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第3章 歳月には雲雀の血が滲み 1.プロ独身の家

 仕事がある日は、アラームが鳴る前に目が覚める。  出勤前の一有(いちう)の朝食は三種類のローテーションだ。白米と味噌汁とほうじ茶か、パンとコーヒーと卵か、グラノーラと牛乳とコーヒーである。順番でいけば今日は三番目になるが、昨夜予定外の出来事があったせいで牛乳を買い忘れたし、白米を炊く時間はない。シャワーのあとの濡れ髪のままコーヒーメーカーにペーパーフィルターをつっこんだとき、寝室から牛のような唸り声が響いた。  一有は手をとめ、寝室のドアをあけた。 「起きろ、脩平(しゅうへい)。もう八時半だ」 「いっちゃん……」  ベッドから弱弱しい声が漏れた。 「今日土曜日だよ? なんで目覚ましが八時に鳴んの?」 「俺は出勤」  短く答えたとたん、掛布団の小山が唐突に割れ、丸刈り頭がにゅっと突き出す。 「えええ? マジ? そんなのきいてない」  友人の恨めしそうな視線もなんのその、一有はそっけなく答えた。 「そっちが誘ったんじゃないか」 「軽くオッケーするからさぁ、てっきり休みだと思った」 「さっさと起きろよ。朝飯食うか? コーヒーは?」 「コーヒー……飲む……飲みます……シャワー貸して……」 「勝手に使えよ」  のそのそと裸でベッドから下りた男を廊下の方へ追いやり、一有はレギュラーコーヒーをペーパーフィルターにざらざらと入れる。パンをトースターへ、卵は半熟にするため時間を測る。  同僚の木谷脩平は個人警護の半年契約業務を終え、オフィス待機に戻ったばかりだった。彼に半年ぶりに誘われて、すこし飲んでタクシーで帰宅したのが金曜の日付が変わるすこし前。それから風呂とベッドの上であれこれやり、眠ったのが午前二時ごろ。起きれば土曜の朝というわけだ。  アウクトス・コーポレーションでは一有のような事務職は土日は基本休みである。対して木谷脩平は現業組で、休日はクライアントによって変動する。はじめて会ったのは勝手知ったるバーで、その時はおなじ職場の人間だとは思いもしなかった。  脩平は一有と同じくベータで五歳年下だ。最初のうちセックスにハマっていたのは否定しない。しかしそれも数か月で飽き、つきあうというほどの関係にもならず今に至るのは、これまで関係をもった男と同じだった。  脩平が他の男とちがったのは、彼がアウクトス・コーポレーション個人警護(CP)部門の現業組だったことと、向こうも体だけの関係だと割り切っていることだ。他の男はそうはいかなかった。 「なんでいっちゃんが土曜に働くんだよ。現業でもないのに……」  シャワーから出てきた脩平は不満そうだった。こんなに早く追い出されるのなら他のセフレのところへ行けばよかったとでも思っているのだろう。真剣なつきあいなら腹が立ちそうなものだが、一有が脩平と続いているのはまさにこの性格のおかげである。 「クライアントと打ち合わせ」  一有は答えながらトーストにマーガリンを塗る。 「打ち合わせに行くのは管理職と現業だろ。まさかいっちゃん、現業班へ移籍? 誰と行くの」 「まさか。いつものヘルプだ。部長を拾っていく。上から指名されたらしくて」 「指名? あの部長に?」 「わからん。もっと上からみたいだったな」  脩平はコーヒーをブラックのまま飲み、卵の殻を慎重に割った。 「なあ、いっちゃん。新しい部長、どうなの」 「どうって、何が」 「現業あがりじゃない部長ってはじめてなのよ、俺。しかもアルファの名族でさ」 「仙川さんもアルファだろ。そもそもアウクトスで部門トップが名族でないほうが珍しい」  一有は前の部長の名前を出す。アウクトス・コーポレーションは名族が出資元の会社なのだ。役員も株主も名族が占めている。個人警護(CP)部門はその中では弱小で、だから名族の役員がいないのだと一有は思っていた。  CP部門は一有のような事務職も含め、アルファとベータだけの所帯だ。オメガはひとりも配属されていない。昨今の企業運営は三性のバランスをとった人員配置が定番で、アウクトスでも他の部課は三性がぜんぶそろっている。