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第5章 雉は忘れられないために啼く 3.山鳥の尾

 石畳の小径は木立の中に点在するコテージまで続いているらしい。ひとたび森のなかに入ってしまえば、聞こえてくるのは鳥の声と、一有と叶の鈍い足音だけだ。 「前に会った時、平良さんにはもっと近寄りがたい印象を持ってた。面白い人だな」  ふと思いついて口に出すと、叶は意外そうな目つきをする。 「そうか? 昔からあんな感じだ」 「名族のトップだからって先入観をもってたな。でもおまえに山に登ってコーヒー飲むやりかた、教えたの平良さんだろ」 「ああ」 「演奏会についても変なこといってたし」 「イチウ、平良の話を本気にするな。たまに変な冗談をいうから」 「そういうところは似てないな。おまえは真面目だから」  何気なく出た言葉だったが、叶はまた意外そうな顔をした。 「平良と似てる?」 「いわれないか? 初対面のときもそう思ったけど、やっぱり似てるよ」 「……直接いわれたことはない」 「当たり前だと思われているんだろ」  ぽつんぽつんと建つコテージはみなちがう形で、外壁の色も全部ちがう。キャンプ場によくある貸し小屋とは別次元のまともな別荘だった。学生時代にゼミ旅行で借りた大学セミナーハウスを十倍高級にすればこんな感じか。 「あそこだ」  叶はずっと先にある、若葉色に塗られた建物を指さした。 「きれいだな」 「ああ。このあたりは数年前に建て替えている。奥に行くともっと古い別荘が何軒かある。昔、鷲尾崎が地所を手に入れた頃は大学村と呼ばれていた」  ちょうどゼミ旅行を思い出していたから、一有は妙な一致だと思った。 「夏期講習でもやっていたのか?」 「戦前の話だからよく知らないが、大学関係者の避暑地だったんだろう。オーディトリアムでサマーセミナーを開催するのはその伝統だというし、昔はこのあたりに別荘を持ってる政治家が講演することもあったと。今はそんな時代じゃないが」 「でもそれが、今の鷲尾崎の影響力にも関係しているんだろう」  今日ここを訪れている叶の親戚はそれなりの肩書をもっている人間ばかりにちがいない。さっき出くわした水瀬も、規模は不明ながら会社経営者で、秘書をひきつれてここに来ている。 「そういえばキョウ、水瀬さんに会ったか? 秘書から名刺をもらったが、絶対俺が仕事でここにいると勘違いしていたぞ。おまえの警護任務なんて俺ひとりじゃ無理なのに」  一有は冗談のつもりでいった。 「そうそう、俺を他の誰かと勘違いしてる人もいたけど」 「それは省吾さんだ。あの人は思い込みが激しいところがあって……嫌な気分にさせたんじゃないか? すまん」 「別にそんなこともないけど、噂の親友ってなんだよ。おまえとつきあってるのかって問いつめられるより面倒くさくないけどな」  若葉色の建物はすぐそこだ。叶が銀色の鍵を差しこみながら、ぼそっといった。 「そのことだが……」 「俺は気にしてないぜ。おまえの横にいたら、どうせいつまでもこんな調子だろう」 「――そう思っているのか?」 「そりゃあ……無関係なベータの男がなんでくっついてるのかって思われるのはわかってる。おまえとつきあってるってオープンにしてもいいのかもしれないが、それでどうなるってわけでもないし」   鍵は開いたのに、叶は中に入ろうとしない。一有は横から手を出してドアをあけた。木のいい香りが漂った。コテージの中が気になっていたのもあって、叶の言葉は耳の半分にしか入っていなかった。 「……結婚すればこんな扱いにはならない」 「結婚? プロの独身を標榜してるくせに?」  一有は小さく笑った。いつもの週末と変わらない、気楽な会話のつもりだった。何しろ結婚の二文字は自分には縁がないと、ずっと前から――たぶん大学のころから思いこんでいる。  一有が叶以外に関係をもった男はベータばかりだ。女に興味をもったことは生まれてこのかた一度もない。ベータの男同士でも法律婚はできるが、そんな話はめったに聞かなかった。それに叶はアルファだ。アルファとオメガはベータの一有には不可解な感性で――ぶっちゃけていえば特別な性欲で引き寄せあっている。  そのことは気にしていないつもりだった。少なくとも今は。 「あ、でもおまえの立場だと、やっぱりオメガの誰かと結婚しないとまずいっていう――」  うかつにもそこまで口に出して、一有は口をつぐんだ。