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第57話
……気まずい。
あの後、先輩の家の最寄り駅で降ろしてもらい、一人で帰るのは危ないからとムラサキさんに家まで送ってもらうことになった。
改めてストーカーの気配を感じて気分が塞ぐ俺を気遣ってくれたのか、ムラサキさんは先輩が帰ってくるまでと一緒にいてくれることになったんだけど、それはそれで気まずい時間が流れている。
思えばこうやって二人きりになるのはあの夜以来。
ついでに言うと先輩にキスマークを指摘された場所に、それをつけた本人が座っているのだから気まずいにもほどがある。
とりあえず間を持たせるためにコーヒーなんか淹れてみたけれど、その香りで沈黙が埋められるほど俺の精神は老成しちゃいない。
話題。
俺とムラサキさんの間で話さなくちゃいけなくて、微妙な空気にならない話題。
「えっと、そういえばごめんね、先輩の弟さんだって全然気づかなくて。ていうか俺のこと粟島先輩からなんか説明されたかな? 先輩には、高校の時に仲良くというか優しくしてもらってたんだけど」
あの夜、粟島先輩とムラサキさんが兄弟だと聞いて、驚いて飛び出したせいでこの件については詳しく触れていない。
ムラサキさんは先輩に俺の説明を多少したようだけど、こちらの方はまだだ。
「えっと、紫苑くん、って呼んだ方がいい?」
先輩の前でそう呼んでいたのは、マンガ家としてのペンネームの話を先輩が知っているかどうかわからなかったから。
それなりに泊まりには行っているようだけどムラサキさん本人が描いたマンガは隠してあったし、もしかしたら教えていないのかもしれない。だったら俺が言ってしまったことで不都合が生じるかもしれないから、普段からちゃんと名前で呼ぶようにした方がいいのかも。
「うーん、でも店ではやっぱりムラサキさんの方がいいか」
それでも店ではあくまで「粟島紫苑」ではなく「ムラサキ」なわけで、本名で呼ぶのもどうかと思う。
そもそも年齢不詳だからさん付けしていたけれど、先輩の三歳下の弟さんと聞いたからにはその呼び名も少しむずがゆい。
「あ、じゃあ間を取ってムラサキくんっていうのはどうかな?」
「……好きにしたら」
間というか、年齢に合わせたあだ名というか。
微妙な変更になんの意見もないらしく、ムラサキさん改めムラサキくんは短く息を吐き出してコーヒーを手に取った。
「兄貴からは特になにも聞いてない。夕って呼んだのはめちゃくちゃ突っかかられたし、いつ頃会ったのかとかどういう風に会ったのか聞かれたけど適当に誤魔化しておいた」
「なにからなにまですみません……」
本当に、あれこれに巻き込んで申し訳なさすぎる。
でも俺からだとなにを言うべきか隠すべきかでまた困っていただろうから、ムラサキくんがうまいこと言ってくれて助かった。頼りになる人だな、本当に。
こんなに頼りにしているのに覚えてなくて、本当に申し訳がない。
「あ、あと、すみませんついでにこれ持っておいてくれない?」
「……鍵?」
「合鍵。さっき取ってきた」
そんな頼りになる人に、本当はいいものがプレゼントできれば良かったんだけど。残念ながら潜伏中の身としては早々好き勝手ショッピングはできない。
というか、むしろこれは迷惑の類になるかもしれない。でも、まあノリというか、思い付きというか。
色々と詰め込んできたバッグから取り出した合鍵をムラサキくんの手に乗せ、お願いしますと握らせる。
「なんとなく家に置いておくの恐くて。あと、念のために」
家に入られた形跡はないけれど、もし入られて持っていかれたら嫌だし、今後なにかを頼むかもしれないし、というのは表向きの理由。
本当は、ただなんとなく持っておいてもらいたかっただけだ。
家に泊めてもらって、面倒みてもらって心配かけて、ついでに色々迷惑をかけているから、信頼の証に大事ななにかを渡したくなった。とはいえ貯金通帳とかハンコというわけにもいかないから、誰にも渡したことのない合鍵にした。
もちろんこんなの俺の気分の問題で、ムラサキくんには渡されても困るものだろう。
それでも頷いてしまってくれたムラサキくんはやっぱりいい人で、ありがとうと頭を下げる。
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