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第1章 ガーゴイルのまなざし 5.振り向かない日々

「法学部?」  タブレットに進路希望を入力しているといつのまにか後ろに(きょう)が立っている。一有(いちう)は画面がみえないように胸の方へ引き寄せた。 「キョウ、覗くなよ」  顔をしかめてそういったのに、叶は屈託がない。 「大丈夫、俺のもみせるから」 「なにが大丈夫だ。いいって」 「いいからいいから」  そういいながら突き出されたタブレットの画面には、一有と同じ大学、同じ学部が書かれている。 「……おまえも?」 「そうらしい」 「意外……でもないか」一有は椅子に座ったまま首をそらす。 「キョウの将来は弁護士とか?」 「そっちこそ、なぜ法学部?」 「当たり障りなさそうだから」 「自分の進路なのにそれでいいのか?」 「先生みたいなことをいうなよ」一有はムスっと答えた。 「書いてみただけだ。入れるとは限らない」  聖騎士学園のモットーは「生徒の自主性・創造性の尊重」「画一的な受験制度に縛られない豊かな学園生活」だ。卒業生には名族が多く、ソフト面ハード面ともに充実した施設や、学内行事、クラブ活動には彼らの寄附金がものをいう。そのくせ実力主義の進学校としても名をとどろかせていて、二年生の後期もなかばをすぎれば、程度の差はあれみえないプレッシャーが生徒の肩にのしかかる。  一有も例外ではなかった。受験を意識して勉強をはじめたのは二年生の冬休みがおわり、寮に戻ったあたりからだ。二年生後期の成績は中間期末とも学年八位に終わった。叶はずっと学年一位から三位のあいだを行ったり来たりしている。同じ大学に行くとは限らないが、少なくとも向いている方向は同じだと考えると、一有は素朴に嬉しかった。 「今度の春休みなんだけどさ」 「ん?」 「合宿で免許とろうと思って」 「え、もう――あ、そうか」叶は悔しそうな表情になる。「もう十八か。イチウはずるい」 「どこがずるいんだ」 「ずるいからずるい」  叶は一有の頭を両手でつかみ、髪をくしゃくしゃにかきまぜた。  年が一歳上だと叶に告白したのは去年の誕生日だ。後見人の神宮寺がなんとなく苦手なことも話した。叶の家族の話もいろいろ聞いた――尊敬している従兄のこと、母親と双子の妹のこと、鷲尾崎本家と叶の一家がどんな関係にあるか。  学園の他の友人には話さないことも叶には話した。それなのにときたま、いちばん大事なことは話していないような気もした。叶だってそうだ。たとえば叶はつい先日、三年生のオメガに告白されている。一有はそれをクラスの噂話で知ったが、叶は一有に何もいわなかった。先輩の方がフラれたらしい、という話も噂話で知った。 「キョウは春休みどうするの」 「んー……家の用事と勉強」 「だったら心配ないな。安心して合宿に行ける」 「イチウは俺の何を心配してる」 「ひとりになったらかわいそうだろう?」  一有はわざとらしくいい捨てる。冗談だと叶はわかっているはずだ。すると叶は一有の髪をさらにぐしゃぐしゃにかきまわし、椅子の背後から羽交い絞めしようとする。 「おい、キョウ!」 「俺がかわいそうなら合宿免許は来年にするんだな」 「まさか。このために貯金したんだぞ!」 「来年俺と一緒に行って、利息でジュースを奢るのがイチウの役目」 「んなめちゃくちゃな」  一有は胸の前にまわった叶の肘をくすぐり、油断させて椅子から逃げ出す。そのあとはいつもの、とっくみあいともじゃれあいともつかない遊びになる。寮の床の上にふたりで転がって笑いながら、それまで何の話をしていたのか忘れる。 「イチウ、春休み……うちに来ないか」  天井をみつめながら叶がいった。 「免許とったって、高校生で寮にいたら何もできないだろう?」 「おまえにあわせて一年のばせって?」 「絶対そうするべきだ。その方がいい」  寝転がったまま横をみると、叶は一有をまっすぐみつめている。こんな時間はいつまで続くんだろう。突然そんな思いが浮かんで、心の底に潜む水面がふるふると揺れた。 「まったく、なにが『絶対』だ」  一有は呆れたようにいってみせる。 「それよりも正直に、俺に会えないとさびしいっていえば?」  すぐさま返事がきた。「イチウに会えないとさびしい」  なぜか泣きたいような気持ちになった。泣くようなことなんて何もないのに。 「キョウの馬鹿」 「は?」 「何でもない」 「免許は?」 「来年にする」  十代はけっして後ろを振り向かない。  春休みがおわり、三年目の日々はあっという間に過ぎた。