27 / 37

第5章 雉は忘れられないために啼く 5.擬態する小鳥

 ゴールデンウィークが終わったとたん、朝夕の街路を歩く人の流れはそれまでとはっきり変わる。四月のはじめは新入社員や新入学の学生であふれていた都市はいつのまにか彼らを飲みこみ、フレッシュな空気はくりかえしの毎日にとってかわる。  しかし何事にも急変はつきものだ。月曜に出社したとたん長期警護契約の対象にトラブルが発生し、そのあおりをくって、火曜にとるはずだった一有の代休は延期になった。平日だし、約束があるわけでもないが、一応知らせておくかとスマホをみたのは夕方のことだ。ほんの十五分前に叶から着信が二回あり、留守電が入っていた。 『知人の容態が急変して九州に行くことになった。……これから搭乗だ。落ち着いたら連絡する』    一有は反射的に通話ボタンをタップしようとして、思いとどまった。飛行機の中にいるなら、かけても意味がない。  そもそも四月になってから、昼間の社内で叶と話をする機会はまずない。社外に出ていることも多い上、社内ではだいたい会議中だ。私用で九州に行くといっても、そのあいだも社用の電話に出ずっぱりかもしれず、実質的に仕事をしているようなものだろう。  どうせすぐに電話がくるだろう、と一有は思った。ところが、それから丸二日過ぎても叶からは音沙汰がなかった。  その二日間はべつだん気にしていなかった。平日の深夜、寝る前の定例になっていた電話とはいえ、安否確認をしているわけでもない。それなのに三日目になると、一有は妙に苛ついてきた。  それはたぶん、昼間オフィスで共有した政界ゴシップ記事のせいもあった。仕事柄、名族の個人警護に関連しそうな情報は担当者が何でもスクラップしている。一有の目に留まったその記事は小ネタにすぎなかった。九州に隠居していた政界の重鎮に何かあったらしい、というものだ。叶の留守電を聞いていなければなんとも思わなかったにちがいない。  知人の容態が急変して、と留守電には入っていたが、おそらく鷲尾崎一族がらみなのだろう。飛行機で駆けつけるくらいだ。血縁なのかもしれない。  まあ、こっちから電話してもいい。でも――  一有は時計を見てためらった。深夜一時。緊急の用事でもないのに電話をする時間ではない。じゃ、メールとか?  一有は液晶画面を眺めた。個人用のアドレスは知っている。ショートメールでもいい。しかし考えてみると、アウクトス・コーポレーションで叶に再会してから、一有は個人的なメールを一度も送ったことがなかった。メッセージアプリのたぐいも使ったことがない。社内でのメールのやりとりはコンプライアンスもあって、完全に職務上の用件だけだ。  こうして思い返してみると、叶に再会してからというもの、メールを送る暇――というか、隙のないつきあい方ではなかったか。  一有は無意識に顔をしかめた。たぶんそんな隙をなくしたのは叶だ。再会して最初のうち、つまり一有が逃げ出しかねなかったころ、叶は有無をいわさず一有の前に姿をあらわし、つきまとい、無視できないようにした。関係が落ち着いてからは、毎日直接声を聞くことが当たり前のようになった。  そして俺は今になって、叶にあてた個人的なメッセージをどう書き出せばいいか悩んでいるというわけか? まったく、あのアルファめ。  指が液晶画面の上をさまよった。「いつもお世話になっております」ではじめるのは論外として、妥当なのは「元気か? どうしてる?」あたりか。しかし「どうしてる」なんてたずねるほどの日数か。「何があった? 大丈夫か?」ちがう。叶の事情を詮索する気はないし、心配しているわけでもない。単に「お疲れさま」ではじめて――  俺はいったい、何を悩んでいるんだ。  馬鹿馬鹿しくなって、一有はスマホをベッドに放り出した。さっさと寝てしまえ。明日の夜、適当な時間に電話すればいい。  しかし翌日起きた時には、朝のニュースは政界の黒幕の訃報に埋め尽くされていた。  あいかわらず叶から連絡はないが、彼の九州行きとニュースにはきっと関係があるのだろう。新聞の一面には「一時代の終わり」など、件の人物――三文字姓の名族ではなく、才能だけで頭角をあらわしたアルファ――を華々しくまつりあげる記事が載っていた。二面には各界におよぼした影響が解説してあり、交友関係のなかに鷲尾崎姓が何人も登場している。  報道によれば亡くなったのは叶が九州に発った日だった。さては告別式の日取りが決まるまでメディアの情報をコントロールしていたのか。  その日の昼、西條卓からメールが届いた。 〈急なことで申し訳ありませんが、ご相談があります〉  明日、水瀬真弓が告別式のため九州へ行くのでついていくのだが、その前に折り入って相談したいことがある、というのである。  私用とも公用ともつかない内容に首をひねり、なぜ自分にそんな話を?と一有が返信すると、今度は社用のスマホに電話がかかってきた。返信すれば電話番号つきの署名も送られるから、これ自体は不思議なことではない。が、一有は内心しまったと思った。 「どうも」 『突然すみません。