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第6章 郭公の夢路 6.満月に乾杯

 ここ数年で、夏の暑さは災害と呼べるほどになった。  七月はじめから都市は連日太陽に炙られ、八月に入ってからはずっと猛暑日だ。夜になっても熱風が吹き、駐車場からマンションに入るまでのたった数分のあいだに、ワイシャツの下に汗がにじむ。  だからこそ、帰宅してすぐのシャワーは最高だし、そのあとのビールは格別だ。髪を拭く時間も惜しんで一有はキッチンへ直行し、缶ビールのプルタブを引いた。  リビングに叶の姿はない。今日はめずらしく一有より帰宅が早かったようだが、結局書斎で仕事をしているのか。メゾネットの階段をのぼっていくと、あけっぱなしのドアから聞き覚えのある声が響いてきた。 『もうほんとにお宝! ありがとう、いくら感謝してもしきれないくらいだよ! 未笹の草稿の実物を見られるなんて……』  きっとビデオ通話だろう。叶の書斎には在宅会議用の設備が整えてある。相手は宇田川里琴だ。結婚して戸籍名は斎川里琴になったが、歌人としての活動はいまだに宇田川姓で、メディアにもよく登場する。最近は海外の大学や文学関係のイベントに招聘されることも多く、あちこち飛び回っているようだ。 「みつけたのはイチウだ。礼なら本人に……」  叶がこわばった声で答えた。  どうも叶は、家族や親しい友人には口数が少なく、ぶっきらぼうになる傾向がある。公的な場所や仕事では実に弁舌なめらかなのに、不思議なものだ。 『もちろん! いまイチウ君と話せる? ていうか、イチウ君にお礼いえないかなと思ってキョウにかけたんだよ。ほら、僕はイチウ君には距離おかれちゃってるからさ、しかたないっていうか、当然だけど。それに来週のお披露目で顔は見れても、ああいう会って意外に話ができないじゃない?』 「ついさっき帰ったばかりだから――」 「キョウ」  一有は戸口に立っていった。デスクの前で叶がふりむく。ディスプレイには里琴の顔が大写しになっている。 「リコさん、どうも」  体をかがめてカメラの方をみると、里琴は満面の笑みを浮かべた。 『イチウ君! お出ましありがとう! お風呂あがり? あいかわらず素敵だね!』 「……はあ、どうも」 『今日になってやっと例のブツの実物を受け取ってね、当主に写真は見せてもらってたけど、なにせ三日前まで日本にいなかったものだから。とにかく感謝の言葉を伝えずにはいられなくて。もうほんとうにほんとうに嬉しい』 「あ、いえ……俺はキョウを手伝っただけですから。みつけたのもたまたま……」  叶が椅子から立ち上がりかけたが、一有は手で制した。このテンションにひとりでつきあうのはきつい。 『そんなことないよ、ああいう作業って大変でさ、古いものずーっと眺めてるとだんだん頭ぼうっとしてくるし、しまいに面倒になって見逃してしまうこともあるから。あ、それからご結婚おめでとうございます。そう、これもイチウ君に直接伝えたくてさ』 「……ありがとうございます」 『週末のお披露目には僕も行くけど、イチウ君と話がしたい人ばっかりで、あまり時間もなさそうだと思って。それにしてもイチウ君はあいかわらずクールでかっこいいよねえ。キョウもこれでやっと安心でき――』 「リコ、これから夕食なんだ。話は他に?」  叶が低い声で里琴をさえぎったので、一有は内心ほっとした。 『あそう、ごめんね! キョウも幸せオーラだだもれでよかったね! じゃ、週末楽しみにしてるよ』  暗くなったディスプレイに叶と一有の顔が反射する。一有の手の中でビール缶が汗をかいている。 「……リコさん、元気だな。ま、喜んでてよかったよ」  幸せオーラ云々に触れると叶が拗ねそうな気がしたので、ひとまずそうコメントすると、叶はムスっとした表情で「礼をいいたいってのはわかるが、いつもひとこと余計だ」といった。たしかに。 「それにしてもお披露目っていうのは大袈裟だな。山荘の集まりのついでに報告するだけだろう?」 「ああ。仰々しいことは絶対にしないでくれと平良に頼んである」 「平良さんなら大丈夫さ」  そういって一有がビールに口をつけると、叶は羨ましそうな目つきでみつめてきた。 「おまえも飲む? 取ってこようか? ていうか、晩飯にするだろ?」 「とりあえずそれを飲みたい」 「半分もないのに?」  それでもあいかわらず目が追ってくるので、一有は缶を渡してやる。叶は残りを一気に飲み干した。  一有が叶のマンションに移ったのは二週間前だ。入籍したのは一週間前である。名前も「鷲尾崎一有」になったわけだが、職場では旧姓のままだ。週末には例の山荘で、叶の両親や、平良をはじめとした鷲尾崎一族、それに一有にゆかりのある人々が集まって、小さな席をもつことになっていた。ハネムーンと呼ぶのはこそばゆいが、そのあとは一週間の旅行を計画している。  平良や叶の両親、それに一有の後見人だった神宮寺には、事前に話はしたものの、入籍前の顔合わせはしていないから、週末の行事を前に、多少の緊張はなくもない。それに鷲尾崎の他の親族たちも――次期当主と目されているアルファがベータの男と結婚したことを彼らがどう思うのか、一有にとってはいまだに気にかかることではある。しかしもう腹は括ったのだし、何が起きても引き受けるだけだった。  生活については、一有が叶のマンションに住むことで早々に決着がついた――いや、叶と結婚すると決めた時点で、一有の中でもそれが既定路線になっていたというべきだろう。引越にあたっては、メゾネットの上階の、物置がわりになっていた部屋を片付けて、一有の本や、寝室におさまらなかったワードローブの中身を移した。大学以来の同居生活の復活ともいえるが、寝室はひとつだけだ。  叶は先に立ってリビングへ降りると、アイランド式のキッチンで野菜を洗いはじめた。平日の夕食は外食や冷凍の調理済みキットですませることも多いが、たまに早く帰ってこれた日は、こうして料理をするのが楽しいらしい。  一有はカウンターによりかかり、二本目の缶ビールをあける。週末は一有もキッチンに立つが、自前の調理器具は引っ越してくる前に処分してしまった。叶はフライパンひとつとっても、やたらといいものを持っているのである。  ふと窓の外をみると、昇っていく丸い月がみえた。リノベーションで様変わりしても、窓の外の風景は学生のときとあまり変わらない。でもあのころ、こうなることはまったく予想しなかった。この窓から月が見えるなんてことも、一度も思わなかった気がする。  キッチンでは油がパチパチと小気味いい音を立て、肉が焼ける香りが漂いはじめた。 「キョウ」  呼んでからコンロの方を振り返ると、叶は無表情でフライパンをにらんでいる。しかし顔をあげたとたん、まなざしにべつのものが加わる。まちがいなく一有の方へ、まっすぐに向かってくるものがある。  一途な愛情? 執着? 今となってはなんでもいい。  十六の春、おまえに会えてよかった。 「イチウ?」 「……なんでもない。ここからでっかい月がみえるんだなって思ってさ」  叶は怪訝な表情で窓をみて「たしかに」といった。 「キョウ、肉、大丈夫か?」 「もう少しだ」 「うまそうだな」 「ああ」  テーブルに皿を並べ、向かいあって座った。飲みかけの缶ビールをもちあげて、どちらからともなく乾杯のようなことをする。月は窓のむこうにあって、一有と叶を照らしている。

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