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番外編 独身者たちのクリスマス

 この国では十二月二十五日になったとたん、街からクリスマスの気配が消えていく。ツリーのデコレーションに代わってやって来るのは新年にむけてのデッドヒートだ。  それでも家族のいる者にとって、昨夜――二十四日から今朝にかけての時間はなにかしら貴重なものだろう。昼食を終えてオフィスへ戻った一有はデスクの椅子をひきながら、美しく飾られたパティスリーのショーウィンドウを思い出していた。アウクトス・コーポレーションの裏手にある老舗のパティスリーは今日もまだたくさんの客が訪れているようだ。  幼いころの一有にとって、クリスマスイブは両親が必ず家にいる、一年でも稀な日だった。遠い海の上でサンタクロースに預かった贈り物は、二十五日の朝、一有に渡すことになっている――父はまじめくさった顔でそういったものだった。  幼児の一有はサンタクロースは南極に住んでいるのだと信じていた。ペンギンが引くサンタの橇はなぜか空を飛び、太平洋上で調査をする父の船にラッピングされた贈り物を落としていく。奇妙なことに、そんなファンタジックなイメージはいまだに一有の脳裏にしみついて離れない。  午後のオフィスは人影もまばらで、一有のデスクのまわりには誰もみあたらない。任務のある現業班はもちろんオフィスにいないし、待機組の研修も年内は終了してしまった。新年まで事実上の休暇に入った連中も多い。後方支援の仕事も減るから、一有のような事務方にも早めに休みをとった者がいる。  人が少ないだけでなく、なんとなく浮わついた雰囲気が全体に漂っているのはトップが不在のせいもあるだろう。一有はちらっと背後を確認する。部門長の個室は閉まったままだ。鷲尾崎叶は二日前から出張中で、次に来社するのは月曜のはずだ。 「いっちゃん~メリクリ~」  パソコンに向き直ったとたん、木谷脩平の陽気な声が響いてきた。大きな体がデスクの前にのしかかるように立つ。 「あれ、脩平は一日現場じゃなかったのか?」 「いいや。サンタクロースの任務は朝までだからとっくに解放されたぜ。報告書をあげたら年内は自由の身ですよ」 「それはおめでとう――」反射的に口にした言葉が途中でとまる。サンタクロースだって? 「そんな任務だったのか?」 「サンタじゃないが、似たようなもん」脩平は幅広の肩を軽くすくめた。「イブに子供だけでいるのはよくないからな」  アウクトス・コーポレーションの主たる顧客はアルファの氏族だ。その中にはクリスマスに家に帰れない親や、クリスマスだからこそ特別な警護が必要な者もいる。一有はデスクに肘をついて脩平をみあげた。スキンヘッドに近い短髪をしたごつい大男だが、一有よりもサンタクロースの扮装は似合うかもしれない。  脩平は隣の島から空いた椅子を引いてくると勝手に腰をおろした。 「いっちゃんは昨夜どうだった」 「何が?」  脩平のあごがクイっと一有の背後をさす。 「部長さんですよ。今日はいないみたいだけど、あまーい夜を過ごしたんじゃないですか?」  何を訊いてくるかと思えば。自然と呆れた表情になった。 「部長なら一昨日から出張中」  ところが脩平はこの返答を予想していなかったようだ。目をぱちくりさせていった。 「え? 今日も?」 「週末にもどるんだろう。出社予定は月曜だ」 「そりゃまた、初のクリスマスなのに」  脩平は体を揺らし、すると椅子のキャスターがきゅきゅっと軋んだ。 「ロンリークリスマス~っていうなら俺もそうだけど~」  歌うように節をつけたものいいに一有は吹き出す。 「なんだよそれ。大昔の歌謡曲みたいだな」 「惜しいぜ。いっちゃんが人妻じゃなければこのまま誘うのに」 「俺は人妻じゃない」 「まだそれいうのかよ。そういえばポッキーゲームした?」 「は?」  