まずい。今日の俺は余計なことをやってしまうモードらしい。 「イチウ」 「いや、俺はおまえが独身主義でよかったと思ってるんだ。俺も同じだから。その箱はなんだ?」 「……夕食のケータリング」   叶は憮然とした表情で答えた。何かしくじったな、と一有は思った。まずい話をした気がする。自分は今の状態でいいと思っているのに、おかしな雰囲気になってしまった。  まったく、一週間ぶりだっていうのに。  一有のキャリーはケータリングのコンテナの横に置いてあった。叶は黙ってコンテナをを抱え、靴を脱いでコテージの奥へ行った。気まずい沈黙をどうしようもないままあとについていったが、コテージは想像よりずっと広く、快適な雰囲気で、一有のもやもやした気分はすこし楽になった。  全体は北欧風のすっきりしたインテリアでまとめられている。レンジとコンロ、ミニ冷蔵庫のあるカウンターと丸テーブルが置かれたキッチン、二人掛けのソファセットとデスクのあるリビング。テラスにはベンチがあり、小さな階段を上るとツインベッドの寝室だった。リビングの天井は吹き抜けでレトロなデザインのファンがついている。壁には風景画が数枚。  ワードローブを開けると叶のスーツがかけてあった。一有も自分のスーツをつるし、ふりむいてキッチンにいる叶をみた。 「演奏会ってスーツで行くのか? 念のため持ってきたけど」  叶はコンテナに顔をつっこむようにして、中の物を取り出している。 「……本家にいるわけじゃないし、本当は好きにしてかまわないんだ。べつに気にしない」 「だけどおまえのスーツ、ここにあるじゃないか。着替えるなら俺もそうするよ、キョウ」 「……着替える」 「やっぱり。なあ、昼が早かったからけっこう腹が減ってるんだ。いま食べたら早すぎ?」 「そんなこともないだろう」  なんとなくいつもの空気が戻ってきた。キッチンに行くと叶がカウンターにパックされた食事を並べている。オードブルが数種、メインの肉料理、サラダ、スープ、それにデザート。食器棚には皿が二人分入っていた。叶はレンジで料理をあたため、一有が皿に盛りつけた。テラスはもう薄暗かった。 「何を飲む? ビール? ワイン? ウィスキー?」  叶が冷蔵庫をのぞきこんでいった。 「演奏会で眠くなったら困るから、あとにするよ」  飲まなくても眠くなるかもしれないが、飲んだら必ず居眠りする確信があった。クラシック音楽のコンサートなんて、中学生のころ後見人の神宮寺に連れていかれたのと、大学アマチュアオケの新歓演奏会が記憶にあるのみ。叶は気にしないかもしれないが、他の人間の目もある。  料理は絶品だった。空腹だったことを割り引いても十分なお釣りがくる。 「うまいな」 「ああ。このあたりでは有名な店だ」  小さなテーブルで向かいあっていると、完全にいつもの調子が戻ってきた気がして、一有はほっとした。デザートは七時にはじまる演奏会のあとで食べることにして、ふたりともスーツに着替えた。  洗面台で顔を洗い、ローションをはたいて髪を整える。一有が持ってきたのはカジュアルすぎてオフィスで着る機会がなく、クローゼットの肥やしになっていたダークグレーのセットアップで、光沢のあるシャツも同じトーンだ。ネクタイは持ってこなかったが、シャツがドレッシーだからかまわないだろう。ふりむくと叶がじっとみつめていた。 「なんだ?」 「その……似合う」 「そりゃどうも。おまえのスーツはタイがないと締まらないな。それに……」  一有は叶のスーツの胸ポケットからチーフをひっぱり出した。 「押しこんじゃダメだろ。タイもかせ。結んでやる」  叶は黙ってされるがままになっている。向かいあってネクタイを結んでいると、突然、他の人間がこんなことをするのは嫌だなと思った。これが独占欲というやつか? 「ほら、できた」 「イチウ」 「ん?」  顎をもちあげられてキスされる。キスなら何度もしているのに、それでも不意打ちに驚く。おまけに長い。 「……キョウ。離せって」  こいつは確信犯か。せっかく着替えたのに変な気分になるだろう――と思ったころ、やっと背中に回った手が離れた。一有はさっとうしろにさがった。熱くなった頬を隠すようにそっぽを向く。 「馬鹿、もう行くぞ! 歩きだろう?」  中途半端にかきたてられた熱を冷ますには、オーディトリアムまでの散歩はちょうどよかった。