10 / 37

第2章 傷つけるのをおそれ 5.戻らない日々へ

 唇をふさがれると呼吸のしかたがわからない。  一有(いちう)はやみくもに鼻で呼吸する。口と鼻から上にいる男の匂いが入ってくる。洗面台のフレグランス。(きょう)の匂い。  喉が締まったように感じたのはネクタイをしたままだったからだ。すべすべした生地が頬を撫でたおかげで、一有は自分が着慣れないスーツのままなのを思い出す。首が楽になり、ワイシャツの堅い襟の感触が消える。歯の裏を舐められて腰のあたりに震えが走る。舌をこねくりまわされて、吸われている――キスなんてしたことがないから、一有はどうしたらいいのかわからない。たぶん跳ね返すべきなのだ。こんな風に襲ってくるアルファなんか。  しかし閉じた瞼のうらに慣れ親しんだ幻影がみえると、ただの妄想で終わると思っていた行為に今の自分を重ねずにはいられない。ここにいる叶が何を考えているとしても――たんに発情(ラット)しているだけだとしても。 「あっ……」  耳の裏を舐められておかしな声が出る。叶は一有にのしかかり、膝を割り、広げた太腿にふくらんだ股間をこすりつける。一有の耳をしゃぶり、首筋を舐め、ワイシャツの布地越しに胸をさする。 「あっ…あ」  乳首を布越しに擦られたとたん喉から高い声がでた。のがれようと体を揺らすと、どこかでブチブチっと糸の切れる音が鳴った。乳首をぬめる感覚が包み、きゅっと吸われ、腰が勝手に浮き上がった。股間がさらにきつくなる。 「キョウっキョウ……ぁ、ぁ……」  おなじこの部屋で、ひとりで何度もこんな光景を妄想したのに、いまの一有の心は何を感じればいいのかわからない。自分の体のうえで慌ただしく手が動き、ファスナーが下げられる。押さえつける力がゆるんだのもほんの一瞬で、亀頭を濡れた舌に覆われると一有の体は抵抗を放棄した。 「あああっあ、あ、あ、ぁっんっ……」  生暖かい感触が一有の中心をすっぽり覆い、きゅきゅっと吸いついてくる。射精に至る絶頂はあっけなくやってきたが、叶は一有が放ったものをすべて口でうけとめ、その後も鈴口をちろちろと舐める。まだ余韻を感じている一有の膝をもちあげ、さらに舌をのばす。 「キョウ、キョウ――や……あああっ」  自分で触ったことがある場所でも、他人の指と舌で弄られると体がすくむ。一有がみっともなく声をあげても叶はひとことも話さない。すくんだ体を転がされ、次の瞬間一有は畳のうえにうつぶせにされている。ズボンとボクサーがぬきとられ、背中に重みがのしかかった。股のあいだにとろりとした液体が垂れ、指――叶の指が一有の中にはいってくる。内壁をゆすり、奥をまさぐる。  自分でもわかっている奥の場所を擦られたとたん、快感が背中をつきぬけた。 「ああっあぅっ……ぁ」  まるで体がぐずぐずに溶けていくようだ。背中をふるわせて喘いでいると、いつのまにか責め立てる指が消え、堅い熱い塊が押し当てられる。また足のあいだを液体が垂れていく。押し入ってきた男根の圧力で一有の息はとまりそうになった。 「イチウ」  突然耳元でささやかれる。 「息を吐いて……」 「キョウ、こわい、こわい、ぅっ……」  耳を舐められて力が抜けた。中に叶がずるっと入ったのがわかる。そのまま中を突かれ、さらに突かれて、奥に来たときにさっきの場所をこすられた。また射精のような感覚がきて、揺すられながら一有は声をあげている。叶の動きが速くなり、どくどくっと中に注がれる感覚がきて、畳のうえに投げ出される。肩で息をして暴力的な快感の余韻に耐えたのもつかのま、また腰をもちあげられた。濡れた堅い尖端が一有の穴の周囲をなぞる。  たった今たしかに――出されたと思ったのに、叶はイッてなかったのか……ぼんやりそんなことを考えたのも一瞬で、またズボッと突っこまれた。