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第64話

「そうだな、じゃあ教えてあげよう。君の写真を撮ったのは僕、直接家に届けたのも僕、手に残っていた髪の毛を封筒に入れたのも僕だし、手紙を書いたのも僕だ。船で会ったのは偶然じゃなく、君の家に仕事用の封筒が届いていたから知ったんだ。ギリギリでなんとか入り込めて良かった。君がバーテンダーだったのも驚いたけど、これもすべて運命かな。本当は仕事場まで追いたかったけど、意外に君の行動が素早くてね。逃げられたかと思ったから、あの仕事が会って助かった。結局またすかされたけどね。でも君の好意は確認できたから良かったよ。君が僕を好きだって、ちゃんとわかった。だから待つことにしたんだけど、何度も同じ手を使われるのはいい加減嫌になるな。嫉妬させたいんだろう? もう十分だよ」  にこにこと笑ったまま一息で喋り切った目の前の男に、俺は情けなくも恐怖で動けなくなっていた。声さえ上げられず、ただひたすら目の前で笑う男を見ているしかない。 「気持ちの悪い男に追われてると思えば、僕のところに飛び込んでくるかと思ったんだけどなぁ。頼ってくれるのをずっと待ってたのに」  シャツをめくられ、指先が体を辿る。  あの日もひどく嫌な思いをしたけれど、それよりも目の前の男がおぞましい。  今までだって嫌なセックスはしてきた。下手なのも、相性の悪さも、失敗もたくさんあったけど、こんなに恐くて吐き気がするのは初めてだ。 「まあいいや。結局はこうして僕の前に現れてくれたんだし。……うん、思っていたよりもずっと綺麗な体だ」  履いているものを脱がされるという行為で足が縛られていない意味を知り、閉じたい膝を割って入ってきた体が覆いかぶさってきたことに泣きそうになる。 「これだけ焦らされたんだから、今度は僕が、君が泣くまで焦らして天国を見せてあげるよ」  ムラサキくん、ごめん。ごめんなさい。  嫌な笑顔が見えないように目を硬く閉じ、代わりに浮かんでくる顔に何度も謝る。  ごめんなさい。俺がバカでした。  こんなことなら、先にムラサキくんとセックスしておくんだった。そうしたらそれを思い出して耐えれたのに。  ああでも、巻き込みたくなかったからこれで良かったのかもしれない。  触れられる手の気持ち悪さに散り散りになる思考をかき集め、唇を噛みしめた。別に初めてじゃないんだ。一回でも二回でも好きにすればいい。  自分が招いた結果だ。助けてなんて言えない。それにムラサキくんはきっと今頃家に……。 『夕!』 「!?」  今、ここで聞こえるはずのない声とドアを叩く音。聞きた過ぎて聞こえてしまった幻聴かと思ったけれど、その声は俺の意識をはっきりさせるには十分すぎる威力を持っていた。  ムラサキくんだ。 『夕、開けるぞ!』  かちりと鍵が開く音。それからがたんとドアが開くのを阻まれる音。  聞こえた小さな舌打ち。それから先輩の声。そしてあまり聞いたことのないバキンという破壊音とともに足音がなだれ込んできた。 「ンの野郎っ!」  そしてこちらも聞いたことのないムラサキくんの怒声と同時に俺にのしかかっていた重みが消え、ベッドの横に誰かが倒れ込む音が続く。 「夕!」  代わりに覗いた顔を見て、心の底からほっとした。やっぱりムラサキくんだ。 「悪かったな、遅くなって。今手外すから」 「ムラサキくん、手大丈夫……?」  俺なんかよりよっぽど強張った顔のムラサキくんが心配で、声をかけたら目がまんまるになってしまった。  だってムラサキくん、マンガ家なのに。大事な手を、こんな乱暴なことに使っちゃダメなのに。 「自分よりもまず人の心配するところが田淵らしいけど」  横から苦笑いの先輩の顔が覗いて、するすると拘束するヒモを解いてくれる。その上でさり気なく掛け布団をかけてくれるところもスマートで、こんなときなのに思わず感心してしまった。 「夕、怪我は?」 「特に……頭打ったくらい」 「兄貴、電気点けて」  少し遅れてもう片方の手を自由にしてくれたムラサキくんは、俺を抱き起すと見分するように頭にそっと触れる。  電気が点いたことによる眩しさで目をしばたかせて、同時に痛みで眉をしかめて、それからゆっくり目を開けるとずいぶんと異常な状態になっていることに気づいた。  ベッドの下に倒れている藤沢さん、もといストーカー犯はよっぽど痛恨の一撃をもらったのか綺麗に伸びている。

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