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第5章 雉は忘れられないために啼く 6.逢ふことのたえてしなくは
そんなの知るか。失せろ――というのが一有の正直な気持ちだった。
しかし三十も半ばをすぎれば、正直な気持ちを口に出しても意味のない局面があるのはよく承知している。ことに西條のような、名族に群がって利益を得ようとしている輩には。
「ベータを遊び相手にするアルファは珍しくないですが、本気にさせるのは難しい。そうじゃないですか?」
西條は一有を同類だと思っている。一有は苛立ちを抑えようとして、完全な無表情になった。
「コネも血縁もなしのアルファの右腕ポジションって、いいですよね」
「俺はそんなのじゃないですよ」
「鷲尾崎一族の間では話題になってますよ。現当主にもっとも近い鷲尾崎叶が手元におきたがるベータ。いいじゃないですか。ベータならオメガのつがいができてもずっとついていられる」
一有はまばたきもしなかった。
「俺はそういう話とは関係ありません」
「何いってるんですか。どうアプローチしたのか知りたいだけですよ。大物の冠婚葬祭ではいろいろな人に会えます。名族のアルファと親しければ、それがどこまでの関係だろうが、いろいろとメリットがある。でしょう?」
西條は不快な強調をこめていった。
「メリットね。俺がキョウと知りあったのは高校の時です。大学の途中から音信不通になってましたが」
タン、と音を立ててハイボールのグラスがカウンターに置かれた。西條は一有の方へ身を乗り出した。
「境さん、自分はちがうと思ってるでしょう?」
「何が?」
「いつ知りあったなんてどうでもいい。自分から近づいていこうが、いつのまにかそうなってたであろうが、特権のおこぼれをもらうことに変わりはないですよ。境さんの自覚はどうあれ、親族でもないベータがアルファの横にいたら周りはそう見てる」
自分のこめかみがぴくりと動くのがわかった。一有はアイスコーヒーのグラスをカウンターに戻した。
「たしかにあいつが昔俺にくれた特権なら、ひとつあります」
「教えてもらえるんですか?」
「いちばん高いコーヒー店です」
西條は意味がわからないという目つきになった。一有は立ち上がった。
「西條さん、十五分たちましたよ。伝票は俺がもらっていきます」
一有はふりむかずにまっすぐレジへ歩き、勘定を払って外に出た。スマホを見ても叶からの着信はない。俺の留守電は聞いたのだろうか。
人混みにもまれて歩いていると不快な気分が増してきた。西條に面と向かっている時の方がまだ冷静だった気がする。
しかしこの不快感は何に対してのものだろう。西條がくだらない男だから? そんなやつと同類だと思われたから? 一度だけとはいえ、叶があんな男をひっかけていたから?
ただしそれをいうなら、自分もこれまで、最低な男と一夜だけの関係をもったことは何度もある。
それでもやはり不愉快だった。西條は叶のことを何ひとつわかっていない、と思った。山頂で飲むコーヒーの味だって、あいつは知らないし、理解しないだろう。早朝の空気のなか、目の前で揺れる叶のナップザック、山頂から地上を見下ろしたときの解放感。叶が渡した小さな金属のカップから、コーヒーの香りが立ち上る。
ターミナル駅の喧騒を歩きながら、一有はむしゃくしゃした気分を抑えかねていた。空腹でもあった。このあたりにはいくらでも飲食店があるが、西條がまだ近くにいるかもしれないと思うとどこにも入る気になれない。しかし家に帰ってひとりで飯を食うのも億劫だ。
一有はもう一度スマホをみつめ、叶に電話するか迷ったが、タップしたのは別の番号だった。
『いっちゃん、珍しいね』
木谷脩平はワンコールで電話に出た。
「脩平、晩飯はすんだか?」
『これからだよ?』
「どこかで食べないか」
『ご機嫌斜めじゃない。なんかあった? 部長さんはどうしてる』
「あいつは九州だ。どうする?」
この半年はめっきり機会が減ったが、それまでの数年間、脩平とはよく飯を食いに行った。セックスとスポーツを同次元で捉えている男でもあるから、そのころは一緒に飯に行けばだいたいセックスがついてきた。