鷲尾崎叶さんはもう九州にいらっしゃってますね?』  一有の緊張をよそに、西條は快活な声でいきなりそういった。 「……自分に聞くことではないと思いますが」 『こちらには情報が回っていますから、警戒は不要ですよ。例のお方は鷲尾崎一族と懇意にされていましたし、水瀬も恩がある方です』  いったい何が目的なのか? 一有は用心深くたずねた。 「相談というのは? 一度会っただけの人間に聞くことなど、何もないかと思いますが」 『申し訳ありませんが電話ではちょっと。鷲尾崎叶さんに関することです。明日は早いので、今晩会って話しませんか。あ、境さんの迷惑になることではありませんよ』  西條の声はやけにハキハキしているが、不審というか、不穏な気配が逆に深まった。一有は口ごもった。どう返せばいのかわからない。 「今晩といわれても――」 『十五分ほど割いてもらえればいいだけです。そちらにお邪魔してもかまわないんですが、境さんはその方がいいですか?』  ますます不穏な印象が深まり、一有は顔をしかめた。 「どこで?」 『メールを送りますよ。二十時では?』 「十五分だけです」  電話を切ってすぐ、一有は私用のスマホを取り出した。叶の番号を鳴らしたが、数コールで留守電に変わった。考えをまとめるまえに録音がはじまってしまう。 「キョウ、俺だ。……ニュースを見たよ。九州に行ったのはこのせいか? 忙しいんだろう? ……またかける」  伝えられたのはそれだけだった。もうメールが届いている。西條からだ。  指定されたのは人でごった返すターミナル駅の端に昔からある喫茶店だった。入口は狭いが奥は広く、天鵞絨張りのソファと椅子がならぶ喫茶の奥にバーカウンターがある店だ。  西條はカウンターにひとりでいたが、一有は最初、気づかずに通り過ぎそうになるところだった。「境さん、ここです」と声をかけられ、一有は不覚にも相手をまじまじとみつめてしまった。  西條は眼鏡をかけていなかった。髪をあげているせいもあってか、別荘地で会ったときとは印象がかなりちがう。スーツもあの時のような個性の感じられないものではない。 「西條さん? ずいぶん雰囲気がちがいますね」 「オンとオフをはっきりしておく主義なんですよ」 「じゃ、今はオフってことですか?」  西條はニヤッと笑った。 「思ったより意地悪だなあ、境さん。何か注文してください。これ、ハイボールです」  ソーダの泡が弾けるグラスを持ち上げる。一有はアイスコーヒーを頼んだ。 「で、俺に用というのは? 急用だっていうから来たんですが」 「ああ、ええ。山荘でお会いした時ですが――鷲尾崎さん、俺に気づかなかったんですよ」  さらりと投げられた意味深な言葉を一有はすばやく解読した。 「……前からの知り合いでしたか」 「ええ、まあ。挨拶すれば気づいたかもしれませんが、そんな口実もなかったし、それにもし気づいていたとしても、知らないふりがルールですしね」 「わかりやすく話してくれませんか」  思わせぶりな口調にすこし苛立った。西條は腹が立つほどハキハキした口調で答えた。 「一度だけ家に行ったことがあります。二度はお呼びがかからなかったですね。俺はそのころパラリーガルだったんですが」  パラリーガルは法律事務所の専門事務職である。一有がロースクールや司法試験をあきらめて、それでも叶の近くにいたければ、選択していたかもしれない仕事だ。  一有はアイスコーヒーを一口飲んだ。 「そのころ? いつの話をしているんですか?」 「いつ? そうだな、三年以上前です」  三年? そう聞いたとき、一有の頭に浮かんだのは、不機嫌な顔でこっちを睨んでいた鷲尾崎家のアルファだ。 (三年、いや五年前かな?) (時々連れていたベータの男と間違えた) (叶のタイプがわかるというものさ)  ――要するにそういう話かよ。  政界の黒幕が亡くなったあとだ。もっとヤバいことがあるのかと思ったじゃないか。  例のアルファの目つきにひそんでいた嫌悪に一有はやっと納得がいき、同時に拍子抜けのあまりため息をつきそうになった。  濡れたグラスをみつめて無表情をきめこむ。なんてことはない、つまり、大学時代に別れてから再会するまでの十三年のあいだ、叶もそれなりに誰かと気軽な関係をもっていた、というだけの話だ。この男はそれをわざわざご注進にきたらしい。  そんなことはとっくに察していたし、だからどうというわけでもない。  十六の頃から好きだったといわれたところで、三十代もなかばの男に操を立てられる方が怖いものがある。たとえ叶が寝室に自分の写真を飾るような男であってもだ。  ただひとつ、一有の漠然とした想像とはちがう要素があった。それが一有を困惑させたのはたしかだ。  ――相手はベータだったのか。オメガではなく。 「ああ、誤解しないでください。俺はべつに今の鷲尾崎さんに興味ないです。興味があるのは境さんですよ」  西條がけろりとした表情でいった。しかしその次の問いを発するときは、すこしだけ声を低めた。 「教えてくださいよ。同じベータなんだから――どうやって名族のアルファを本気にさせたんですか?」

ともだちにシェアしよう!