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第6章 郭公の夢路 5.暁の鳥

「キョウ、いいかげん離せ。暑い」  叶はまだ一有の背中、いや腰に手を回している。抱きしめられているというより、ぬいぐるみのように抱えこまれている感じだ。微妙にニュアンスがちがう。 「ああ……」  長い吐息のあとに腕が離れたが、今度はあごをつかまれる。ひたいに唇が押しつけられる。叶のオーデコロンは大学のころから変わらない。こいつは変わらない男なんだな、と一有はあらためて思う。俺はどうだろう?  体が密着していると、だんだん興奮してくるからよくない。子供じゃあるまいし、いい年したおっさんふたりがこんなところでじゃれあっててどうするんだ。頭ではそう思うものの、唇が重なると自然に応えてしまう。まったくもう―― 「……キョウ」  一有は呼吸のあいまに叶の両肩をおさえ、半歩さがった。 「……もうすこしやっていくか? まだ外も明るいし、とりあえず全部開けて見ておけば、明日が楽になるんじゃないか?」  叶は残念そうな顔で周囲に積んだ箱をみやった。 「……そうだな」 「俺は一番奥の箱から開けていくから。それっぽい紙やノートをみつけたら、おまえに声かけるよ」 「わかった」  叶はうなずき、一有は一番奥へ行った。といってもさほど広い空間でもないし、背を向けたところで叶の存在感がなくなるわけでもない。一有は一番上の棚からラベルのない書類箱を下ろし、中身をあらためはじめた。ところが脳内ではついさっき叶とかわした会話のリプレイがはじまって、すると今度は心臓がドキドキしはじめた。  ……何だよこの、ボディブローみたいに効いてくるやつは。  つまり俺は、キョウと結婚するっていったんだよな?  そうだ。でもほら、紙を書いて出すだけだろ、基本は。  そりゃそうだろうが、それだけでもないよな? 平良さんは察してるだろうが、キョウのご両親とか神宮寺さんに話をして……。  脳内でいまさらの自問自答を繰り広げながら、短歌とはいっさい関係のなさそうな書籍の箱の蓋を閉じる。調べおわった箱はいったん床に置き、奥にひとつ残った茶色い箱を両手でひっぱり出したとき、叶が呼んだ。 「イチウ」  そのとたん心臓が大きく跳ね、箱が床にがらがらと落ちた。一有は反射的に足をひっこめたが、箱は床に横倒しになって、パカッと外れた木の蓋に大きなヒビがみえた。 「……大丈夫か?」 「ああ。なんかびっくりして。それよりこの蓋、ヒビいってしまったかも」  落としてしまったのは茶箱らしい。黄ばんだ原稿用紙の束が箱から飛び出している。箱の内側はトタン張りで、鈍い銀色に光っている。底に黒革の表紙がみえた。本――いや、ノートだ。何冊もある。 「キョウ、これ……なんかそれっぽいぞ」  そういったときはもう、叶は一有の横にいて、箱の中を覗きこんでいた。 「広げてみよう」  叶がヒビの入った蓋もろとも箱を抱えたので、一有はそのあとからついていった。キッチンカウンターに取り出した中身を広げていく。橙色の明かりの下では、紙もノートもやたらと時代がかった古いものに見えた。いつのまにか窓の外は暗くなっている。 「どうだ?」 「ああ、そうかもしれない……ちょっと待ってくれ――平良に電話してみる」  叶がスマホを取り出して耳にあてた。 「平良? いま時間あるか? 例の別荘だが、それらしいものがあって……」  電波が悪いのか、叶は天井をみあげてから部屋をぐるっと回り、しまいに外へ出て行く。一有はカウンターに広げられた原稿用紙をながめたが、デジタルフォントに慣れた目には、崩した手書き文字の内容はぱっとみるだけではよくわからない。何度も推敲したらしく、あちこち二重線で消されたり、書き直されているからなおさらだ。それでも「未笹」という文字が目に入ったときは、ハッとした。 「ああ。ひとまず写真を送る。それに大事な話もあって――いや、それは帰ってからだ。じゃ」  叶が話しながら戻ってくると、茶箱の外観や原稿用紙を写真に撮りはじめた。一有は横でぼうっと眺めていた。黒革表紙のノートは十冊はあって、叶はその一冊の見返しを広げた。「郭公の夢路」という大きめの楷書がみえた。 「イチウ、押さえててもらえないか」  一有はページの端を押さえ、叶はスマホをかまえてシャッターを押した。