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第41話

「ムラサキさん、もしかして機嫌悪い?」 「……信じらんねぇ」  すると返ってきたのは唸るような低い声。  吐き捨てたみたいな言い方に聞き返すより早く、ムラサキさんは俺を振り返り呆れ切った顔で睨みつけてきた。 「ストーカーから逃げてるって時に、また見知らぬ男捕まえて寝ようとしてるとか、どんだけ欲求不満なんだよ」 「いやムラサキさん、俺がどういう人間か知ってて……ていうか結局行ってないから! 潔白!」  ストーカーと言ったって今のところは隠し撮り写真をポストに入れられただけだし、男と寝るのはそれとは別の話だ。一夜限りの男を渡り歩いているのが俺だって、常連のムラサキさんなら十分知っているだろう。実際それで毎回いじられているんだから。  いくらその一夜限りでミスった男から逃げているとしても、性欲がなくなるわけじゃなし、合意の上で発散させるくらいいいじゃないか。  それに今回に限っては潔白なんだから怒られても困る。  でもボディガードのつもりでいてくれるらしいムラサキさんは、今の状態を真剣に考えていない俺に腹を立てているらしい。  あんなエロいマンガ描いてるくせに意外と潔癖なのか。  ジャケットを脱ぎベッドへと投げ捨てる仕草の乱暴さに、心配して損したという思いが溢れていて、距離を取ってこちらはラグの上に座る。  俺というのはこういう人間で、それをわかっていたはずなのに、今さらこんなことでそこまで気を悪くすることはないじゃないか。  俺だって本当は、今日色々あったことを一旦忘れてなにも考えずに楽しもうと思ったのを、ムラサキさんが帰るというから諦めたのに。 「見知らぬ男なら、ムラサキさんもじゃん」  藤沢さんが見知らぬ男なら、ムラサキさんだってそう変わらない。  常連だとはいえ、他のお客さんと違ってパーソナルな情報はほとんど知らないし、マンガ家というのだってこの前初めて知った。本当の名前も年も、本当はどんな人かもなにも知れない。  知り合い、というにも微妙なレベルで、本来ならこんな風に家に泊まっていることさえおかしいんだ。  それは事実ではあったけれど、そんな俺の呟きが気に食わなかったのかもしれない。 「じゃあ」  言った声が硬く尖っていて、近づいてきた足音が大きかったから、そのまま胸ぐらを掴まれて怒鳴られるのかと思った。  けれど予想とは違い、衝撃を感じたのは胸ぐらではなく、背中。 「俺が相手でもいいわけだ」 「え」  天井が見えた。背中に柔らかなラグの感触。  その光景をムラサキさんの顔が遮る。  あまりに予想外すぎる展開に頭が働かず、押し倒されたんだと気づいたときにはしっかりと両手を押さえつけられた後だった。 「ちょ、ちょっと待って、え」 「欲求不満が解消できれば誰だっていいんだろ」  イラついた声ときつい睨み。今は厚い前髪がない分、直にその視線が届いて体が固まってしまう。  なんだっけ。見たら石になってしまうモンスターは。いや、今はそんなの関係なくて。  もしかしてムラサキさん、酔っているのだろうか?  すっかりと油断していた俺は必死にこうなった理由を探すけれど、これと言ってきっかけが思い当たらない。だってムラサキさんもそれなりには飲んでいたけれど、前後不覚になるほどには酔っていないはずだ。  でも、じゃあこれは一体どういう事態なんだ。 「ま、待って、だってムラサキさん」  ノンケじゃ、という言葉を飲み込まされるように深いキスで口を塞がれた。  口が開いていたせいでなんの抵抗もなく滑り込んできた熱い舌がすぐに俺の舌に絡まり、 煽るようになぶられる。  指フェラした時も思ったけれど、冗談じゃなくキスがめちゃくちゃうまい。  普段は切ってやりたいくらいの前髪で顔を隠し、猫背でずっとパソコンに向かい合っている人なのに。  フォーマルな格好を乱した姿の上、強引な仕草で俺を押さえつけている様も、唇を離して俺を見下ろす顔も、別人のように男らしく色っぽい。  なにこの獣っぽいギャップ……! 卑怯じゃないか!

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