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第23話
「夕」
ぶっきらぼうに名前を呼ぶ低い声。
眠りの隙間に入り込んで、中から揺さぶるような痺れる響き。
「ん……?」
そのおかしさに気づいたのは、それがあまりにも聞き慣れない響きだったからだ。
夕、って。今。
そんな風に呼ぶ誰かを夢に見ることなんてあったっけと重い瞼を開けると、すぐに誰かの瞳にぶつかった。
「飯食う? それとももうちょっと寝てる?」
ほんの少し上半身を起こしたら激突しそうな至近距離で俺の顔を覗き込んでいたのは、ムラサキさん。
相変わらず重く厚そうな前髪の向こうから、さっきの瞳をまっすぐ向けられて、数秒息と思考が止まった。
「あ、く、食う」
そうだった。昨日はムラサキさんの家に泊まったんだった。
辛うじて返した俺に、「あっそう」と応えたムラサキさんはさっさとキッチンへ向かった。見ればキッチンにはすでになにかが用意されている。どうやらそこから呼びかけていたけれど俺が起きないから直接起こしに来たらしい。
……びっくりした。
キスされるかと思ったけど、ちゃんと起きた頭で考えればそんなはずはない。手を出されるのなら昨日の段階でそうなっているし、俺がこうやって起こされるまで寝ていたということは、夜中にそんな気になってもいないということだし。
とりあえず起き上がり大きく伸びをする。射し込む日の眩しい角度からいって、まだ朝と呼べる時間のようだ。
いつもはまだまだ寝ている時間でも、昨日だいぶ早めに寝たせいか眠気はそれほど残っていない。
むしろ人の家でこれだけぐっすり眠れたことが驚きだ。危機感がなかったからだろうか。
「呼び方、マズったかな……」
昨日は半ば勢いで本名を教えてそれで呼んでくれなんて言ったけれど、正直ムラサキさんは呼ばないだろうと思っていたんだ。ずっと「アンタ」と呼ばれていたし、名前を教えたところで呼ぶとは思わなかったんだけどまさかこうもナチュラルに呼ばれるとは。
夕、なんて名前で呼ばれて起こされたら、まるで特別な関係のようじゃないか。寝起きの一瞬とはいえ、そんな気になったのが恥ずかしい。
ひとまず布団を畳んで勝手に押し入れに入れ、それからキッチンに顔を出すと風呂場を指さされた。
「顔洗うならそっち。タオルはその辺の使って」
指示に従い大人しく顔を洗いながら、キッチンに立つムラサキさんのことを考える。
そういえばさっき、すごく整った顔が見えた気がする。寝ぼけていたせいで自信はないし今はいつも通り隠れてしまっているから確証はないけれど、すごくはっきりした二重のアーモンドアイだった気がする。
元から見えている鼻や口はいい形をしているし、もしかしてムラサキさんって、意外とかっこよかったりするんだろうか。勧めたら髪とか服とか整えてくれないかな。
一度不意打ちで前髪を掻き上げてみようかと企みながら置いておいてくれたタオルで顔を拭きつつ戻れば、またムラサキさんがそこに待っていて。
「どっちか好きな方」
カップスープをそれぞれ両手に持って突き出されて、なんだかじっとその姿を見つめてしまった。
「……なにぼーっとしてんの」
「いや、ちょっと気恥ずかしかっただけ」
「今さらなにが恥ずかしいって?」
ムラサキさんからしたら、俺がいつも違う男と朝を迎えるなんて慣れてることだと思うのだろう。だけどそうじゃない。
寝てない男とこうやって朝を迎えることなんて滅多にないから、この日常の朝の雰囲気がくすぐったいんだ。だって一つ屋根の下にいた男が、隣で裸でベッドに寝てないなんて、いつぶりだろう。……下手したら高校生くらいまで遡らなければいけないかもしれない。
さっさと帰る身支度をしない朝は、俺にとってとても珍しいものなんだ。普通の朝だからこそ、妙な恥ずかしさがある。
そんなことをいちいち説明しても仕方がないから、「なんでもない」とだけ答えコーンスープを選んだ。
そのタイミングで「チン!」とレンジが鳴る。
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