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いつか帆を歌う日が 3

 マンション三階の鉄のドアは変わっていなかった。ちがうのは鍵穴が二つになっていたことくらいか。ところがその向こう側は一有(いちう)の記憶とは別物だった。  メゾネットの階下、以前はLDKと和室に分かれていた部屋は、和室の壁が壊されてひとつの空間になっていた。以前は壁ぞいにあった古めかしいキッチンはカウンターつきの島に変わっている。LDKの手前の風呂やトイレも新しくなり、上の階は間取りこそ同じだが、広い方の部屋は書斎に、狭い部屋は書庫にしたという。 「ずいぶん思い切ったな」 「三年前、遺贈されたついでにやりかえた」  一有はサラウンドスピーカーに囲まれた大画面テレビや革張りのソファを眺めた。和室があったのはテレビセットの向こう側あたりだろうか。布のパーティションを透かしてダブルベッドがみえる。一有は昔の様子を思い出そうとした。フローリングにカーペットが敷かれていて、ローテーブルにはいつも参考書やポケット六法、ルーズリーフ、電子辞書が散らばっていたものだった。その頃の面影はまったく残っていない。 「ひとり暮らしの夢みたいな部屋だ」  (きょう)はスーツの上着をハンガーに掛けている。 「コーヒーでも?」 「ああ、うん」  キッチンカウンターのあたりでコーヒーミルの音がうるさく響いた。自分が穴をあけた壁はどのあたりだったか。一有はテレビセットの先をのぞいた。パーティションの隙間に自分の顔がみえた。  え?  ぎょっとしてパーティションの向こうをのぞくと、つきあたりに置かれたチェストの上に写真がならんでいた。コルクボードにピンで留められている。 「そこは駄目だ」  びっくりするほど敏捷な動作で叶がソファを乗り越えた。パーティションと一有のあいだに立ちはだかったが、もう遅い。 「キョウ、なんだよあれ」 「俺の家だ。写真くらい……コーヒーできたぞ」  叶はムスっとした声でいってキッチンへ戻っていく。 「写真くらいって……あんな昔の俺の……恥ずかしいだろうが。なんであんなところに」  一有はカウンターの背中に向かって文句を垂れた。 「しかたないじゃないか」 「しかたないって、なにが」 「本人がいないんだから、しかたない」  はあ?  コーヒーは黒いカップに入ってカウンターの上に出てきた。砂糖の袋とスプーンが添えてあった。一有は丸いスツールに座った。 「キョウはほんとうに俺が好きなの?」  叶は立ったまま呆れたような目つきで一有をみた。 「嘘をつく意味がない」  一有は砂糖をカップに入れた。 「でも、だったら……だいたい、なんで俺?」 「わからない」  おい。今度は一有の方が呆れる番だった。 「キョウ、わからないってことはないだろう」 「わからないんだ。時間が長すぎて」 「時間?」 「長すぎるんだ。最初っから……ガーゴイルの中庭で」 「ガーゴイル?」  突然記憶がよみがえってきた。聖騎士学園の中庭と、上級生より背が高かった一年生のキョウと、チビだった自分。 「俺がオメガに間違えられてたとき? 高校の?」 「悪いか」  ふてくされたような声で叶はいった。 「ぜんぶだった」 「は?」 「俺の全部。イチウが」  なんだそれは。この男は三十も半ばをすぎてなんて恥ずかしいことをいってるんだ。一有はカップに突っこんだスプーンをぐるぐる回す。 「あのな、キョウ。高校なんて黒歴史だ。おまえも俺も勉強してただけ。大学だって……」 「そんなことはない。俺はずっと好きだった」  なにがずっとだ。  思わず口から恨み節が漏れた。 「だったらどうしてあのとき謝ったんだ」 「あのとき?」  わからないのか。一有は小さく息を吐く。 「ここにいたリコを追い出して、おまえが俺を襲ったあとだよ。どうしてあのときいわなかったんだ。俺を好きだって」  叶の表情が固まった。  一有はまたコーヒーをかき回す。砂糖はとっくに溶けていたが、これを飲んだら終わってしまうかもしれない。コーヒーを一杯ごちそうになって、さようなら。そうなるのが怖かった。叶が低い声でいった。 「謝るしかないだろう。傷つけたから。おまえが近くにいるだけでよかったのに、俺は失敗した」  叶の指がカウンターを叩いていた。自分の家なんだから座ればいいのに。一有はどうでもいいことを考えた。ぬるくなったコーヒーを飲んだ。甘かった。 「キョウ、本気でそういってるのか?」  叶は意味が分からないといった目つきで一有を見下ろした。 「俺はおまえの横にいるだけでよかったのか?」 「ああ」 「あのとき何事もなければ、俺はおまえと一緒にあのまま勉強して、ローに進んで、おまえの横で弁護士になっていた?」 「そうかもしれない。友人でいようと思った」  一有はコーヒーを飲み干した。次の言葉を吐き出すにはすこしばかり勇気がいった。 「悪いな、キョウ。俺はそうは思わない。それだけだったら、俺はやっぱり、駄目だった」 「イチウ?」 「俺はそれじゃ足りないんだ。キョウ、俺はベータだけど、好きになった相手には抱いてほしい。だけどおまえはさ……|発情《ラット》していなくても、俺を抱ける?」  叶の手がカウンターから離れた。  指が一有の顔にのび、顎をつかみ、上を向かせようとした。離れようとすると今度は顔が迫ってきた。鼻がぶつかるくらい一有の近くまで迫ってとまる。 「抱けるかだって? あたりまえだ。俺はずっと……」  ささやきは唇に近すぎた。一有は手を伸ばして叶の髪をつかみ、そのままキスをした。長いキスになった。

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