到着したのは開演の三十分前だが、ロビーにはけっこうな人数がたむろしている。平良の山荘にいたのはせいぜい二十人くらいだが、開演時間にあわせてゲートを解放したのだろう。  あたりを見回して、一有はスーツでよかったと思った。カジュアルな服装の人間もいるが、例外なく高級ブランドだ。このあたりの「別荘族」が来ているということか。いや――  一有は職業的な目線でロビーを眺めた。鷲尾崎平良と関係を保っておくために、はるばるやって来た人間の方が多いのかもしれない。しかも叶はさっそく誰かに捕まっている。 「鷲尾崎叶さんではないですか。以前――でお会いした……」 「ああ、その節はお世話になりました」 「まさか、お世話になったのはこっちの方で……」  一有はそろりとうしろに下がった。自分にとっては休日でも、叶には仕事のようなものだ、と思いながら。  レセプションではアルコールも含めたドリンクを提供している。思わず手が出そうになったが、コテージで我慢した意味がなくなるぞ、と自分にいいきかせる。ふだんなら絶対選ばないのだが、地元産のイチゴをふんだんに使ったフレッシュジュースが美味しそうにみえたので、ピンク色のグラスを手にとった。ふりむくとグレーのスーツのアルファがいた。  叶は何と呼んだか――省吾さん、だったか? 呼び捨てにしているからには近い親族にちがいない。 「ああ、叶の〈親友〉君」  アルファはわざとらしく強調しながらいった。 「さっきは悪かったね。叶が時々連れていたベータの男と間違えたらしい」  悪い? まさか。そんなことを思っていないのはみえみえだ。それにしても妙な含みのある口調だった。 「雰囲気が似ているから区別がつかないんだ。叶のタイプがわかるというものさ」  いったい何をいいたいのか、叶を侮辱しているのか、それとも自分を馬鹿にしているのか? 一有は判断できなかった。 「そうですか? 半年前に仕事で再会したので、それまでのことは全然知らないし、どうでもいいですからね」 「アウクトスでは何の仕事を? なんでもやる会社だろう。我々の召使だから」 「ええ、あなたのような重要人物を守る仕事です」  現業組ではなくても、仕事柄VIPに会う機会はそれなりにある。アルファでも大物と小物の区別はすぐにつく。グレーのスーツは一有の目には小物にしか見えなかった。わかりやすい嫌味などいうつもりはなかったのに、と思う一方で、今は仕事中じゃない、という意識も働く。目の前のアルファはどう反応するか迷っている。とそのとき、横から声がかけられた。 「境さん、どうも」  スーツに眼鏡。水瀬の秘書だ。西條といったか。 「昼間は失礼しました」  いきなり深々と頭をさげたから一有は困惑したが、グレーのスーツが目礼をして離れたので助かったとも思った。もちろん西條は一有の都合など知ったことではないはずだ。 「お仕事でいらしたのだと勘違いしていまして……鷲尾崎さんのご友人でいらっしゃるのですね」 「気にするようなことじゃないですよ。実際、キョウはつい先日まで直属の上司でしたから」 「いえいえ、申し訳ありませんでした」  妙に大げさだが、これも名族が関わっているからか? 面倒くさいと思ったのが顔に出てしまったかもしれない。西條は「では」といい、もう一度、今度は軽く頭を下げて一有のもとを離れた。一有はその背中をみつめながら、何かひっかかるものを感じていた。何がひっかかっているのか自分でもわからないが―― 「イチウ、何を飲んでる?」 「うわっ、キョウ。いつの間に」  今日は何度もびっくりさせられる日だな、と思った。叶がすぐ横にいて、一有が持っているピンクのグラスをのぞきこんでいる。 「イチゴのジュースだ」 「味見させてくれ」 「あっちでもらって来い」  叶は一有の話をちっとも聞いていない。一有の手からグラスをもぎとり、もう口をつけている。 「うまい」 「俺の分が減った」 「すまん。もうひとつもらってくる」 「……いいよ。そろそろ中に入らないか」  幸いというべきか、苦手なクラシック音楽を聴いているあいだも一有は居眠りせずにすんだ。隣に叶が座っていたせいかもしれない。  ツインのコテージだったのに、その夜は結局、ひとつのベッドしか使わなかった。

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