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傷つけるのをおそれ 2

 殺風景なオフィスでワイシャツ姿のサラリーマンがノートパソコンをひらいている。男の手首からのどぼとけにカメラの焦点が当たり、ネクタイを締めたワイシャツの胸から、股の方へさがる。男はノートパソコンのキーを叩く。画面でうごめく肌色を一心にみつめるうち、喉がこくりと動く。  男の背後でドアが開いてとじる。慌ててノートパソコンを閉じようとした男のうしろにスーツを着た長身が立つ。焦った表情でふりかえった男に余裕の笑みをむけ、画面の肌色を指さす。男の襟元にスーツの指がかかり、顎をもちあげる。画面がぱっと切り替わったと思うと、男はオフィスの壁を背に長身のスーツ男とキスをかわしている。男はすでに半裸で、ズボンがなかばずり落ちている。スーツ男は片手で器用にネクタイをはずし、押さえつけた男の尻に手を回し、揉んで――  部屋の向こうでドアが閉まる音が聞こえ、一有(いちう)は反射的にタブレットの画面を閉じた。時計は二三時二十分。ソファベッドに座りなおすと同時に黒いスーツを来た(きょう)が戸口にみえる。白い紙袋をぶらさげている。 「お帰り」一有は何食わぬ顔でいう。「どうだった、結婚式」 「疲れた」 「めでたい日だってのに」 「それでも二週おきに結婚式なんてどうかしてる。親戚が多すぎるんだ」  叶は紙袋をもちあげた。 「ロールケーキが入ってるらしい」 「そりゃいいな」  リビングへ行くと叶は礼服をハンガーにかけ、片手でネクタイをゆるめている。一有はさっきの動画を思い出させる仕草から目をそむけた。白い箱に入ったロールケーキは真っ白のチョコレートでコーティングされていた。 「今日は誰が結婚したんだ? 先週の結婚式はたしか……」 「母方の従兄弟。三人いるうちの真ん中。今日の式は鷲尾崎の又従兄弟」 「大変だな」一有はロールケーキにナイフを入れた。 「でっかいイチゴが入ってるぞ。何飲む?」 「黒ビール」 「キョウ、飲んできたんだろ?」 「イチウは飲まないのか」 「ケーキだぜ?」 「好きなものを組み合わせるだけだ」  そういって叶は黒ビールの缶を取り出している。ケーキに黒ビールね、と思いながら一有も缶を受け取る。酒が飲める年齢になって、叶はいろいろなメーカーのビールを試すようになった。一有もつきあわされて、昨日はあれ今日はこれといった調子で缶をあけている。昨年までとは大きなちがいだ。  叶のマンションに同居するのは高校の寮生活とたいして変わらない――実際にやってみるまでそう思っていたが、予想は外れた。最初にわかったのは、叶は実家の親戚づきあいで出かける用事がけっこう多いということだった。おまけにそのほとんどで酒が出る。二十歳の誕生日以来、叶が飲んだ酒の量は一歳上の一有をとっくに追い越しているだろう。  九州にある鷲尾崎の実家からは宅急便や郵便物が頻繁に届いた。叶の家族や親戚――叶は「本家」と呼んだ――とも、電話やネットを使ってよく話している。そんな風に家族と親密だったことのない一有には、叶の家族関係は驚きだった。一有の両親は生きていた時も留守がちで、ろくに電話もよこさなかった。  高校の頃と同様に、叶に家族の話を聞かされるおかげで、一有は鷲尾崎家の様子をよく想像する。賑やかで明るくて世話好きな人々というイメージだ。二十代の従兄弟が多く、彼らはここ数年のあいだに続々と結婚している。 「いくつなんだ?」  何気なくたずねたのは叶がよく年齢の話をするからだった。 「又従兄弟は二十三、相手は二十歳。二人とも子供の頃から知ってるし、いい会だったけど疲れた。どんどん包囲網が迫ってくる」 「おまえの番はいつかって?」 「そう。まだ早いって何度いっても……」 「いいじゃないか」  一有が笑うと叶は恨めしそうな顔をした。 「他人ごとだと思いやがって。俺は結婚なんかしない」  突然はっきりいいきったので、一有はあっけにとられた。叶も自分の口から出た言葉に驚いたような、ぽかんとした表情になった。 「それって」一有はとりなすようにいった。「あれだろ? 