今度は一気に奥まで届き、一有の視界には白い火花が散った。 「あああっ――」  涙と涎で顎が濡れても叶は一有を離さない。続けざまに突かれてぐずぐずに溶けた一有の中に叶は精をはなち、そのまま止まる。 「イチウ……」吐息が首と耳を撫でた。「イチウ……」  一有の頭はぼうっとしていた。名前をささやかれると体がぶるっと震え、呼応するように尻に刺さったものが質量を増す。いつのまにか上半身をもちあげられて、一有は叶の膝に抱えられている。下から突き上げられるたびに痙攣のような快感が走る。股のあいだはどろどろで、射精の感覚もあいまいだ。視界がすうっと暗くなり、そのまま意識がうすらいでいく。  目が覚めると白い天井の下にいた。  パソコンを叩く音が聞こえる。窓から光がさしこんでいる。壁の本棚から椅子の背中にゆっくり首を回す。  正気が戻ってくると同時に自分がどこで寝ているのか理解した。ここは叶の部屋だ。 「キョウ」  口がねばついて変な声しかでなかった。ぱっと椅子が回り、叶がこっちをみた。  目が合った。  何秒かの間――それから叶は椅子を蹴倒すような勢いで立ち上がり、ベッドの前、一有のすぐ横に膝をついて座った。ひと息でいった。 「悪かった。謝ってすむことではないが――悪かった」  一有はごそごそと体を起こした。タオル地のガウンのようなものを着せられていて、下着はつけていない。 「俺、なんでここにいるの」 「下が……」叶はいいにくそうに顔をしかめた。「めちゃくちゃだったから運んだ」 「おまえが?」  ベッドの脇で叶の首が上下する。 「シーツやカバーは全部捨てた。全部俺が悪い」 「リコさんは?」 「リコはあそこがイチウの部屋だと知らなかったんだ。俺が居眠りしていたから勘違いして……」  里琴は何の用事で来ていたのか、なぜおまえは俺のベッドで居眠りしていたのか。喉元にあがった問いを一有は飲みこんだ。もともとこの家は叶の家、鷲尾崎家のものだ。一有は居候にすぎないし、和室には一有の持ち物以外の荷物や本棚が置いてある。叶が取りに来たっておかしくはないし、過去にそういうこともあった。 「だから全部俺が悪い。イチウ、謝っても……許してくれないと思うけど、悪かった」  まっすぐな眸でみつめられると毒気が抜けた。こいつはいったい何なんだ。 「全部おまえが悪いのか」 「そうだ」 「リコさんがヒートだったのも?」  一瞬ためらいがあったが、叶はうなずいた。 「そう」 「俺にあれこれやったのも?」 「ああ。俺が悪い。ひどいことをした。俺は……」  叶の耳が赤くなっているのに一有は気づいた。 「だめだった。止められなかった」 「発情(ラット)してたから?」 「ああ」  叶は唸るような声を出し、頭を垂れた。一有は黙ったまま言葉の意味を考えた。  発情(ラット)していたから――止められなかった。  叶がまた頭をあげた。 「イチウ、俺はリコとつきあってない。この先もない」  唐突な宣言に一有はぽかんとした。 「リコさんはおまえが好きだっていったぞ」 「俺だってきらいじゃない。でも俺はリコとつがいにはならない。子供の父親にはならないと断ってる」 「……何の話だ?」 「リコは早く子供を産みたいんだ。俺は断った」  一有はまばたきした。叶の説明には省略が多すぎる。 「あのな、キョウ……」  ため息をつくと叶はまたあわてたように頭をさげた。 「もう一度謝る。いや、何度でも謝る。悪かった」  閉口して一有は首をふった。 「キョウ、わかった。もう謝らなくていい」 「――イチウ」 「俺は出ていく」 「イチウ?」 「許さないとかじゃない。ただ俺は……いつまでもここに居候していられないのがわかった、と思う。だからいい機会だ」 「それは――」叶は口をひらいて閉じた。 「それにキョウ、俺はたぶんロースクールは受けない」 「なんだって?」 