町外れの廃屋から腐臭がすると自警団に通報があったのは、リンドヴルムがこの街に来て一週間経った頃のことだった。 　いつも通りリンドヴルムに起こされて、馴染みの食堂で朝食を摂っていた。ニコニコしているリンドヴルムを見ながらのモーニングコーヒーにもすっかり慣れ、ウェイトレスのニナも常連も、もはやリンドヴルムに興味を示さない。 「なんだ。また一緒かお二人さん。まるで、もう何年も組んでる相棒みたいだな」 　そんな軽口を叩きながら食堂を覗いたベイリーを軽く睨みつける。リンドヴルムはまだまだ、相棒というには未熟すぎる。100歩譲って弟子か部下だ。 　しかし、リンドヴルムは少し嬉しそうにしていた。 「ここ一週間は平和だなぁ。竜人様のご加護かな。昨日も、なーんにも事件はなくて。町外れに住んでる婆さんが、近所から腐臭がするって言ってきたくらいだ」 　能天気に笑うベイリーは、またセスのコーヒーを勝手に飲みながら世間話でもするかのように言った。今しがた自分が話したことの重要性に、全く気付いていない顔だった。 　腐臭。 　それは、ヴァンパイアを探す痕跡の一つだ。 　食事を終えたセスは、早速リンドヴルムを連れて問題の廃屋を訪れた。 　壁は蔦で覆われていて、長年誰も手入れをしていないのが一目でわかる。陰鬱とした雰囲気のその廃屋からは、たしかに肉の腐った匂いが漏れてきていた。 「グールだな」 　セスは、懐中時計を取り出して、ヴァンパイアを示す針を確かめた。針はやはり廃屋の方を指している。 　廃屋には外側から鍵がかけられ、窓は全て板を打ち付けられて開かないようになっていた。 　それを見て、リンドヴルムは首を傾げる。癖なのか、リンドヴルムはよくこの仕草をする。実に爬虫類的ではじめは苦手だったが、見慣れれば可愛いものだ。 「まさか、中に閉じ込められているのですか？」 「ああ、よくあることだな」 「よくある……一体、誰がグールをこんな場所に閉じ込めるのです？」 「バカかテメェは。ヴァンパイアに決まってるだろ」 　マリーのような下級ヴァンパイアではないが、大した力は持たない中級ヴァンパイア。奴らは噛んだ人間が処女童貞なら下級ヴァンパイアに、非処女非童貞ならばグールにできる。 　しかし、食事をするたびにグールを生み出していては、目立って仕方がない。上手なヴァンパイアはグール化させずに食事だけできるようだが、不器用な中級ヴァンパイアはどんどんグールを増やしてしまう。 　グールを使役し騒ぎを起こしてやろうと考えるものももちろんいるが、そんなつもりのないヴァンパイアにとって、増え続けるグールの処分は悩みの種なのだ。 「へたくそ中級ヴァンパイアが、死体を放り込んで行くんだろう。ヴァンパイアに噛まれて死ぬと、死後数時間でグールとして起き上がるが、こうして狭い場所に閉じ込めてりゃグール同士共食いするからさほど増えねぇ。手に負えなくなりゃ、火をつけて燃やせばいい」 「な……なるほど、おぞましい話です」 　たしかに。中には食い散らかされた死体と、動きまわる腐乱死体がいるはず。相当おぞましい光景だろう。 「なら、火で浄化しますか？」 「いや。今晩からここで張り込みだ。ヴァンパイアが様子を見にきたところを倒すぞ」 「わかりました。しかし、ヴァンパイアは戻ってくるのでしょうか。このまま逃げることも」 「いいや、まずねぇな。グールは主人であるヴァンパイアを追いかけていく習性がある。それを放っておくのは、自分の居場所をハンターに知らせるようなもんだ」 　近所の老婆の話では、先月くらいから匂いがし始めていたらしい。最初は気のせいかと思うくらいの匂いだったそうだが、ここ数日匂いが強くなってきたそうだ。 　グールは人肉を食い続けていなければ、身体を保てずどんどん腐乱してしまう。主人が食事の機会に恵まれず死体を補充されなくなれば、グール達はどんどん腐り、餌を求めて獰猛になっていく。 「明らかに、このグールの主人は持て余してやがる。人に紛れ街に隠れ棲んでいる、目立ちたくねぇヴァンパイアにとっては、グールの始末はクソ面倒で厄介な問題だ」 「……ヴァンパイアというのは、なかなか悩みが多い怪物なのですね」 「そうだな」 　真面目な顔で頷いて、リンドヴルムは自分の手帳に今の話を書き付けた。いつも思うが、リンドヴルムにハンターとしての訓練をした教官は、一年間も何を教えていたのだろう。こんな基礎すら教えずに。 　リンドヴルムの字には少し癖があり、妙に角ばっていて少し斜めになっている。それは、彼の性格をよく表しているように思えた。 　じっと手元を見ていると、リンドヴルムはその視線に気づいて太い尻尾をゆらゆらさせる。 　だいたいわかってきたが、リンドヴルムの尻尾は苛立った時や焦った時などに左右に揺れる。怒っている時や驚いた時は、縦に揺れて地面を叩くのだ。 「あまり、見ないでください。恥ずかしいです。字が汚くて」 「そうか？テメェらしい字でいいじゃねぇか」 　からかわれたと思ったのか、手帳を閉じるとリンドヴルムはポケットにしまい込んだ。