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第2章 傷つけるのをおそれ 1.噴水の午後
「予備試験を受けるにせよ、ロースクールへに進学するにせよ、準備は早めにはじめた方がいいぞ。予備試験対策はロースクール受験にも役立つから無駄にはならない」
一有 の後見人、神宮寺がコーヒーカップを回しながらいった。ホテルのロビーカフェは冷房が効いている。一有のむかいに座る神宮寺はきちんとスーツを着て、ネクタイまで締めていた。グレーの半袖シャツを着た一有にはすこし肌寒いが、大学生の服装としてはありふれたものだ。
無事大学へ入学して数か月たつと、高校三年の受験勉強は地獄のようなお祭りのような、遠い記憶に埋もれている。叶 とおなじ大学、おなじ学部に進学した一有を季節は慌ただしく通過した。窓のむこうは水の流れる庭園で、午後の光の下で噴水がきらめく。外はもう真夏と呼んでいい気温だが、ガラスのこちら側は別世界だ。
「実務家になるには予備試験が早道だというが、私はロースクールの進学もいいと思う。単に紙の上の勉強に終わらなものがあるからな。学費や生活費のことは気にしなくていい。目標があれば学部の四年などあっという間だぞ。アルバイトなどしている暇があったら勉強しなさい」
黙って神宮寺の話をききながら、一有はコーヒーに砂糖を入れる。隣の皿にはオレンジとチョコレートのケーキ。白い皿にオレンジのソースが図形を描いている。神宮寺のまえにも同じケーキの皿がある。年配のアルファは甘党だ。
両親が死んで以来、後見人として一有の養育を引き受けた彼は、アウクトス・コーポレーションの企業内弁護士 である。一有は彼がスーツ以外の服装でいるところをみたことがない。
アウクトス・コーポレーションはアルファの名族を対象に、ゆりかごから墓場の先にある出来事まで、幅広く問題解決 を請け負う会社だ。一般人向けのサービスではないが、個人警護から相続までサービスの幅は広く、規模も大きい。
死んだ一有の両親と神宮寺は古いつきあいの友人だったというが、一有にとって神宮寺は、初めて会った時からいまひとつ親しみを持てない存在だった。アルファの例にもれない押しの強さや、物事をすすめる時の強引なやり方が子供の頃の一有にはきつく、その印象を今にいたるまで引きずってしまっている。
さほど有名ではないが「神宮寺」も名族の姓だ。ベータの両親が彼とどんな「友人」だったのかも一有は知らない。訊ねたいと思ったこともあるが、神宮寺を前にするとうまく話を切り出せない。
今日の話もそうだ。神宮寺は一有が司法試験に通り、自分とおなじ法曹になると思いこんでいる。いつ彼がそう思いこむようになったのかも一有にはわからないが、一有自身がはっきり否定していないせいで、神宮寺の思いこみは強化されたのかもしれない。
彼が一有のためを思っているのはわかっていた。アルファの後見人は一有の将来に責任を感じているのだ。そう考えると、頭の中で組み立てられつつあった考え――司法試験には興味がないとか、可能ならいずれ転部するか、他学部へ編入したい――は、言葉になるまえに消えてしまうのだ。
というわけで、一有はとにかくあたりさわりのなさそうな言葉を口から押し出す。
「はい。将来のことはまた……よく考えます」
「もちろん、十九歳ですべてを決める必要はないさ。しかし鷲尾崎君も同じ大学だし、仲間がいるとやりがいがあるはずだ。大学は楽しいか?」
「けっこう慣れました。高校とはぜんぜんちがうので、最初はびっくりしたけど」
「ああ。大学は授業もちがうし、学生も……高校までとはちがって、みんな一緒だからな。人間関係もいろいろと増える」
話してばかりの神宮寺の皿にはケーキがまだ半分残っている。一有の皿にはオレンジソースの名残があるだけだ。まだ口の中には濃いチョコレートの匂いが残っている。
「アルファもオメガも同じクラスというのは、高校までと大きなちがいだな。パートナーのいる学生もそれなりにいるはずだ――」神宮寺は言葉を切った。意味ありげな目つきをみて、一有はなんとなく察した。
「俺はまだ、誰も……」
「そうか?」思いがけず神宮寺は目じりを緩めた。
「一有ならモテると思ったが」
「モテるなんて、そんなことないです。キョウならともかく、俺はただのベータだし」
「でも生徒会で活躍しただろう。聖騎士学園では騎士 にひっぱりだこだったんじゃないか? 誰かできたら紹介してくれるね」
一有はうなずいた。最後のコーヒーがチョコレートの名残を消していく。