「だから……ここを出るよ。おまえとはこれからも友達だけど、同居は終わりだ」  叶の眸が傷ついたように曇った。ふいに一有のなかで昨日の怒りの名残が熾火のように点滅した。すぐに消え、感じられなくなったが、やはり怒りだった。 「――わかった。ありがとう」  しばらく黙っていた叶がいった。 「俺と一有は……友達だ」 「ああ」  一有はうなずいた。泣きたいような気分だったが、涙は一滴も出なかった。  友達だ、といった。言葉でたしかめあった。  それでも以前のような関係には戻れない。あんな風に抱かれてしまって、戻れるわけがない。  あのとき――抱かれているとき、叶が自分をどう思っていたのか、たしかめる勇気は一有にはなかった。あの行為は単なる発情(ラット)の結果なのか、それとも他の何かがあるのか? 叶は俺が抱かれて喜ぶ側の人間だと理解しただろうか?  これもたしかめる勇気はなかった。  一有の持ち物は衣類と本、タブレット、ノートパソコンくらいだ。ここにいる間に買ったいくつかの食器は置いて行くことにした。本以外はスーツケースに全部おさまったので、残りは宅急便で送るように頼んだ。  住む場所はすぐ決められなかった。神宮寺にこの話をしたら何というだろう。ましてや法曹の道をあきらめる、などといったら。  考えるのは後回しにして、一有はひとまずカプセルホテルに泊まり、蜂の巣のような寝床で思案にふけった。単位はだいたい取得済みで、ロースクールや予備試験がなければゼミも真剣に出なくていい。卒業試験に通れば学業は終えられる。だったら大学に行く日数はたいして必要なくなるだろう。  それなら生活費くらいは稼ぐことにしようと、一有は翌日から仕事をさがした。できるだけ叶と関係がないところがよかった。  きっと最近の出来事のおかげで大胆になっていたにちがいない。金払いがそこそこよく、昼間に時間を捻出できるアルバイトのために、一有は生まれて初めてベータの男が行く繁華街へ足を向けた。ネットでみつけたいくつかのバーの扉を叩いたのだ。バーテンの経験もウエイターの経験もないというと二軒で断られたが、三軒目で雇ってもらえた。容姿が有利に働いたのは間違いなかった。  たちまちこれまで経験したことのない生活がはじまった。大学には月に二度ほど顔を出すだけ。夜のバーで七時から深夜一時まで働き、大学と繁華街の中間地点にあるシェアハウスへ帰る。シェアハウスは高校の寮よりオンボロで騒がしかったが、安かったし、保証人も代行を頼めた。空いた昼間は図書館へ行き、判例や法学とは一切関係ない本をかたっぱしから乱読した。  かつてのゼミ仲間には大学でたまにすれ違ったが、たわいのない近況を交換する程度。叶にも時々すれちがい、ぎこちない会話を交わした。そのうちすれちがうこともなくなった。顔をあわせなくなるまえに聞いたのは里琴の話だ。他学部のアルファの教員とつがいになり、籍を入れたという。  あの日の怒りやいくつかの痛みはだんだん記憶から薄れた。勤務先の繁華街はベータの男がベータの男を探しに来る場所で、一有はやがて何人かの男と関係をもった。はっきりいえば、容姿のおかげでつきあいたがる相手には事欠かなかったのだ。  あいにく誰とも長続きはしなかった。  大学最後の夏をすぎて、一有はやっと神宮寺に法曹をあきらめると告げることができた。  そのころは予備試験やロースクールのことは完全に頭から締め出し、受験のスケジュールも忘れるのに成功し、さらにいえば就職活動もろくにしていなかった。面倒見のいいバーの店長に口うるさくせっつかれて、やっと本腰をいれはじめたころ、神宮寺がアウクトス・コーポレーションの採用日程を知らせてきた。  一有はアウクトスの採用試験を受け、CP――個人(クロース)警護部門(プロテクション)の事務職で内定をとった。

ともだちにシェアしよう!