生徒会、学校行事、そして受験勉強。三年生にとって、受験シーズン前最後の華は文化祭だ。名族の子弟が多い聖騎士学園の学園祭には、父兄や地元の住人だけでなく、首都圏の交流校の生徒やOBの学生もシャトルバスに乗って集まる。  一有のクラスの出し物は「仮-想・カフェ」だった。喫茶店仕立てにした教室に入った客は、仮装した生徒にメニューを渡され、VR体験ができるチケットを購入する。コンテンツは校内を舞台に三六〇度カメラで撮った実写VRだ。提案したのは受験勉強そっちのけでVR制作にのめりこんでいたクラスメイトだった。進学先は海外で、めざすはハリウッドという剛の者だ。生徒にも学校にも資金が潤沢な聖騎士学園らしい出し物である。  一有はクラス中に推されてカフェの店長に就任した。衣装班はアラビアンナイト風の悪乗り衣装を三パターン用意した。ウエイターになるオメガはアラジンの衣装だったが、一有はといえば―― 「ちょっと待て。これ着るのか?」 「狙い通りだ。似合うよ。カッコいい!」 「いやでも、これも……? これビキニだろ?」 「上からズボン履くから大丈夫だって」 「ズボンって……透けてるぞ。こっちは上半身透けてる。おい、俺もアラジンがいいよ」 「一有は店長なんだよ? お客さんをVRへ誘う妖艶なマスターなんだから、このくらいじゃないと」 「……まて、こんなの似合うのはウエイターの方だろ? ベータよりオメガの方がよっぽど」 「だーめ!」  三年間通して同じクラスの西尾が嬉しそうに宣言した。 「ベータの仮装は男子校の華だ。絶対これがイイって! うちはアルファがぱっとしないからな。ここは聖騎士学園ナンバー1美人ベータ、境一有(さかい いちう)でクラス対抗イケメン投票も制覇だ! 誰の騎士(ナイト)にもならなかったおまえこそ、俺たちの騎士(ナイト)!」  ……騎士(ナイト)がどうしてビキニを着るんだ。  一有の頭には大きな疑問符が浮かんだが、クラスメイトの顔は悪意ではなく期待でいっぱいだったし、一有にしても、入学して二年半のあいだに、こんな風にもりあがるこの学園の空気にはすっかり馴染んでいた。  それにオメガの生徒には、お祭りの遊びといっても危うい衣装は着せられなかった。学園祭には父兄だけでなく、アルファの大人も来るからだ。一有が選ばれたのは妥当だったといえる。  いざ学園祭がはじまると一有のクラスは三日間とも大盛況で、入場者待ちの列ができるありさまだった。三日目の午後、そろそろ終わるという安心感でほっとした頃合いに、叶が「仮-想・カフェ」にあらわれた。 「知ってたくせに笑うな」  叶はチケットを片手にニヤニヤしている。一有は思わず睨みつけた。 「休憩は?」 「これから」 「そのへん回らないか?」  一有は制服のトレンチコートを羽織ってクラスを出た。横に並んで歩いているのに、叶はちらちら一有をみている。 「何が気になるんだ?」  一有はサンダルを気にしながらいった。キラキラする飾りがついた踵のないサンダルはすべりやすく脱げやすく、階段の上り下りには注意が必要だった。 「いや……」 「一度脱いだら着るのが大変なんだよ」 「似合ってるからいい」 「またまた」  どうでもいい話をしながら校内を回った。叶も一有も顔が売れているし、一有はこの格好だから、あちこちで知り合いに話しかけられる。学園には大人を含めて、いつもよりたくさんの人間が行き来している。なんとなく怠くなったころ、叶がいった。 「イチウ」 「なに」 「疲れた?」  まあね。声に出さずにうなずいただけだったが、叶は考えこむような目つきになった。廊下を曲がって人の少ない方へ歩いていく。改築や増築を繰り返した学園の校舎は複雑な形をしている。一有も最初のうちは何度も迷ったものだった。叶は学内関係者以外立ち入り禁止のテープをまたぎ、元美術教室の戸を引いた。一有もあとにつづいた。去年新しい施設ができてから使われなくなった部屋だった。  入ったところは狭い準備室で、壁にキャンバスが立てかけられている。一有の右足のサンダルがひとりでに脱げて床を滑った。隣の美術教室に椅子があるにちがいないと、サンダルを追いかけついでに一有は半分ひらいた戸口へ向かった――が、中に入ろうとした瞬間凍りついた。 「はあっあっ…あっ、あっ、ああんっ、だめ、そこだめ……」  教室の真ん中あたり、制服の上半身はそのままに、白い尻をむき出しにした生徒が机にしがみつき、声をあげていたのだ。うしろから抱く腕も制服で、一有の位置からも男根がぬるりと尻をでて、また入るのがみえた。 「んっ……あ……だめじゃない、いい、いい、あ、あ、はぁ、はあっあああっんっ」  一有は動けなかった。