たしかに大学へ入ったとたん、人間関係はいくらか変わった。なにしろ聖騎士学園の高校時代まで、アルファとオメガは慎重に分離され、管理されていたというのに、大学へ入ったとたん、三性ごちゃまぜの大学デビューだ。おなじキャンパスにいるカップルには、すでに結婚したり、パートナー契約を結んでいる者もいる。
アルファとオメガのカップルはベータより圧倒的に少ないのに、キャンパスではひどく目立った。外見のせいもあればふるまいのせいもあるだろう。アルファとオメガのつがいは周囲にそれを隠せないのだ。アルファはつがいのオメガをそばに置きたがるし、オメガはつがいのアルファのそばにいるとあきらかに態度が変わる。
特定の相手がいなくとも、三性のちがい――生理現象の差は社会の仕組に反映されていた。たとえば〈ハウス〉という娯楽施設は発情期 のオメガがアルファによって不利な立場におかれないように作られている。同時にオメガのヒートに影響されて発情 するアルファをベータの目から隠しもする。
しかしベータにとっては、オメガのヒートもアルファのラットも想像が難しいものだった。ベータだけが残った飲み会では――たとえばアルファとオメガが〈ハウス〉へ消えた後の飲み会では――発情期の彼らについては下品な推測が飛び交った。
「ようするにハードコアAVだろ」
「全員絶倫で」
「男でも濡れるのは楽じゃないか」
「楽っていう話か?」
二十歳前のベータ同士では、この手の話は最後にはうやむやに笑って終わるのがつねだ。
ベータとオメガのカップルもいないわけではない。しかしアルファはオメガを独占したがるし、実際に独占していた。ずっと昔は、支配欲の強いアルファのおかげでオメガは大学進学もろくにできなかったというが、今はそんなことはない。オメガだからといって進学も就職もさせない家庭は強く非難されるくらいだ。
オメガの社会的地位があがるにともなって、早婚と学生時代の出産も増えた。子供を産んで一時的に大学や職場を離れても不利にならない制度が浸透したおかげである。
今の時代は早めに子供を産みたがるものが多い。つがいのいる男子のオメガには、妊娠可能となる発情期 は年に三回か四回しかこない。だからこそ子供を産むなら学生のうちがいいという。学生の方が時間の自由もきくし、産んだ後の支援も受けやすい。子供が大きくなってもまだ若く、体力も残っているから仕事だってバリバリできる――というわけだ。
しかしこんな話が関係あるのはアルファの叶 であって、一有ではない。いや、一有だって誰かとセックスして、自分の子供を産んでもらうことはあっていい。いいはずだが……。
神宮寺と別れた一有は大学のキャンパスに戻った。都心の一等地に広がる敷地には十五階建ての新校舎ビルと古めかしい旧校舎が混在している。講義のほとんどは快適な新校舎で行われていた。旧校舎の一部は改築されて洒落たカフェテリアやレストランになっている。映画の撮影によくつかわれていることでも有名なキャンパスだ。
大学へ戻ったものの、今日はもう講義はなかった。アルバイトなどせず勉強しろ、という神宮寺の言葉をいれて図書館へ行くべきか。ケーキはさっき食べたし――と思いながらカフェテリアでぼうっとしていると、中庭のむこうから背の高い影がやってくる。
「イチウ。憂鬱な顔だな」
「そうか?」
叶の顔をみたとたん、一有はここで彼を待っていたような気分になる。約束などしていないのに、ふたりでひそかにしめしあわせていたような気持ちになるのだ。もちろん同じ学部だから、かぶっている講義は多く、時間があれば昼はよく一緒に食べる。
もうすぐ前期がおわるころだが、一有が知るかぎりまだ叶に恋人はいない。四月に入学してからしばらくは「大学デビュー」とばかりにあちこちでカップルの噂が花開いたが、叶の周辺にはまったくそんな話が出なかった。
それでも一有はキャンパス内で、叶が知らないオメガと話しているのを何度もみたことがある。そんなとき、一有はできるだけ近寄らないようにしていた。話がただの世間話なのか、もっと違うことなのかを詮索するつもりもなかった。聖騎士学園にいたときと同様に叶は一有の友人だ。
「このあとは?」と叶がいう。
「図書館へ行こうかな……と思ったけど」
「けど?」
「なんか疲れた。神宮寺さんに会ったせいかな」
「晩飯は?」
「さあ」
「俺の家に来るか?」
叶のマンションは大学にほど近い古書店街の奥にある。最初にそこへ行った時、どうしてこんなに都合のいい場所に住めるんだと一有は呆れて訪ねたものだ。鷲尾崎本家の所有だと叶はいった。