いきなり変わった話題に一有は面食らった。 「何の話だよ」 「先月ですよ先月。ポッキーあげたでしょ? あのときも人妻じゃないっていいはってたけど、ポッキーゲームした?」 「するわけない。あれなら――」  一有は引き出しに手を伸ばし、細長い菓子の箱をデスクに置いた。 「ここにあるぞ」  その箱は先月の十一月十一日――「1111」にかこつけて、独身の日、その他さまざまな俗称で呼ばれる日――にもらった、といって、脩平がデスクへ置いて行ったものだ。どこかのパーティに参加して、何箱も押しつけられたらしかった。十一月十一日は独身の日にかこつけたイベントがあちこちで開かれ、この手のスナック菓子がばらまかれる。 「ええ、やんなかったの?」  脩平は残念そうに目尻を下げた。 「せっかく俺があげたのに……」 「あのなあ脩平。あんなパーティゲームはいい年したおっさんがやるもんじゃない」 「だけどあんたら新婚みたいなもんでしょ? 新婚さんはそんくらいやるでしょ?」 「おまえ新婚にどんな夢みてるんだよ?」  一有は思わず笑いだし、菓子の箱の底でトントンとデスクを叩いた。そのときだった。 「どうしたんだ?」  離れたところからもはっきり耳に届く声だった。一有と脩平は同時に顔をあげた。 「鷲尾崎部長」  なぜか声までそろってしまう。叶は怪訝な目つきで一有と脩平をみて、まっすぐデスクの方へやってきた。このうしろが自室なのだから当然ではある。 「出社は月曜だと思っていました」  一有がそういうと叶は軽く首をふった。 「クリスマスだからな。それは?」 「どこにでもあるスナック菓子です」脩平がいきおいよくそういって立ち上がった。 「ポッキーゲーム用です。今晩にでも境さんと遊んでください」  叶は眉をよせたが、脩平は不敵なにやにや笑いをうかべ「じゃ、業務に戻ります」といいすててデスクを離れていく。すたこらさっさといった様子だ。この野郎、逃げやがって。  一有はあわてて箱に手をのばした。しかし叶の方が早かった。納得のいかない目つきで菓子のラベルをしげしげと眺めている。 「ポッキーゲーム?」  おいおい、まさか。一有はため息をつきそうになるのをこらえた。 「知らないのか」 「ああ」 「業務には関係ない話だ。そのうち説明するよ」 「今夜は?」  叶の眸が一有をみつめた。  問いの意味はもちろんわかっている。秋のあの日から何度もこの会話をして、同じように視線をかわしてきた。それなのにいまだにロックオンされた気分になるのはどういうわけだろう。  一有は目だけでうなずいた。叶の生真面目な口元にうすく微笑みがうかぶ。彼の手にはまだ例の箱がある。 「そいつは返してくれ、キョウ」 「ゲームっていったな。これで何を……」 「いいから返せ」  一有はやっと叶の手から菓子の箱を取り返した。しばらく脩平に会わないですむことを願った。次に顔をあわせたら最後、どうなったか根掘り葉掘りたずねられるにきまってる。  いや――考えてみれば、気になることは根掘り葉掘りたずねるのはこの男も同じだった。 「ポッキーゲームって何なんだ?」  独身者の夢みたいなマンションのソファに座っているのに、叶はまだ気になるらしい。いや、目の前に菓子の箱がある以上は仕方がないのか。 「ほんとに聞いたことない?」 「ない」 「ただのパーティゲームだ。検索かけてみろよ。すぐ出てくるぜ」  一有は面倒になってそういったが、隣で叶がタブレットを弄りはじめるとは妙にこそばゆい気分になり、尻のあたりがむずむずしはじめた。それをごまかすように水割りを舐める。食事はもう済ませていた。叶のマンションからほど近いレストランへ行ったのだ。クリスマスメニューは予約のみだったから、特別なものは頼まなかった。  開店してまだ一年というそのレストランでは、ここ数か月のあいだに何度か食事をしている。秋のあの日以来、一有はこのマンションを月に何度か訪れていた。