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第35話
周りに挨拶をしつつ歩きながら、今もたらされた気の滅入る話にひそかにため息をつく。
まいったな。やっぱりあの男が探していたのか。
しかもそんな執念で俺の家に辿り着いたというのなら、やっぱりまだ近くをうろついているんだろうか。
ムラサキさんもレンも大げさだと思っていたけれど、どうやらそちらの方が正しかったようだ。
まったく、とんだ男を引っかけてしまった。
「でもまあ、そのうち諦めてくれるでしょ」
店に来たという連絡もないし、後を付けられている感じもしないし、反応がないということはこちらまでは追えていないんだろう。だったらしばらく相手にしなかったら諦めてくれるんじゃないだろうかと希望的観測を含めて思う。
そんな過去のことより先の楽しいことを考えて仕事をしようじゃないか。
もしかしたら新しい出会いもあったりするかもしれないし、気合入れてまずは今日の職場であるデッキに向かう。
今はまだ風が気持ちいいくらいだけど、船が動き出して日が落ちたら少し寒くなるかもしれない。
けれど、きっと明かりが点き始める頃にはそれも気になるないくらいロマンティックな光景が展開されることだろう。海沿いのレストランとはまた違う景色は、否が応でも気持ちが盛り上がってしまいそうだ。
最近家に閉じこもっていることが多いせいで余計解放感を覚える。
仕事が始まってしまえばそんなのを楽しむ余裕もなくなるだろうから、先に深呼吸でおいしい空気を吸い込んでからさあ用意しましょうと振り返り。
「田淵?」
その声で全身に電撃みたいな衝撃が駆け抜けた。
用意をする人の声や音も波の音も町のざわめきも、すべてが一斉に音量を下げたかのようにその声だけがまっすぐ俺に届く。
十年近く聞いていないはずなのに、どうしてだろう、一瞬で誰だかわかってしまった。
「やっぱり! 名前がそうだからもしかたしたらと思ったんだ」
近づいてくるその姿をただ見つめることしかできない俺の前で、その人は変わらない人好きのする笑顔を浮かべる。
その顔に引きずられるように、カラカラに乾ききった喉から声を絞り出す。
「あ、あわしませんぱい……」
「お、正解。忘れられたかと思った」
髪は真っ黒だけど毛先を遊ばせるようなパーマがかかっていて、スーツも着こなしている姿は記憶よりもだいぶ大人になっている。だけど笑うと子供っぽいその顔はあまり変わっていない。
粟島久遠 。
高校の時の一年先輩で、男にも女にも好かれるわかりやすい人気者。いつも輪の中心にいて、そのくせその場から気軽に隣に呼んでくれるから、選ばれた気がして勘違いをしてしまう。
この人に抱かれたいと思ったことで、俺は自分の性癖を知った。
何度も妄想の中で抱かれて、あまつさえそれが実現するんじゃないかとバカな夢を見た。そんなバカな俺を、ちゃんと現実を見せてくれて目覚めさせてくれたのもこの人だ。
「久しぶり。元気してたか?」
にこりと男らしく爽やかに笑う先輩に反射的に頷き、それからそうでもないかと首を傾げる。特に最近は、健康だけど元気かどうかは微妙かもしれない。
「あ、あの、なんで先輩がここに?」
「このパーティーが俺のいる会社の企画で、一応担当なんで」
なんでの意味が少し違う。
いや、合ってはいるけれど、俺が言いたいのは「なんでよりにもよってこんなところで先輩と出会うんだ」だ。
運命の神様がこれを仕組んだのなら大層性格が悪いし、きっと今頃俺の混乱ぶりを見て大笑いしていることだろう。
それぐらい困惑している。
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