周りがどんどん結婚しているからする、みたいなのはないって話だろう?」 「ああ。うん。まあ。一有は?」 「俺?」  いきなり矛先がむいて、今度は一有が返事に困った。 「そりゃ……するかもしれないよな。そういう感じになったら」 「誰と」  鋭くつっこまれてますます答えに困った。 「誰とって……誰かだよ」  叶は飲み干したビール缶を握りしめている。表面がペコンと凹む。 「誰かって誰だ」 「まだわかんないよ。誰もいないし」 「本当に?」  まったく、こいつは何をいってるんだ。呆れるあまり一有は笑い出した。 「一緒に住んでるんだからわかるだろ。どこに誰がいるんだよ。大学じゃ講義と課題でいっぱいいっぱい、空き時間も自主ゼミで埋まってる。おまえ抜きで仲がいいのだって、鮎澤(あゆさわ)さんや千晴(ちはる)とか――あ、千晴といえば」  鮎澤と千晴は英語のクラスがきっかけで仲良くなった学生である。二年生のブリッジセミナーで発表のチームを組んで以来の自主ゼミ仲間だが、名前を口にだしたおかげで思い出したことがある。 「キョウもあいつに合コン誘われなかった? 木曜日」  そっけない声が返ってきた。 「断った。木曜は用事があるんだ。イチウは?」 「一度は断ったんだけど、千晴がしつこくてさ」 「やめとけよ」 「なんで? おまえの用事って?」 「母が歌会(うたかい)で本家にくる」 「歌会? 何それ?」 「……短歌を詠む会だ。鷲尾崎の伝統なんだ」  叶は眉をよせ、珍しく口ごもりながら説明した。数人で集まって題をきめ、短歌を詠んで批評しあう会なのだという。詠み手を伏せ、どの短歌がいいか投票する。ある程度の数の作品がまとまると、歌集を出版するのだとか。 「すごいな。風流だ」 「風流? そんなんじゃない」叶は眉をよせて心底嫌そうな表情になった。 「単なるゲームだ。俺は子供の頃からものすごく苦手なんだ。下手だからな」 「え、俺もキョウの短歌よみたい」 「ダメ」  叶はまたも珍しいほどの勢いで拒否し、顔を赤らめた。ますます興味をそそられたものの、なんとなく可哀想になって一有は追求をやめた。合コンの話はうやむやになった。  合コンは主としてベータの大学生の文化だ。つがいのいるアルファとオメガは絶対に合コンに来ない。特定の相手がいないアルファとオメガは参加しないこともないが、数は少ない。だいたい、アルファと出会いたいオメガ、オメガと出会いたいアルファは〈ハウス〉へ行く。  しかし一有が合コンに誘われた時はだいたい叶もその場にいたから、二人で一緒に出たことしかない。合コンにかぎらず、ベータの集団にアルファが一人か二人いると場はひどく盛り上がるが、一有にそれ以上のことは起きなかった。そもそも勉強しなければならないというプレッシャーがあって羽目を外す気になれなかったし、そのくせ参加者に対しては気を張ってしまい、疲れるのだ。  おまけに最後に合コンに行ったとき、ある光景を目撃して、それから一有はすっかり及び腰になってしまった。とはいえ、ものすごい事件が起きたわけではない。会場となった店にいた他の客――アルファとベータの男同士――が、店の裏側でキスしていただけだ。  その二人組は学生が多く騒がしい店には珍しいスーツ姿だった。最初、合コンの座敷へ向かう途中で一有が彼らに目を止めたのはそのせいかもしれない。そのあと彼らをみたのは一有がトイレに立った時だった。店は人いきれで空気がこもっていたから、一有はついでに涼しい通路へ出たのだ。  点滅する電球のした、スーツのひとりが壁に押しつけたもうひとりを覆い隠すようにして、キスをしていた。かたく抱きあい、腰をゆらして。  周囲をまったく気にしていないような熱烈なキスだった。見られているのに気づいた様子もなかったが、我に返った一有は慌てて中に戻った。テーブルの向こうで叶が「どうしたんだ?」と訊ねたのに何と返事をしたのだったか。  ともかく、あれを最後に一有は合コンには行っていない。木曜も行かないだろう。  一有が同居――実質居候のようなものだが――している叶のマンションは、二階部分があるメゾネットだ。叶は上の階で寝ている。