オメガがひとりいるだけで雰囲気はずいぶん変わるものだが、CPはオメガの華やかさとは無縁だ。それでも現業班のアルファやベータから不満を聞いたことはない。  ところが脩平のようなベテランの警護者には、上司が現業上がりかどうかは問題になるらしい。CP部門で「現業」と呼ばれるのは、社内基準に決められた資格保持者で、警護の現場に出る者を指す。  脩平は首をかしげながらスプーンで半熟卵をすくい、トーストにのせた。 「いくら鷲尾崎家でも、現業未経験ってどうなの? 若いしさ。いっちゃんより下なんだろ?」 「一歳しか変わらないよ。部長は契約専門じゃない、訴訟経験もある弁護士だ。何かやらかしたときには安心だぜ」 「法律ならいっちゃんも詳しいのにさ」 「俺は法学部を出ただけだ」  一有はトーストにかじりつく。こんなふうにいってはいるが、脩平も刑法や道交法など職務柄必要な法律には詳しい。定期研修と試験が必須だから、現場にいないCP部門のスタッフはたいてい研修と訓練に明け暮れている。脩平もこれからしばらくそんな生活になるはずだ。 「CPに配属された以上、新部長も研修は受けてるだろう。俺は法曹の資格なし。現業の資格も足りないし」  脩平はあきれたように顔をあげた。 「何いってんの。いっちゃんだって立派なもんだよ。Aをいくつも持ってるだろ?」 「テストはね。電子技術(ESD)救命技術(EFA)がAだった。エスコート(PE)車両運転(PD)がB、身体技術(CM)はC」 「他は?」 「爆発物対策(IED)は筆記のみA。Sはひとつもない」  CP部門の社内規定資格はDからSまでの五段階で、六つのカテゴリからなる。徒歩移動中(プロテクティブ)の安全確保(・エスコート)(PE)、車両移動中(プロテクティブ)の安全確保(・ドライビング)(PD)、盗聴器や発信機(エレクトリック・)のような遠隔情報(サーヴェイランス・)収集機器(デバイス)への対処術(ESD)、救急法と(エマージェンシー・)緊急搬送技術(ファーストエイド)(EFA)、間接・直接攻撃(コンフリクト・)への対処術(マネジメント)(CM)、それに爆発物や起爆装置への対処技術(IED)だ。個人警護の基本はPEで、映画でみるような格闘術はCMの範疇になる。  テスト結果にCがひとつでもあると現業班は外されるが、大規模なチームを編成する際は事務職でもヘルプに回されることがある。ちなみに現業班の脩平はIED以外はすべてSクラスで、軽い口調とは裏腹に、丸刈りの頭も体つきも、いかにも警護人らしかった。一有の仕事は本来、後方支援事務である。  脩平は卵をのせたトーストを数口でたいらげた。 「いっちゃん、顔も資格に入れるならSSクラスなのにさ」 「何いってんだ」 「冗談じゃないよ。十代女子のエスコートなんか、むくつけきおっさんじゃクライアントも不満そうなのよ」  のんびりコーヒーをすすっている脩平をよそに、一有は終わった食器をさっさとシンクへ運ぶ。一人住まいのマンションはきれいに片付いている。洗い物を残して出るのは嫌だった。背中で脩平の声がきこえた。 「いきなり外の人間が部長になって、やりにくくない? 一歳でも年下が上なんてさ」 「あっちはアルファだぜ。何でそんなに気にするんだ?」  喋りながらふりむくと、脩平は芝居がかったみぶりで腕を組んだ。一有をじろじろと舐めるようにみつめる。 「こんなふうにいっちゃんをガン見してたからさ。ベータのいい男が好きなのかと思って」 「もともと知り合いだからだろう」  あっさり答えると脩平の目が丸くなる。 「そうなの?」 「高校と大学が同じなんだ。昔は仲もよくて……」 「そんなのきいてない。なんだ、そうなのか」 「ずっと会ってなかったけどな。十三年ぶりとか、そんな感じ」  自分がいま三十六歳だから、そんなものだろう。部長が交代したのは十月の人事異動だった。たった十日前である。これから行く打ち合わせの現業ヘルプ依頼が来たのが三日前。おかげでここ数日、よく眠れていない。昨夜脩平の誘いに乗ったのはこのせいもある。  最後に会ったときからこれだけ時間が経っているのに心が平静を忘れている。それでも表面は落ちついているはずだ。食器を手早く片付ける一有に脩平が口笛を吹いた。 「朝ごはんサンキュ。いっちゃん、美人のお嫁さんになれるよ?」 