もう一枚ページをめくると、そこには一有にも短歌だとわかる一行が書きつけられている。 時鳥夢かうつつか朝露のおきて別れし暁の声  叶が顔をしかめた。 「……本人の歌じゃないな。古典か。古今とか? まあ、平良ならわかるだろう」 「なんだかんだいっても詳しいな、おまえ」  一有は感心していった。 「ジチョウって何?」 「ホトトギス。カッコウの仲間だ」 「鳥が好きなんだな。そういえばおまえも鳥か」 「え?」 「鷲尾崎だろ」 「ああ……」  叶はさらにページをめくって数枚写真を撮ったが、そこはぎっしりと細かな崩し字で埋められていて、余白もほとんどみえないほどだ。一有はひと目で解読をあきらめて、指先でページを押さえるだけ。 「写真はこのくらいでいいか。箱ごと山荘に持ち帰ろう」 「これだけでいいのか? 確認していない箱は……」 「明日にする」  叶はきっぱりといい、一有は急に疲れと空腹を感じた。残りの箱を元の位置に戻すと、叶が茶箱を車に運び、一有は戸締りをして外へ出た。草のあいだで虫が鳴いている。 「腹が減ったよ」 「町の方へ行くか? 夕食のケータリングも来てると思うが……」 「外で食べるよりそっちの方がいいね」  街あかりがないせいか、木立のあいだの闇をやけに濃く感じた。昼間山荘に寄ったときは通いの管理人が挨拶してくれて、叶と親しく話していたが、今は玄関灯がついているだけで誰もいない。それでも風呂の湯は沸いているし、キッチンには温めて皿に盛るだけでいい料理が届いていた。至れり尽くせりである。  叶は持ち帰った茶箱を居間のローテーブルに運んで、もう一度中身をあらためている。一有はひとこと断ってシャワーを浴びに行った。出てくると叶は電話で話しているところだった。どうやら相手は平良らしい。一有はキッチンに行き、夕食をレンジで温めて盛り付けた。  冷蔵庫にあった缶ビールと一緒に皿を居間へ運んでいくと、叶がスマホを置いてふりかえった。 「電話、平良さんか?」 「ああ。写真をみて興奮してる」 「そりゃよかった。ビールでいいか?」 「ああ――ありがとう」  居間の大きな窓はカーテンがあけっぱなしだ。芝生の庭はぽつんぽつんと小さな明かりで照らされている。その向こうの木々は黒い影になって、夜に溶けこんでいる。  食べているあいだ、ふたりとも静かだった。空腹のせいもあったし、こうやって向かいあっての夕食も、今はめずらしいことでもないから、というのもある。  それでもどこか、そわそわした雰囲気、あるいは緊張があった。少なくとも一有はそれを感じていた。期待――というわけでもないが、でも―― 「キョウ、風呂入ってこいよ」  一有は空の皿を重ねながらいった。叶が廊下へ消えると、さっとあたりを片づけて用を足す。服を脱ぎ捨て、浴室の扉をあけると、叶がぎょっとした顔でふりかえった。 「イチウ?」 「そんなに驚くなよ。背中、流してやる」    浴室は大人が三人か四人入れそうなほど広く、弾力のある床材は裸足でも冷たく感じなかった。ふたつのカランのあいだの壁に大きな鏡がひとつ。一有は叶の手からボディタオルを奪い、泡立てはじめた。鏡の中から叶がみている。 「たまにはいいだろう?」  ニヤッと笑ってそういうと、叶の口もとも緩んだ。 「ああ。いいな」  一有は座っている叶の背後で膝をつき、泡立てたタオルで背中をこする。ついでに首と肩をもんでやると、叶は気持ちよさそうに小さくうめいた。シャワーを流しながら腰から尻にかけて洗ってやり、背中に自分の胸をぴったりつける。肩にあごをのせて前をみると、叶の股間はとっくに膨らんでいる。思わずごくっと唾を飲みこむ。 「キョウ、立てよ」  叶がさっと首をめぐらした。眸の中にあふれんばかりの欲情がみえ、一有自身もさらに煽りたてられる。同時に立ち上がって、叶の背を壁におしつけながらキスをした。  唇をあわせたまま片手で股間をさぐり、自分のものと叶のものをこすりあわせる。敏感になった乳首の先が叶の肌に触れて、尻の奥が期待で疼いた。 「……ぁ」  キスのあいまに吐息を漏らしたとたん、今度は叶の舌と手が攻勢を仕掛けてくる。尻のあいだを指が割り、穴の周囲をそっとなぞる。シャワーを浴びた時に準備はしたものの、この半年で、叶の指は一有自身より、一有の体をよく知るようになっている。体じゅうが期待で熱くなり、吐き出すところを求めて騒ぎはじめる。 「キョウ、まだ」  だめだ、と首をふって、一有は叶の手をふりはらう。