一般的な倫理基準に照らせばセフレという関係は健全ではないのかもしれない。だが一有にいわせれば、叶との長年にわたる奇妙にもつれた関係――心や感情という不定形なものへの執着に比べると、ある意味で健康的なつきあいではあった。
しかし今はとっくにその関係は解消している。一有だけでなく、脩平の方もごめんこうむると思っているからだ。
『飯だけならいいか。どこにする?』
「脩平が食いたいものでいい」
車は会社に置いたままだった。一有はまた電車に乗り、繁華街の駅で脩平と落ちあった。深夜まで営業していて定食と一品と酒も出す、食堂と居酒屋の中間のような騒がしい食堂に入ったが、隅のボックス席に落ちつくと案外静かだった。
「で、どうしたのよ」
「どうもしてない。飯につきあってほしかっただけ」
「ふうん」
脩平にはどんな店に入っても周囲がしんとなるような存在感がある。いわゆる筋者ではなくても、ふつうではないという雰囲気がどこかにつきまとっているからだ。ところがひとたび口をひらくと、どこまで本気なのか見当がつかないチャラい口調で喋るから、初対面の人間はたいてい面食らう。
しかも仕事中の脩平は、警護対象にあわせて雰囲気をがらりと変える。人当たりのいいおじさん、小さな子供に好かれるアニキ、強面のSP、なんでもござれだ。カメレオンのような男だが、その核には冷静な知性がある。
ざわついている心を鎮めるために、脩平の冷静さを必要としていたのかもしれない。山盛りの唐揚げに箸をつける脩平と向かいあって、一有は生姜焼き定食のキャベツにドレッシングをかける。空腹が満たされると、やっと口が動くようになる。
「脩平はさ、昔の男ってのをどう思う?」
空になった皿を前にそういうと、脩平は大げさに顔をしかめた。
「いっちゃんがそれ聞く? 一応本人が目の前にいるんだけど」
脩平にとっては冗談の一種だとわかっているので、一有はとりあいもしなかった。
「馬鹿、俺とおまえはそんなんじゃないだろ。なんていうか、一般的な話題を振っただけだ」
脩平はちっちっと舌打ちをする。
「一般的な話題なんか俺は知らないね。ご存知の通り、ヤッてるときは今しかない主義だしね。例の旦那が登場する前はいっちゃんも俺と同じだと思ってたし」
「うん。俺も自分でそう思ってた」
「いったいどうしたんだよ。何でこんな話? 昔旦那に横恋慕していたオメガにでも会った?」
「横恋慕? そんなのじゃない」
一有はどこまで話すべきか迷った。
「ずっと前の話だ。それにオメガじゃない。ベータだった」
「ベータ」脩平の眉がかすかにあがった。
「ふうん。それでむかついた?」
他人にいわれると、自分ひとりで考えているよりも腹の立つものなのかもしれない。
「たしかにムカついてる」
ぽつりと告白すると、脩平の顔がにやりと崩れた。
「あーあ。いっちゃんがそんなこというようになるなんて!」
「……悪いな」
「まさか。人でなしの俺としては面白くってたまらないけどね。もう一軒どこかに行く?」
一有はスマホをみた。九時はとっくにすぎている。誰からも着信はない。叶に電話をかけるか、かかってくるか。どちらにしても静かな場所にいたほうがいいにきまってる。
一有のためらいを察したのか、脩平が伝票にさっと手をのばした。
「やめておきますか、そんな感じでもなさそうだし。いっちゃんのお悩みは聞いたから、あの人に刺されないうちにさっさと帰りましょ」
一有は思わず苦笑した。
「あいつがそんなことするかよ」
「なーにいってんの。名族のアルファってのは扱い方を間違えると悪霊になるんだよ?」
「悪霊? さんざんな呼び方だな」
「連中、パワーを持ってるからね。闇堕ちしたら世界に害なす存在になってしまう。つまり見初められたいっちゃんの肩には世界平和がかかってるわけ」
「馬鹿話もたいがいにしろって。それにアルファがそうやって執着するのはたいがい、ベータじゃなくてオメガの――」
一有が笑いながらそういうと、脩平は真顔で一有の唇の前に人差し指をつきつけた。それ以上何も喋るなというように。うすい唇がニッと上がって、悪魔的な笑みをつくった。
「いっちゃんのそういうとこ悪くないけど、もう少し素直になっていいんじゃない? こんなところで俺に愚痴ってないで、本人に話しなさいって」
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