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第63話

「いっ……」  たぶん、時間はそれほど経っていないはずだ。ほんの少しの間、意識が途切れたぐらい。でも、それで十分だった。十分致命的だった。  目を開けて見えたのは、薄暗い部屋の中の見慣れた天井で、自分がベッドの上にいるのだと気づく。それと同時にズキンと頭が痛んで思わず上げた声に反応があった。 「やあ、起きたね。大丈夫かい?」  優しい声。それとともに打ち付けた頭に触れられてまたズキンと痛みが走る。  その手を振り払おうとした手は、けれど思ったように動かず、少しだけ視線をずらしてみればベッドのフレームにしっかりとヒモで結び付けられているのが目に入った。  そのやり方には覚えがあったから、てっきり相手はあいつだろうとしか思わなかっただけど。 「やっと、二人きりになれたね」 「……え」  俺の顔を覗き込んでにっこり笑ったその人は、思っていた人物ではなかった。 「藤沢さ、ん……?」  予想外すぎるその顔に声が掠れる。  俺のことをなぶって楽しんだあの男ではなく、そのホテルにいたバーテンダーの藤沢さん。  優しい笑顔はバーカウンターに立っている時と同じで、だからこそなぜここにいるのか意味がわからない。 「散々僕のことを焦らして、楽しかったかい?」  笑顔のまま頬を撫でられ、その手つきに背筋がざわめく。 「焦らすって……いや、なんで藤沢さんが……」 「散々僕のこと煽っておいて、目の前で別の男と消えて、惑わせて。そうやって焦らして誘うのが君の手なんだろう? 本当は僕と寝たくてたまらないくせに」  ふふふ、と柔らかな笑い声を立てられて、一気に鳥肌が立った。  なに言ってるんだこの人。  そりゃあ最初は一夜限りの相手として寝ようと思ったし、次に会った時も、そんな偶然あるならとは思ったけど、決してわざと焦らすために他の男を選んだわけじゃない。  ……偶然、じゃないのか? あの日会ったのは偶然じゃない? それに、どうしてこの人俺の家を知っているんだ? 知っているのはあの男で、写真を送ってきたのもあの男で……違うのか? もしかして、全部違うのか? 「お遊びに付き合うのもいいけど、さすがに焦らされるのも限界だよ」  力を込めてもしっかりと結び付けられたヒモは食い込むばかりで緩んでくれない。それどころか無駄だとばかりにその腕を押さえられ、また笑い声を立てられる。 「君もそうだろう? だからちゃんとここに戻ってきた。しかもまた僕の前で他の男と電話なんかして、焦らして家の中に誘い込んで。本当にいやらしいな、僕の美しい天使は」  混乱の中囁かれたその言葉に血の気が引いた。  まるであの夜この男に髪を触られたことを思い出させるようにズキンと頭が痛む。  髪の毛。最初の手紙に入っていた髪はてっきり俺が切って置いてきたものだと思っていたからあの男が写真を送ってきたと思っていた。  それにその言葉を知っているのもあの男だけだと思っていた。  でも、それならなんで知っている? あの男が来た時に聞いたのか? 本当に来たのか?  身動きできない状況が焦りを加速させ、一体なにが嘘でなにが本当か、なにがどうなっているのかまったくわからない。 「じゃ、じゃあストーカーはあの男じゃなくて……」 「なんだいネタバラシしてほしいのかい?」  カラカラの喉から声を絞り出して問う俺に、藤沢さんは絵本を読むのをせがまれた親のように柔らかく笑ってみせた。  ああ、なんで気づかなかったんだろう。全部誘導だったんだ。俺が逃げなきゃいけない相手は、あの男じゃなくて。

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