見てはいけないと思うのに視線をそらすこともできない。教室の中のふたりは一有にまったく気づいていない。静かな空間に器官が擦れる濡れた音が響く。  ごくりと唾を飲んだとき、肩に腕が回った。ふりむこうとすると口を手のひらでふさがれた。  叶が唇に人差し指を立てている。口をふさがれてはどのみち何もいえないのに。 「……や……あ――いっちゃ――」  教室の中ではかすれた声があがっている。叶の腕にひっぱられるままに一有は後ずさり、準備室を出た。叶が黙ったまま一有のサンダルを廊下に置いた。  サンダルを履きなおして立ち入り禁止のロープを乗り越えたときも、ふたりとも黙っていた。ぼうっとそのまま歩くうちにいつのまにか一有のクラスまで戻っていた。 「店長~店長のお帰りです!」  陽気なクラスメイトの声を聞きながら一有は叶に手をふった。喧騒のなかではさっきの光景は現実味を失って、夢でもみたような気分だった。それでも手のひらの感触ははっきり覚えていた。叶が一有の口をふさいだ、あの手のひら。  その晩、叶は寮の部屋になかなか戻ってこなかった。  学園祭最終日はクラスごとにささやかな打ち上げが開かれる。ジュースとお菓子とホットドッグで一有のクラスは多いに盛り上がり、一有が部屋に戻ったのも消灯すこし前だったが、叶はまだ戻らなかった。  一有はベッドに転がったまま叶を待った。深い理由はなかった。いつものように話をしたかっただけだ。とくに今日は、昼間ふたりでみた光景のことを。  顔の見えなかったあのふたりは誰だろう。わかったのはアルファとオメガということだけ。  発情期(ヒート)。一有は三文字を頭に思い浮かべる。学内や寮内でセックスなんて、あってはならないこととされているが、それが建前だということは生徒はみな知っている。どのくらいの生徒が経験するかはともかくとして、いつだってありうることなのだ。ヒートが来たオメガは待てないから。  一有のまぶたのうらで白い尻と腰がうごめく。手のひらで口をふさがれたとき、一有ははっきりと叶の匂いを嗅いだ。ふだんは意識もしない匂い。一有はもぞもぞとズボンをさすり、右手を動かしはじめた。ふだんは部屋でこんなことはしない――せいぜいトイレとか、誰もいないシャワーだ。今だって、叶がいつ戻ってくるかわからない。  それなのに――だからこそ?――一有の手は止まらなかったし、頭の中で自分を重ねていたのはあのオメガの方だった。背後に立った叶が一有の唇を片手でふさぎ、もう片手で腰を抱きしめ、一有自身をまさぐりにかかる。アラビアンナイトの透ける衣装を着た一有の下半身は薄い布をぶかっこうに押し上げている。叶は布の内側に指を入れ、一有の腰に叶の腰が押しつけられて……。  カチャっと音がして、ドアがひらいた。  一有は声を飲みこみ、目をみひらいた。ガバっと起き上がったときには叶はもう部屋に入っている。手に届く場所にティッシュはないし、届いたとしても遅すぎる。 「寝てた?」  一有は誤魔化すような薄笑いを浮かべ、またベッドに倒れた。濡れた下着はしばらく我慢するしかない。 「起きてるつもりだったけど、眠ってた」  叶はうなずいて自分のベッドへ行き、ドサッと音を立てて横になった。 「着替えないのか?」  どうでもいいことだとわかっていたが、一有はたずねた。叶は物憂げに返事をした。 「風呂行かないと」 「俺も……」  もう一回風呂に入りたいかも。一有はそういおうとして言葉を飲みこんだ。叶の裸を思い浮かべたせいだった。何度もみたことがある叶の裸。一有よりひとまわり大きく、太腿と肩にははっきりと筋肉が浮かんでいる。  急に自分の精液の匂いが鼻についた。なぜか自分の体のコントロールが効かなくなったような気がする。胸がどきどき鳴って止まらないのだ。  部屋のむこうの側のベッドに寝そべったまま、叶が低い声で呼んだ。 「イチウ」 「ん?」 「相手がほしいと思うか?」  何がいいたいのかはもちろんわかっていた。それでも一有はとぼけた。 「相手って、何の」  叶は答えなかった。  ずっと黙っているので、てっきり叶は眠ったのだと思った。下着を換えたかったことも忘れ、一有もうとうとしはじめた。消灯の音楽が廊下で流れている。このまま寝るのなら部屋の電気も消さないと。そう思っているうちにあたりが暗くなった。叶が消したのか。うとうとしたまま一有は掛布団をひきよせた。目をとじたまま誰かの吐息を感じたような気がしたが、そのまま朝まで眠ってしまった。

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