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第5章 雉は忘れられないために啼く 4.柔らかな針の床
小径は落葉松 の森の中をどこまでも続いている。
夢をみているのだとわかっていた。さっきから頭の上で鳴っているのは時計のアラームだ。それでも一有の意識は落葉松の森をさまよっている。足もとには木漏れ日がちらちら光り、木の枝には黄緑色の新芽がびっしりついている。小径は細かい針のような茶色の葉で覆われている。
ずっと先を叶がひとりで歩いているから、早く追いつかなくては。一有は遠くに見える背中をめがけて走ろうとするが、空気がやけに重く、なかなか前に進めない。誰かがどこかで喋っている。叶の声ではない。
「秋に落葉するから落葉松という。このあたり一面が金色になってね、きれいなものだよ」
鷲尾崎平良の声だ。気づくと同時に目が覚める。
一有は布団をはねのけ、けたたましく鳴り響くアラームを止めた。
月曜の朝七時、見慣れた自分の部屋にいる。
高原の別荘地をあとにしたのは昨日の午後早い時間だった。東京につくとすぐに現業組のヘルプに行き、自宅に帰りついたときは午前一時をまわっていた。
叶は夜にこっちへ戻ったのだろう。運転中に電話があったが、たいした話はできかった。
明日は代休だが今日は出社である。手早く身支度をすませて朝食にした。ひとりの朝はあいかわらず三種類のローテーションだ。白米と味噌汁とほうじ茶か、パンとコーヒーと卵か、グラノーラと牛乳とコーヒー。時間がないのでグラノーラを選ぶ。
コーヒーを淹れるあいだずっと、一有は目覚める直前に見た夢が気になっていた。
十代の頃はともかく、この数年は寝起きの夢などすぐに忘れてしまうのに、珍しいことだ。
たった一泊しかしていないのに、あそこで起きたことの何がそんなに気になっている? 一有は自問する。
思い当たることは、あるといえば――ある。
高原の朝は東京よりもひんやりして、寒いほどだった。昨日はコテージで朝食をとったあと、一有は叶とともに、鷲尾崎平良が率いる「吟行」についていった。
詩歌を作るために名所旧跡を回ると叶に聞いたから、てっきりその場で一句詠むような会だと思っていた。が、実際は土地の歴史や逸話を聞きながらハイキングをするというもので、実際に歌を作るのは昼食のあとらしい。
そのために場所を借りていると聞いたが、一有がついていったのはハイキングだけだ。二十人ほどの参加者と森の遊歩道を散策したあと、むかしは峠の茶屋だったという小料理屋で食事をした。
旅行でドライブに行くことはあっても、こんなふうに森を歩くのは大学のゼミ旅行以来だった。参加者のほとんどは平良の個人的な知りあいで、中高年ばかりだ。前日に叶が「省吾さん」と呼んだアルファはあらわれなかった。
一有はたいてい叶と、それに平良と並んで歩いたが、さわやかな高原の空気の中で体を動かすのは思いのほか気持ちがよかった。
平良はかつて宣教師や外国公使の別荘だった建物をみつけるたび、いちいち解説を加えた。観光スポットになっている教会の前も通った。昔からこの地は避暑に訪れる名族の社交場となっているため、幼いころから毎年、夏になると顔をあわせ、長じてこの教会で式をあげるカップルも少なくないのだという。
「昔は十代のアルファとオメガが二人きりで歩いたり自転車に乗ったりすると、すぐ噂になったものだよ」
平良は写真を撮っている観光客を横目にそういって、ふと思いついたようにたずねた。
「イチウ君は結婚というものをどう思う?」
「結婚ですか?」
一有は思わず聞き返した。
「俺は特に何も……子供のころに両親が亡くなったせいか、家庭とか家族とか……あまり実感が持てないんですよ。だから考えたこともないです」
「誰とも?」
「まあ、そうですね」
話しているあいだずっと、叶はあさっての方を向いていた。平良がめくばせした。
「キョウはどうしたんだ? やけに静かだが、何かあったのか?」
「いえ、特に何も……」
しかし実をいうと、一有も叶の様子にひっかかるものを感じていたのだ。発端なら見当がつく。昨夜、平良の山荘からコテージに行く途中で、気まずい空気になったことだ。しかし演奏会へ行ったときは特に何も思わなかったし、夜も――ベッドがちがうだけで――いつもの週末と変わらなかった。
ところが平良がいったように、今朝起きてから、叶はやけに静かだ。おまけに一有をみつめる目の奥で、何かずっと考えこんでいるように見える。
結婚、か。
ふいに脳裏によみがえったのは、叶が昨日「結婚すればこんな扱いにはならない」といったことだ。
あの時は水瀬真弓、つまり叶の家まで見合い写真を持ってきた親戚にすれちがったばかりだったのもあって、叶がどこかのオメガと結婚する、という話だと思った。平良に結婚について聞かれたせいだろうか、ふと別の可能性が頭に浮かんだ。
もしあれが|自《・》|分《・》|と《・》結婚すれば――という話だったら?
「イチウ君?」
平良が怪訝な目つきで見た。一有はあわてて答えた。
「ご心配なく。喧嘩なんかしていませんよ。何か考え事があるんでしょう」
グラノーラをかきまぜながら一有はもう一度あのときのこと――結婚すればどうとか、叶がいったあとのことを思い出そうとした。
俺は叶に何と返したっけ? たしか独身主義者のくせにとか、そんなふうにまぜっかえしたはずだ。叶はとくに反論しなかった。
だいたい、一有がそういったのには立派な理由がある。以前叶は藤野谷天藍に独身主義者だと話していた。
それに叶は鷲尾崎一族だ。聖騎士学園で同室だったころ、叶はうかつな質問をした一有に、誰とでも結婚できるわけじゃないとか、そんな話もしていた。オメガでもそうなのに、まさかベータの自分と――いや、ない。ないない。
一有は穀物をぽりぽり噛み、最後にコーヒーを飲みほした。
やれやれ。あいつとつきあいはじめて半年たって、俺も焼きが回ったのだろうか。家庭を持つなんて想像したこともないのに、叶の様子が変だと思っただけで、朝からこんなことを考えるとは。
部屋を出る直前に社用のスマホを確認すると、知らないアドレスからメールが届いていた。西條卓という名前をみたときは一瞬誰かわからなかったが、すぐに別荘地で会った水瀬の秘書だと思い出した。一応ひらいてみたものの、通り一遍の挨拶メールだった。
きっと一有が鷲尾崎叶の「部下」ではなく「友人」と知って、つながっておくにこしたことはないと思ったのだろう。名族の周囲にはこんな人間がときどきいる。一有はスマホを鞄に放りこんだ。
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