「ならない。ここはプロ独身の家」 「プロ独身だって?」脩平は吹き出した。 「一人暮らしのプロでもいい」 「もったいない」  そう答えた脩平自身も自分と似たようなものだと一有は知っている。脩平のマンションには一度行ったことがあるが、趣味だというプラモデルで埋め尽くされた部屋で、他人がいられる場所はベッドしかなかった。  地下にあるマンションの駐車場から地上へ出て、駅前で脩平を下ろし、待ち合わせ場所まで走った。今日は特別対応が必要なクライアントということで、自分の車で私服で来るようにという指示があった。  そうはいっても、アイスブルーのボタンダウンシャツとチャコールグレーのブレザーにパンツでは、ネクタイがないだけでいつもの通勤とあまり変わらない。ところが車を停めた場所にいた相手は一有よりも上手だった。ネクタイまで揃ったスーツ姿だ。  一有の頭に神宮寺の姿がよぎった。これだから弁護士という種族は。長身はあいかわらずだが、胸の厚みは増した気がする。 「おはようございます、部長」  助手席のドアが開いた瞬間に先制攻撃を放つ。鷲尾崎叶(わしおざき きょう)は途惑ったような、ハッとしたような表情になった。 「おはよう」 「すぐに出ます。アポの三分前に到着です。シートベルト、いいですか?」  叶と十年以上、やりとりはなかった。最後に連絡をとったのは神宮寺を通じて郵便が届いたときだけで、いまの彼との関係は上司と部下だ。友達、といえるほど近くもない。といって、赤の他人でもない。  部長のデスクに叶が座った瞬間から一有は敬語と丁寧語で通すことに決めていた。おたがいの立場がこれだと何となく気まずいのは向こうも同じだろう。シートベルトを締めた叶の腕のあたりからふわっとコロンが香った。シダーのような匂いだった。 「あ……その、ファイルは読んだか?」  叶がいった。会社では気づかなかったが、声はすこし低くなっていないか。学生の頃と比べている自分に気づいて一有は意味もなくどきりとする。 「読みました。ただ、なぜ自分が担当なのか理解していません。木谷も戻ったことだし、一日限りの警護なら現業班で十分足りるはずです」 「その点については先方から説明がある。その……」 「なんです?」  まっすぐ前を見たまま一有はすばやく言葉を返す。何がいいたかったのか、叶は返事を濁した。 「いや……」  一有はかまわず車を出した。すぐ隣に座る男とうまく距離がとれない、そんな気がしてしかたがない。ラジオからは耳慣れないフレンチポップスが流れている。  またふわっとコロンが香った。信号待ちの隙に一有は一瞬視線を流す。叶に緊張した様子はみえなかった。当たり前だろう。おかしいのは自分だ。 「車はどこに停める?」  目的地が近くなったころ、叶がいった。 「最寄りのコインパーキングに」  空は澄んだ秋空である。酷暑と大雨が交互にきた夏がすぎ、やっと過ごしやすくなった。車を下りたのは高級住宅街として有名な地区だった。飾りタイルの歩道や街路樹の緑が鮮やかだ。高齢化が進んで一時は空き家が目立っていたが、ここ十年のあいだに若い世代が流入し、建て替えやリノベーションも進んでいる。 「あの坂の上だ」  叶がそういって歩きだす。一有はファイルを入れた鞄を手にあとを追った。苔の生えた石垣の上に百日紅の幹がのび、道路に白い花びらが散っていた。家の正面にまわると凝った模様の大きな鉄の門があり、どこからか子供の声が響いてくる。  叶が門柱のインターホンを押すとすぐに応答があった。 「アウクトス・コーポレーションの鷲尾崎です」 『あ、どうも。すぐ開けます』  インターホンはガチャッと切れ、子供の声も消えて、あたりは急に静かになった。正面の鉄門が開くとばかり思っていたら、次に物音が聞こえたのは横のカースペースだ。軽い足取りでやってきたのは中肉中背の男だった。唸るような音とともに車寄せの前のカーテンゲートがひらく。 「わざわざ来ていただいてすみません。藤野谷零(ふじのや れい)です」  はにかんだような微笑みが男の顔に浮かび、オメガ特有の華やいだ雰囲気が漂った。

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