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第53話

「……あ? なんだよ」  思ったよりも深く寝入っていたのか、近くで聞こえた先輩の声に意識が浮上する。俺じゃない誰かと喋っている。でも相手の声は聞こえない。誰かがいる気配もない。  喋っている相手は、電話? 「おー、田淵なら俺の腕の中で寝てる」  笑い混じりのそんなセリフに、一瞬にして目が覚める。  見なくても聞かなくてもわかる。相手はムラサキさんだ。 「え、わ、わあ! すいません、先輩! 先輩の寝息聞いてたら気持ちよさそうでついうとうとっと」  改めて先輩の腕に抱かれて寝ていた事実を認識して汗が出てきた。起きたと思ってもやっぱりさっきは寝ぼけていたのだろう。なんでこのままの体勢でもうひと眠りしてしまったんだ。  先輩が言葉にすると、状況的には事実ではあってもまるで違うことのように聞こえるからまずいと焦る俺を見ながら、先輩はニヤニヤと電話の向こうに声を投げる。  その笑みはやけに俺をからかうときのムラサキさんと似ている。こんなところで兄弟っぽさを出さなくてもいいだろうに。 「そういうことだから、察して。紫苑もそんなおこちゃまじゃないだろ?」 「先輩! ち、違う! 違うから!」  まるで、じゃない。わざとそう聞こえるように言っているんだ。  とんでもない冗談を言う先輩に悲鳴じみた声を上げてしまい、後半はムラサキさんへと否定の言葉を叫ぶ。  声はクールに煽る調子でも顔はニヤニヤしていて先輩がふざけているのはわかるけど、俺に関することでそのタイプの嘘は困る。  ムラサキさんにとって、いや紫苑くんにとって粟島先輩はお兄さんなんだ。  俺がどういう人間か知っているムラサキさんにしたら、その冗談は冗談に聞こえないかもしれない。誤解されたら先輩がまずい。 「本当になんでもないから!」  とはいえ先輩を挟んでの会話だと滅多なことは言えないから、否定するにも歯切れが悪い。むしろこの焦りようが嘘くさく聞こえてしまうんじゃないだろうか。 「つーかお前なんで田淵のこと名前で呼んでんの? これ俺のだよ?」 「せ、先輩!」 「いいから安心して俺に任せろって。お前はお役目ご苦労さんってことで。じゃあな、切るぞ。昨日田淵と一緒に楽しいことしてて寝るの遅かったから眠いんだよ」  どうやら俺を巻き込むように人をからかう癖は兄弟揃ってのものらしく、先輩は山ほどムラサキさんを煽って電話を切ってしまった。  それから満足げにスマホを投げ捨て伸びをする。 「んー、最高に怠惰な朝だ。休みはこうでなくちゃ」 「俺は最高にスリリングな朝の始まりを迎えたんですけど」 「田淵は意外と体温高いな。抱き枕にちょうどよかった」 「さては聞く気ないですね?」  体温が高いのはたぶん今動悸がものすごいことになっているせいじゃないかと思う。  ムラサキさん、変な誤解をしていないだろうか。俺が先輩に手を出したと思われていたらどうしよう。  ともかくこの体勢をなんとかしてくださいともがくと、先輩はあっさりと俺を解放して起き上がりもう一度伸びをした。 「あーあ、俺も夕って呼ぼうかな」 「いやその呼び方には色々事情がありまして、居候する際に距離を縮めようと考えた苦肉の策でして」  俺をからかうのがよっぽど楽しいらしく、寝癖をつけたままにこにこととんでもないことを言うから、こちらも起き上がって正座をしつつ返す。  そもそも俺だって本当に呼ばれると思って提案していなかったんだ。ずっとアンタ呼びだったムラサキさんが、まさかあんなにあっさりと名前を呼ぶとは思わないじゃないか。

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