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第6章 郭公の夢路 4.無意識の包囲
このタイミングでこの話を持ち出したのは、少々意地が悪かったかもしれない――と一有が思ったのは、それから何日か過ぎたあとのことだった。正直にいえばその時は、顔をあげたきり、固まってしまった叶の表情がかなり愉快だった。
不意打ちだったのはまちがいなく、蔵みたいなコテージで箱に囲まれてふたりきりでいるのだから、聞こえなかったふりもできるわけがない。
とはいえ、いくらなんでも唐突すぎたか。叶が黙ったままなので、一有は補足することにした。
「先月ここに来た時だよ。俺みたいなベータがおまえの横にいると周りがあれこれいってくる――って話してたら、おまえいったじゃないか。結婚すればそんなことにならないって。あの時はてっきり、おまえが別の誰かと結婚するって話だと」
「――それについてはもう」
叶が途中で口を挟もうとした。一有は思わず手をあげて、叶の腕をつかんだ。
「おい待て、最後まで喋らせろって。あのな、キョウ。俺が勘違いしてるだけなのかもしれないけど、あの時おまえ、俺と結婚すれば――って、いいたかったんじゃないのか? どうなんだよ」
叶は無言で腕をあげ、一有の手は自然に外れた。黒い目が一有からすっとそれる。
「キョウ、あのな…おまえとは長いつきあいだし、それに今はほんとにつきあってるわけだが……俺の勘違いだったら恥ずかしいだろうが。何かいえって」
「それは……勘違いじゃない」
「だったら」
バタッと音がして、一有は図らずもビクッとした。叶が音を立てて箱の蓋を閉めたのだ。
「今日はここまでにしよう。続きは明日だ」
「は? なんで急に――っていうか、今の話ここで終わるつもりか?」
「……こんなところでする話じゃない」
「でも俺が今聞かなかったら、おまえはずっと黙ってたかもしれないだろ? あの時は俺もよけいなこといった気がするし、おまえが九州行ってるあいだずっと気になって――」
「あの時はうっかりしてたんだ」
叶は一有から顔をそむけていった。板のあいだに声が響くと、狭い空間がますます狭く感じられた。
「気にしなくていい。俺は二度と――その気がないのに追いこむとか、そんなことはしないと決めている」
そのまま出て行こうとするかのように背を向けたので、一有はまた手を伸ばした。
「何だよそれ。その気がないのに追いこむって?」
叶はしぶしぶといった様子でふりむいたが、視線は一有の背後を泳いでいる。
「昔リコに指摘されたんだ。イチウがやりたいことは他にあるのに、俺が……自分のいいようにイチウを仕向けていると」
「リコさんなら、昔俺にもその話をしたぞ。たしかにおまえにはそういうところもあるかもしれないが――」
「そうだ。リコのいったことは当たっていた。だから――」
急にイラっとしたのは、叶の口から何度も里琴の名前が出たせいか。一有はずいっと叶につめよった。鼻がぶつかりそうなくらい顔を近づけていった。
「あのなキョウ、俺はおまえがそんな風に自己完結するのが気に入らないんだよ。俺とおまえのことだろうが! ――ったく、おまえの仕事は他人にべらべら喋ることで、それなら大得意のくせに、俺には出し惜しみするんだからな!」
今度こそ叶は一有を正面からみつめ、硬直したように固まった。一有は一有で、またよけいなことをいったかも、と焦った。
どうも俺はキョウに対して制御がきかない傾向がある。どっちもどっちだ。どうフォローしようか。
「……すまん。イチウ」
叶がぽつんといった。
「俺は……後悔してるんだ。今も」
後悔?
それは予想外の言葉だった。一有はぽかんとした。
「待て、キョウ。何の話だ?」
「リコが来た……あの日だ。おまえをレイプしたこと。だから――」
今度固まったのは一有の方だった。
といっても、それにたいした意味はなかった。なぜならあの日のことは一有の中で、ずいぶん遠い記憶になってしまっていたからだ。
「……それで変に遠慮してるのか? でもあれは……もうすんだことだ。俺はほとんど忘れてたし……だいたいあのあと、おまえは俺に土下座してたし、俺が今もあれを引きずってたら、こんなふうにおまえとつきあうわけないだろ」
「俺は忘れていない」
「だめだ。忘れろ」
「そんなことできるか。それに……イチウは泣いてた」
「は?」
困惑が一瞬で消えて、羞恥に顔が熱くなった。次の瞬間、一有は怒鳴っていた。
「……泣いちゃ悪いかよ! あのころ俺は――無理やりなんかされなくても、ずっとおまえが好きだったんだからな!」
――待て、何いってんだ俺!
ますます羞恥にかられて、一有は叶の視線から顔をそむけた。後ずさろうとしたら、ズボンの裾がビリッと鳴った。足もとの木箱から飛び出している釘をひっかけたらしい。
なんだよまったく。
「……すまん」
「おまえはもう謝るな、キョウ。リコさんの話とかどうでもいい。俺は単に、結婚なんてものに自分が関わるなんて思っていなかっただけなんだ。俺はベータだし、男にしか興味がないし、親兄弟もいない――俺は誰かと家族になる証明なんか必要じゃない。でもおまえはちがうと思っていたから――ああもう、おまえの事情なんか知るか!」
言葉を続けられなくなって一有は黙りこみ、叶の足元をみつめた。沈黙にとってかわるように、外でさえずる鳥の声が響いてくる。
「イチウ」
叶が低い声でいった。
「俺が望んでいるのは……保証のようなものだと思う」
一有は顔をあげた。
「保証? なんの」
「おまえがずっと……そばにいてくれるという保証。俺が死ぬときも」
はあ?
一有はすこし呆れ、その反動で笑いそうになった。
――おいおい、それ、重すぎだろ?
同時に頭をよぎったのは両親のことだった。子供だった自分をおいて、そろって海のどこかに消えてしまった両親。海の底に沈んだお宝を求めて、自分たちもその一部になってしまった。
外で鳥が鳴いている。叶の目の奥が揺れていた。まったく、らしくない、と一有は思った。どうしてこんな顔をしているんだ。冷静にてきぱきと仕事を片づけるアルファ様はどこへ行った。
「……キョウ、おまえ馬鹿だな」
「イチウ」
「そんな保証、ただの人間にできるわけないだろうが。先に死んだらどうするんだ。俺の親みたいに」
「……ああ」叶の眸が影を帯びた。
「そうだった……す」
「謝るなっていったろ? キョウ、俺は神様じゃないんだ。そんな保証はできない。せいぜい、俺が生きてるあいだだけだ」
「イチウ」
「それでいいならさっさと俺にプロポーズしろって。受けて立つから」
おっと、日本語をまちがえた気がする。しかし一有が訂正する前に叶の喉がごくっと動いた。アルファの腕にひきよせられて、一有は肩に顔を押しつける。
骨を通じて叶の声が響いた。
「いいのか。イチウ――俺と結婚……してくれるか」
「まあ、先月ならすぐ断ってたな」
「イチウ⁈」
「冗談だ。いいよ」
顔をあげると叶の目がすぐそばにあった。ロックオン。
どうせここからは逃げられない。それにきっと――逃げるつもりもない。
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