たいていは週末、たまにウイークデイのこともある。食事に入ったレストランは他にもあるが、ここの店長にはなぜかもう覚えられていた。新しい店のせいか、叶が目立つのか、組み合わせが珍しいのか。しかも単なる友人ではなく、パートナーだと思われているようだ。  新婚みたいなもの? まさか。  脩平がいった言葉を思い出し、一有はすこしばかり可笑しな気分になる。かつて住んでいたことがあるといってもここは叶ひとりの家で、一有の住まいは別にある。だからせいぜい「通い婚」だが、実をいえば今のこの状態を一有はかなり気に入っていた。何しろ会社では上司と部下で、一日中とはいかなくても頻繁に顔をあわせているのだ。生活の場所は別々にある、今くらいの距離がちょうどよかった。 「ふたりが向かいあって一本のポッキーの端をたがいに食べすすみ、先に口を離した方が負け――ああ、そういうことか」 「わかっただろ?」タブレットを置いた叶に一有は指をふる。「若者が盛り上がるためのパーティゲームだ。脩平の話は気にするな」  叶は菓子を一本、指のあいだにはさんでぶらぶら振った。 「イチウはやったことあるか?」  ずっと昔、バーでバイトをしていたときはたまに誘われたな、と一有は思ったが、口には出さなかった。教えたら最後どんな反応が返ってくるか、ちょっと見当がつかない。 「どうでもいいだろう。とりあえず三十路のおっさんがやるゲームじゃない」 「そうか?」  は?  横に顔をむけると、叶が一有の目をみつめたまま、ぱくっと菓子を口に咥えた。まじめくさった顔で自分の口元を指さしながらチョコレートのかかった先端を近づけてくる。笑い飛ばすには真剣すぎて、一有も菓子の先を咥えた。叶の目が笑った。何なんだよ、この男。  プレッツェルとチョコレートが歯の間で砕けた。あっという間に見かわした目と目の距離が縮まる。口の中にざらざらした菓子の残骸がまだあるのに、叶の唇がすぐそこまで迫ってくる。  最後のかけらがどっちの口の中へ消えたのか、一有にはわからなかった。叶の手が一有の首のうしろに触れ、髪をまさぐった。すでにただのキス、いや、おたがいの舌を食べるようなキスになっている。プレッツェルとチョコレートと、ウイスキーの味がする。  一有は叶の背中に腕をまわす。無意識のうちにワイシャツを強く引いていた。こうして叶の体にぴったりくっついて、熾火をかきたてるようにゆっくり熱くなるときが好きだった。 「キョウ……あ、」  ささやいたとたん、叶の舌が耳を舐め、ぴくっと体がはねた。 「今夜は……戻らないと思ってた」 「まさか」 「クリスマスだから?」  叶はこたえなかった。言葉のかわりのようにぎゅっと背中を抱えられ、強く抱きしめられて、またキスがふってくる。舌を絡めていると熱くなった体が疼き、この男を迎えたい気持ちだけでいっぱいになる。「キョウ、」唇を離すと唾液が糸をひき、あごから胸のほうへ落ちた。頭のなかに浮かんだ言葉がまっすぐ唇からこぼれ出る。「おまえが欲しい」  叶の声は耳のすぐそばからきこえてきた。 「ベッドがいいか?」  一有は目を閉じたままこたえた。 「どこでもいい」 「シャワーは?」 「もっとキスしたい」  また吐息が頬に落ち、一有はさらに深く叶の唇を味わった。おたがいの手でワイシャツやスラックスをさぐり、はずしたボタンをかきわけて、皮膚の温度を直接感じとる。一有の喉に触れた叶の唇がゆっくりと下がる。  ふたりとももがくように服の残りを脱いだ。一有はソファの上で腰をずりあげ、上にいる男の体にもっとぴったり重なろうとする。擦れあった箇所が心地よくてうっとりする。自分の内側をまさぐる男の指や息、すべてが愛しくてたまらなかった。クリスマスの夜が過ぎていく。

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