へぇ、長野かぁ。いいな」
エメラルドグリーンの南国も良いけれど、晴れた日にはアルプスを望める高原も魅力的だとほろ酔い気分で思っていると、手紙に目を通していた翔平の眉間にいつの間かシワが寄っている。
「翔、どうした?」
「いや、今度の連休にこっちに遊びに来るって書いてあるんだけど、なんかこう、怪しいような」
「え、そうなのか。うわー何年ぶりだろう。いいじゃないか、懐かしい。あ、でもそうだな。村瀬も一緒だろうし……ちょっとあれだよな」
「いや、彼奴に刺されたのとか、犬に噛まれた程度でしかないし気にしないよ。そっちじゃなくて、旦那さんと一緒に友だちも連れて行くって書いてあるのが引っかかるんだよね。あの人、友だちなんて居たかな」
「それはお前、ちょっと失礼だぞ」
「アルファは純粋な友だちなんて基本作らないでしょう。榊を勘当されて性反転もした綾乃さんと、旅行までする友だち……想像つかないなぁ」
「友だちがアルファとは限らないじゃないか。むしろその友だちと旅行をするついでに、俺たちに会おうってことだろう」
「そうかもしれないけど、うーん」
いまひとつ納得がいかない様子の翔平の顔は、仕事のせいかすっかり日に焼けた小麦色だ。逆に海水に浸かるため荒れがちな髪は、色素が抜けてさらに金色染みた色になってしまっている。
難しい顔をしている翔平にもたれて濡れた髪に指を絡ませると、微かに柑橘類の爽やかな香りがする。
「買っておいたヘアオイル、ちゃんと使ってるんだな」
「ん、使ってるよ。でも夏場は仕方ないね、すっかり脱色しちゃった。まあこんな俺も男前でしょ」
「うん、カッコいいぞ」
「っっ、もー亮ちゃんはさぁ、もーッ」
「なんだよ」
自然とくっつき合った唇がすぐに深くなって、シャツの下を探る手の動きに腰が震える。俺は明日から休みだけれど、翔平は朝から仕事のサービス業だ。
「ごめん、早く寝たほうがいいよな」
「いやいや、ここで何もせずって寝られるわけないでしょう。大丈夫、体力には自信があるから」
「知ってる……け、ど」
「あー、亮ちゃんの匂いがする。だめ、抱かせて」
くんと頸のあたりを嗅がれて舌で舐められて、爪先までぞくぞくとした性感が走り抜けていく。他の誰かに同じことをされても問答無用で殴り倒す自信があるのに、翔平にだけはどうにも敵わない。
たったこれだけのことで俺を骨抜きする、世界で一人だけの絶対者。
「ん、ちょ、あんまり……臭うなよ」
性的に興奮した状態のパートナーの匂いに当てられるのはお互い様だが、あまりあからさまに嗅がれると流石に恥ずかしい。
力の入らない手で翔平の胸を押すと、駄目と耳に吹き込むように優しく囁かれて腰が抜ける。
「亮ちゃんの匂いが感じられなくなったとき、本当にショックで寂しかったんだ。妊娠中はそうなんだって先生が教えてくれるまで、俺は割と真剣に悩んでたんだから」
「バカ」
顔のあちこちにキスをしてくる翔平に同じように返しながら、今夜もゴムだけはしっかり着けさせようと心に誓う。
翔平と晴のいる毎日は、あまりに甘くて幸せで、俺は少しだけ大切なことを見落としていた。
それは手紙が届いてから半月後、海を渡って島にやって来た。
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