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第19話
「あ、そうだ」
なんだかまったりとコーヒーをいただいて、これからどうしたものかと考えてまずちゃんとした自己紹介をしていないことに気が付いた。
バーの中でだけだったら『ミケ』の名前でいいけれど、こうやって店以外の場所で会うのならそういうわけにはいかない。何日かはわからないけれどお世話になるんだし。
「これ表用の名刺です」
とりあえず家から出ようと必要最低限の荷物だけ持って出てきたから、カバンは大きくない。その中を漁って、普段あまり使わない名刺入れから出したシンプルな名刺を取り出す。
書いてあるのはバーテンダーということと、名前にメールアドレスくらいのものだけど、それなりの個人情報だ。そこに、電話番号も書き入れてから改めて両手で差し出した。
「たぶち、ゆう……」
それを見て、ムラサキさんが呟くように読み上げる。それから少し戸惑ったように顔を上げた。
「……いいのか、本名」
「しばらくお世話になるんで。あ、ムラサキさんのことは詮索しないから安心して。周りにペンネーム隠してるなら違う呼び方しますけど」
こうやって家に連れてきてもらってプライベートを見せてもらったんだから、こちらもなにもかも隠したままとはいかない。
だけど本人が話したくないことは詮索無用というのはこの界隈では暗黙のルールだ。
いろんな人間がいて、いろんな事情がある人が多いところだから、必要がなければ深く突っ込んだりはしない。
「……そのまんまでいい」
外で呼ばれることと本名を知られるリスクを天秤にでもかけたのか、ムラサキさんはしばし考えこんだ末に唸るようにそう答えた。本人が困らないのならそれでいい。
「じゃあムラサキさん。俺のことは呼び捨てでいいから」
「……夕」
前髪の向こうの瞳と目が合った気がした瞬間、ことさら低い声で囁くように名前を呼ばれ、心臓が変なリズムで鳴った。
「あ、うん」
呼び捨てでいいとは言ったけど、いきなりなんのためらいもなく下の名前で呼ぶと思わなくて驚いてしまった。
特にムラサキさんには「アンタ」としか呼ばれていなかったから、いきなり距離が縮まった感じがして少々うろたえてしまう。
「そっちも、変な敬語いらないから」
「あ、うん、じゃあそうする」
答えて、なぜか焦るように甘いコーヒーを一口飲み込んでむせそうになった。
店の中ではあまり気を遣って喋り方を変えているわけではないけれど、ムラサキさんは年も素性がよくわからなかったから中途半端な敬語になっていたことは否めない。
俺より少し年上の三十代くらいだと思っていたけれど、明るいところで肌を見る限りだいぶ若い気がする。まあ、逆に四十代だと言われても驚いた後に納得してしまうかもしれないけれど。
「とりあえず俺は気遣わないから、そっちも適当にやって」
「あ、うん、どうも。あ、一応言っとくけど、男連れ込んだりしないし、ムラサキさんを襲ったりもしないから安心して」
「夕に俺が? 襲われる?」
うわ、鼻で笑われた。
言う必要はないかもしれないけれど、店でのからかい方から誤解しているかもしれないと思って冗談っぽく口にしたそれに、ムラサキさんは口の端を上げて嫌味な笑いを見せる。
完全にバカにされている。
「俺だって男なんですけど」
「知ってる。そんなでかい女いねーよ。でも細すぎて迫力がない。危機感覚える方がバカバカしい」
むっとして言い返す俺に、勢いよく三倍以上の言葉が投げ返された。気を遣わないとは言ったけれど、ここまでまっすぐに失礼なことを言われると当然気分は悪い。
確かに体重は身長に見合っていないし、タケさんのように筋肉隆々でもない。とはいえ、ムラサキさんより上背はあるのだからそこまで舐められるいわれはない。
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