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第71話
「だから、一年前に駅で見かけた時には心臓止まるかと思った」
「よくわかったね」
「……想像して描いてたから」
たとえば先輩はあの頃のまま大人になっていたし、向こうから呼びかけてくれたからわかったけど。
年を取り、服装の好みも変わり、なによりも腰までの長さの金髪を結んで歩いていたんだ。目立ちはしてもあの頃の俺しか知らないムラサキくんが気づいたのはすごいことだと思う。
「話しかけようと思ったけどなんて言っていいかわからなくて、迷っているうちにゲイバーに入っていって、どうしようって」
「あーそれは困るねぇ。しかもレンの店入りづらいもんね。よく入れたなぁ」
ラクダのオアシスに辿り着くためには、古いビルの中狭いエレベーターに乗り、一見さんを拒むように締め切る重い扉を開けなくてはならない。
外からはどんな雰囲気かもわからないその場所に飛び込めたのはすごい度胸だ。しかも初めて入るゲイバーに。俺だって最初は怯んだ。
「夕に会いたかったから」
でもムラサキくんはそんな単純な理由でそれをやってのけた。
単純だけど強い気持ちは、俺にはキラキラと眩しくて、眩しすぎて目を逸らせたいくらい。
「夕、聞いて。最初に見た時からずっと好きです。今度こそ、ちゃんと俺のこと見てほしい」
「ムラサキくん……」
「夕は俺のことどう思ってる? 素直な気持ちが聞きたい」
他人事みたいに合いの手を入れて、どうしても茶化したくなってしまうのは、まっすぐなムラサキくんの想いをどうやって受け取っていいかわからないからだ。
そういうくすぐったい感情に向き合わないようにしてきた。真剣な思いから逃げて、遠ざけて、近づかないようにしていた。報われない気持ちを知っていたから。自分がそんなに強くない人間だと知っていたから。
……それでも逃げちゃいけないと思えるのは、ムラサキくんが自分の気持ちをちゃんと言葉にしてくれたから。
「正直に言います。俺は、傷つくのが恐い」
それは懺悔に似ていた。
誰にも言わず、見ないふりしてきた心の穴は、俺が思ったよりも大きくて、何人と体を重ねてもちっとも埋まらなかった。
当たり前だ。みんなそこを通り過ぎていっただけなんだから。
でもそれ以上に、そこに誰かを留めさせるのも恐かった。誰かを特別に思うのが恐かった。
「先輩に彼女がいたって思った時は、本当に目の前が真っ暗になって、びっくりするくらい苦しくて、このまま死んじゃうんじゃないかって思うくらいつらかった。ちゃんと告白して振られたわけでもないのに、好きになっただけでこんなにつらい思いするなら、もう二度と誰のことも特別に思わないって思った。ムラサキくんがあの時傍にいてくれなかったら、本当に立ち直れなかったと思う」
話を聞いて、励まして慰めて抱きしめて泣かせてくれたから、俺は粟島先輩のことを痛くても思い出にできた。そうじゃなかったら今みたいに話せていなかっただろう。
そして、人を好きになるのが恐くて嫌だなんて人間、誰かに好かれるわけないと思ってた。
「でも俺にはムラサキくんみたいな度胸がない。変わりたいって思うより、今が幸せなんだからそれでいいじゃんって思っちゃう。ムラサキくんとも、今の関係でいいんじゃないかって、思う。それに、簡単に寝て、大勢の中の一人にしたくない」
最初はそりゃあいけ好かない奴だとも思ったけど、それでも嫌いにはならなかったし、他の人とは違うなと思ってた。
それに恩もあるし、縁もあるし、他の人とは違う関係で、その距離感でいいんじゃないかと弱い俺は思ってしまう。
わざわざこの関係を変えることにメリットなんかあるのかって。
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