意外そうに見開いた目にニヤリと笑ってみせて、叶の足元に膝をついた。  目の前にそそり立つものを片手でそっとつかみ、上目遣いで叶をみつめる――叶の眸も欲情で暗くかすんでいるが、自分はもっと濡れているかもしれない。ずっと水音が聞こえているのは、シャワーが流しっぱなしのせいだ。床についた一有の膝を温かい湯が濡らしていく。  一有は叶の先端、割れた部分にそっとキスをして、丸く開いた口に含んだ。叶自身の匂いとボディシャンプーの残り香がまざりあい、鼻の奥を抜けていく。先走りの塩辛い味を感じながら、しっかり唇で男根を咥え、舌できゅっと吸い上げると、上から叶の荒い息遣いが聞こえた。しだいに腰が大きく揺れて、自分の唾液にまみれた叶自身が喉の奥を突く。苦しいのに嬉しいのはどういうわけだ、と思ったとき、精の味と匂いがあふれた。  また上目遣いでみあげると、叶は浴室の壁にもたれたまま息をついている。一有はひざまずいたまま口の中のものを飲み下す。精液を美味いと思ったことは一度もないが、叶のこれは好きだ。  好きというのは、厄介なものだ。  湯気の中で叶がじっと自分をみつめている。いきなり両肩をつかまれ、引き上げられた。またキスだ。口に残る精液の味は叶の舌がからまってくると、たちまち叶自身の匂いにまぎれてしまう。濡れた指が乳首をはじき、一有はビクッと肩をふるわせる。今は叶の手が一有自身をそっと握っている。ゆるやかにしごかれて、イきそうな瞬間に止められる。 「あっ、キョウ……」 「まだだ。お湯に入ろう」  なんだと。そう思ったものの、湯船はまた別の誘惑だった。フェラチオのあいだ床に押しつけられていた膝と脛が、湯に入ったとたん解放される。  叶は余裕の表情で一有を膝に抱えこんだ。一有の尻の下で、叶の股間がむくりとふくれる。 「キョウ……」 「ん?」  復活するのが早すぎる。高校生じゃないんだぞ――と思ったが、口にするのも癪だ。 「なんでもない」  首を小さくふると、叶の唇が逃さないぞというように一有のうなじを這い、耳朶をなぞった。乳首をはじかれて、奥が期待にじくりと疼いた。 「……ああ、キョウ、」 「イチウ?」 「おまえ、俺で遊んでるだろ」 「まさか。ベッドがいいか?」  余裕かますなといいたかったが、一有はうなずくだけにする。叶がふっと嬉しそうに笑い、膝から一有を解放した。音を立てて湯船を出て、脱衣所で競争のようにタオルを奪い、ふたりでもつれるように廊下を歩いて、ベッドルームへ。  シーツに腰をおろしたとたん、叶が上にのしかかってくる。ローションの蓋をあける音がした。叶の手のひらと指のあいだからぽたぽた垂れて、一有の太腿に落ちる。  そういえば昔「オメガは濡れるんだぜ」といったベータがいたっけ――そんなことを思ったのも一瞬にすぎなかった。叶が上に覆いかぶさり、中に指が入ってくる。浴室で焦らされていた体は、とっくにそれだけじゃ物足りないと疼いているのに、これはわざとか。律儀なだけか。 「キョウ……もういいから、早く……」  一有は叶を正面からみつめ、肩を揺らし、まばたきする。叶の黒い目の奥で欲望が揺れ、こっちへ向かってくる気がした。広げた足のあいだに叶が入ってくる。試すように何度か動いてから、ずいっと奥へ突き入れられる。 「あっ、ん、あっ――」  焦らされすぎたせいか、今日はいつもよりも声をおさえられない。敏感な場所を叶が行き来するたびに小さな快楽の閃光が起きて、一有の口からは甘ったるく鼻にかかった声がもれる。さらに奥を突かれると、浮き上がるような快感の波に持ち上げられた。激しく揺さぶられながらそのまま高く留まって、ついに叶が自分の中で爆発したのを感じる。  なだらかな快楽の波がしずまっていき、一有はいつのまにか閉じていた目をひらく。叶が一有の上で荒い息をついている。  あたりは静かで、何の物音もしない。今は世界に俺とおまえしかいないみたいだ。ふとそんなことを思った。 「キョウ」 「ん……」 「俺より先に死ぬなよ」  叶は驚いたように目を見開いたが、それも一瞬のことだった。 「ああ」 「俺は保証しろとはいわないけどな」  叶の口もとがゆるんで、ふふっと笑った。顔が近づいてきたので、そのままキスをする。また長いキスになる。

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