築三十年を超えた古いマンションだが、建築年代を考えるとめずらしいメゾネット形式、3LDKで百平米という、学生のひとりぐらしにはありえない家だった。訊くと、セキュリティが甘すぎて本家の人間は住めなくなったが、広すぎる間取りと立地のおかげで住居用に貸すのも難しく、そのまま空いていたのだという。以前の住人は叶がときどき話題にする彼の従兄弟で、そのころの家具もマンションに残っていた。
セキュリティが甘いというのは、都心にあるくせに三階の叶の部屋まで外階段で直結、オートロックもないという構造のことらしい。名族のアルファは誘拐のような犯罪に巻きこまれないよう細心の注意を払っている。本人だけの話ではなく、オメガの配偶者や恋人のことを考えると必然的にそうなるらしい。
おまえにオメガの恋人ができたらどうするんだ。他人事のようにセキュリティの話をした叶に一有は訊きたくなったが、口にはしなかった。大学に近くてやたらと広い上、叶が頻繁に誘ってくるので、一有は自然に叶のマンションに足を向けることになった。
「神宮寺さんとは何を話したんだ?」
「ロースクールの話」
パスタを茹でている一有のとなりで叶はトマトを切っている。ふたりとも大学に入ってから自炊をはじめたので、どちらの手つきも危なっかしい。あたりは古書店街で学生街だから食べ物屋はたくさんあったし、デリでおかずを買ってもいいのに、ふたりで自炊することはよくあった。マンションで一有と食べたい、と叶がいうのだ。
「イチウもロースクールに?」
叶は腰をかがめてくし形に切ったトマトを器にいれる。古いシンクは叶の身長には低すぎるようだ。
「それは……どうかな。予備試験を受ける場合でも、とにかく準備は早めがいいと」
「正論だな」
叶はさらっといってのけた。思わず一有はぼやいた。
「キョウは楽しそうだもんな、講義」
「楽しいってほどじゃないけど面白くはある」
「俺はときどき、何のためにやってるのかわからなくなるよ。レポート書くのは慣れたけど」
一有は茹で上がったパスタをレトルトソースに絡めて皿に盛り、リビングのテーブルに運ぶ。叶はトマトの器とドレッシングを並べた。
「神宮寺さんはアウクトスの人なんだろう? あの会社は鷲尾崎も協力関係にある」
パスタを食べるあいまに叶がいった。
「神宮寺さんはインハウスローヤーだよ。協力って警察関係か?」
「そんなところかな。それに鷲尾崎当主の身辺警護はアウクトスに依頼している」
「SPってやつだな」
「SPはセキュリティ・ポリスの略だ。アウクトスはCP、個人 警護 部門があって、ボディガードから盗聴対策や爆発物まで専門家をそろえている」
「そんな部門があるんだ」一有は興味をひかれた。「アウクトスに入るなら弁護士よりそっちがいい」
「イチウ、ボディガードになりたいのか?」
「いや、爆発物や盗聴って方。スパイ映画みたいでカッコいい」
冗談交じりにそんなことをいううちに神宮寺と話したあとの憂鬱が薄れた。たぶん、神宮寺に縛られているような気がするのだろう、と一有は思う。いま一有が住んでいるのは神宮寺が借りたマンションで、ここから三駅離れたところにある。生活費も学費も心配するなと神宮寺はいうが、一有のなかにはどこか、それを厭わしいと思う気持ちがある。とても恵まれているのに厭わしいとは、いったいどういうことだろう。
「ローもいいけど、俺は早く卒業して就職したい。神宮寺さんから独立したいんだ」
口に出してそういうと叶はふっと笑って「それでいいんじゃないか」といった。
こんなとき、一有は体がふわっと暖かくなったように思う。理解と信頼の糸がのびてつながったような、そんな気持ちになるのだ。
聖騎士学園の寮の夜とおなじように、今日の授業のあれこれや、その他どうでもいい雑談をしているうちに遅くなった。「泊っていくか?」と叶がいう。
「ああ、うん」
大学に入っていろいろ変わったとはいえ、叶とのこんな夜はおなじだ。何度か泊るうちに歯ブラシは置きっぱなしになったし、リビングの奥の和室に置かれたソファベッドは一有の定位置になっている。前の住人が残していった本棚には古い本やマンガがあって、その前でごろごろするのが好きなのだ。
「イチウ」
叶はソファベッドの端に座っていた。
「ん?」
「いっそ、ここに住んだらいい」
「なんで?」
反射的に問い返すと、叶は困ったような表情になった。
「部屋は余ってる。イチウはここを使えばいい」
「そりゃここは……近くていいけど、俺も神宮寺さんに部屋を借りてもらってるし」
「もしイチウがローをめざすなら一緒に勉強できる。なんなら俺から神宮寺さんに話すよ」
「でも……また寮暮らしみたいになるぞ。俺でいいのか?」
それは本気の質問だったのだが、叶も真顔でこたえた。
「俺はイチウがいいんだ」
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