上階にはもうひとつ小さな部屋があるが、雑多な荷物が置かれて倉庫のようになっている。叶のものではなく、前に住んでいた彼の従兄弟の持ち物らしい。  一有が寝るのは下の階の和室だ。一有が横になっているソファベッドの真上に叶のベッドがあるはずだ。一有はタオルケットの下に隠れていたタブレットのボタンを押す。叶が帰ったときに閉じた動画が再開し、一有はあわててソケットにイヤホンを突っこんだ。上の部屋まで音が聞こえるわけはないが、男同士が絡みあう動画をみているなど、叶には絶対に知られたくない。  同じマンションで生活していても、秘密くらいある。  男の腕に抱かれることを想像すると一有のなかに罪悪感と背徳感がつのり、そのくせ下半身がたぎりだす。タブレットの画面で、いまは全裸に剥かれてしまった男がオフィスの床に膝をつき、尻でスーツの男の男根をうけとめている。一有は息をひそめて動画をみつめ、手を動かしはじめる。前と――後ろと。胸と。  ポルノをこっそりみるようになってから一有の自慰はアップデートされ、乳首や尻に及んでいる。とはいえ玩具類に手を出すのは怖くて、せいぜいローションや洗浄道具を買ったくらい。  空想の中で叶が一有の腰を抱き、指でなかを押しひらく。いつからこんな妄想をするようになったんだろう。同居をはじめてから? もっと前から?   子供のころはよくオメガに間違われていた一有だが、今はもう誰も、一有が「抱かれたい」側とは思わないようだ。  ベータの男のなかにも抱かれたい男がいることくらい、世間も理解している。さして偏見もない――いちおうは。他の三性の男と結婚もできるように法改正もされた。  そうはいっても少数派ではある。ベータの大多数は女を好きになるのがふつうで、オメガは男も女も抱かれる性だ。男が好きなアルファの男はわざわざベータを求めたりしない。アルファにはオメガがいる。  それでもキャンパスではときたま、アルファではなくベータの男を選んだオメガの噂が流れた。 (イチウ、好きだ)  一有の空想のなかで叶がささやく。指が中の敏感なところに触れ、一有はソファベッドの上で下半身をびくっと震わせる。もちろん現実には、叶は一度もそんな言葉をささやいたことはない。一有だってそうだ。今の友情を確認するためにそんな言葉はいらない。 (俺は結婚なんかしない)  それなのに、さっきの叶の声を思い出すと甘いしびれに体の中心がしめつけられた。あんなの、嘘にきまってる。今は嘘じゃなくてもいずれ嘘になる。〈運命のつがい〉みたいな話でなくても、そのうちオメガがあらわれるのだ。  いくらそう考えても、妄想の叶は一有を抱くのをやめない。 「あ、きみ! きみがサカイ君?」  そのオメガに会ったのは旧校舎端にある文書館の入口だった。一有はコピーした資料と鞄の中身を床にばらまいてしまい、あわてて拾い集めていたところだった。ゼミの教授のアポに遅れそうだったのだ。 「はい――そうですけど」  落とした学生証をさしだしてくれたのは落ちついた雰囲気の綺麗なオメガ男性で、首にさげたIDから職員だとわかった。 「キョウにこのまえ話を聞いたよ。イチウっていうんだろ?」 「キョウ――鷲尾崎?」 「あ、ごめん。僕は宇田川(うだがわ)里琴(りこ)。キョウとは昔からのつきあいでね。この前の歌会で何年ぶりかで会ったんだ」  歌会。それでは鷲尾崎本家のつながりにちがいない。オメガは白い歯をみせて笑った。敵意や悪意を持ちようのない、綺麗な笑顔だった。 「前に会ったのはキョウが中学生のときだから、話は聞いてたけど驚いたよ。僕の就職先と同じ大学だっていうのもその時きいたんだけど、きみの話をいろいろしてたから。聖騎士学園から一緒なんだって?」 「ええ、はい。同じ寮で」  一有は鞄にひろいあつめたものを放り込んだ。立ち上がると宇田川里琴はまばたきした。 「へえ、きみ、かっこいいね!」 「はい?」  一有もまばたきした。容姿を褒められることは時々あるが、出会ったばかりでこんなことをいわれたのは初めてだった。

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