尻尾の先が、ビリビリ震えている。これはどういう感情の表れだろう。 　この一週間、リンドヴルムは毎日朝から晩までくっついてくる。それに辟易しつつも、彼の乏しい表情から何を感じているのか読み取ろうとする程度には、セス自身もリンドヴルムに対して情が湧きはじめていた。 「なら、明日から交代で張り込みですね」 「交代？バカか。まだテメェにまかせられるわけねぇだろ。張り込みは俺がする。テメェは、その手伝いだ」 　マリーの事件以来、初めてのヴァンパイアハントだ。 　一人きりで張り込みをしている時に、マリーより強い中級ヴァンパイアに襲われ、それがまた少女や少年の姿をしていたならば。リンドヴルムは殺しきれないかもしれない。 　万が一、リンドヴルムが噛まれでもしたら大変なことになる。 「たしかに、私はまだ未熟です。しかし」 「くだらねぇ問答はいらねぇ。テメェは未熟だ。なら、大人しく俺の指示に従え。以上だ」 「……わかりました」 　顔はほとんど表情が変わらなかったが、尻尾がたりゅんと力をなくし、地面に垂れ落ちている。見るからにしょんぼりとした様子だ。この正直者の尻尾は、感情に支配され勝手に動いてしまうようだ。 　それが滑稽で、ついクックッと含み笑いが溢れてしまう。 　左右にゆらゆら揺れる尻尾と、ギューッと瞼を閉じて無表情のリンドヴルムが、おかしくて仕方がなかった。 　※※※※※ 　明るいうちに、張り込みの準備をしなければならない。翌日、珍しく早起きをしたセスは、リンドヴルムが起こしに来る前に身仕度を済ませた。 　まずは、拠点となる場所が必要だ。 　例の廃屋の隣も今は空き家になっていたが、そこの持ち主に話をつけて鍵を借りた。二階の窓からは、あの廃屋の玄関が良く見える。見張りをするのには丁度よかった。 　次に、水と保存食を買い込んでおく。腹が減っていると集中力が切れてしまうからだ。 「あれだけ匂いはじめてるんだ。二、三日の間にはグールの処分のために戻って来るだろう」 　荷物持ちに連れてきたリンドヴルムには、水の入った小さな樽と堅焼きパンの入った袋を持たせていた。 　二人並んで、この街一番の大通りを歩く。 　商店が立ち並び、街の住人だけでなく旅人や商人も大勢集まる、賑やかな通りだ。 　懐中時計を見るが、特にヴァンパイアを指す針は動いていない。時を告げる針が、13時半を示しているだけだ。 　今日も実に良い天気だ。ヴァンパイアハンターが連れ立って買い出しに出かけるには、うってつけの日だろう。 　こんな晴れた日には、若い娘達はみな日傘を差していた。様々な刺繍をした黒地に繊細なレースのついた日傘が流行りで、彼女達はそれを誇らしげに掲げている。 　こういう洒落た日傘は、男が意中の女にプレゼントするものだ。こうやって彼女達は自分の男のセンスと財力を見せびらかす。 　だが、セスには日傘の群れは不気味に見えた。 　この中に、太陽の光にすら耐えられる、ヴァンパイアロードが紛れているかも知れないのだから。 「……ねぇ、あれ」 「わっ、ほんとだ！竜人様」 「竜人様がこの街に越してきたって噂、ほんとだったんだ」 　これだけ人がいても、竜人はリンドヴルムただ一人だった。周囲からも注目を集めてしまっている。 　特に若い女どもは、リンドヴルムを見てなぜか瞳を輝かせていた。 　コソコソと近づいてくる彼女達に、わざと聞かせるように舌打ちをして睨みつけると、ギョッとしたように逃げていった。 「あ、セスさん。竜人様」 　不意に声をかけられ振り返る。そこには、そばかすの浮いた頬に笑顔を浮かべたニナがいた。 　彼女も可愛らしい花の刺繍をした日傘を差していて、なにやら大きな紙袋を提げていた。 「二人でお買い物？仲良いね」 「そんなんじゃねぇ。ニナこそ、今日は店はどうした」 「今日はお休み貰ったの。ほら、来週はお祭りじゃない？」 　そういえば。すっかり忘れていた。通りで、若い娘が多いはずだ。 「お祭りがあるのですか？」 「ああ。女も男も色気付いて着飾って、お相手探しをするくだらねぇ祭りだよ」 「オアイテ、サガシ？」 「そ、そんな言い方ッ！」 　ニナは頰を膨らませているが、リンドヴルムは不思議そうに瞬膜の瞬きをしていた。 　春の訪れを祝うこの祭りを、街の住民たちはみなとても楽しみにしていた。露店で売られる祭り用の特別な料理や菓子、出し物などでおおいに盛り上がる。 　未婚の女達はお手製の可愛らしい衣装で着飾り、男達は家に伝わる祭り用の衣装を着て祭りへとくりだし、街の中央広場で輪になって踊るのだ。 　女は器量と裁縫の腕を、男は家の歴史と財力を、それぞれ相手にアピールするチャンスだ。さらに、祭りの浮かれた雰囲気は人を大胆にさせる。 　実際、祭りをきっかけに付き合いはじめるカップルは多いらしい。 「あ、そうだ！あのー竜人様！」 　思い出した、という顔で手を打つと、ニナはもじもじしながらリンドヴルムに声をかけてきた。 　そばかすのある頬を染めて、照れ臭そうにしている。 「はい、どうしました？」 「あの、もしダメでなければなんですけどぉ。ウロコを一枚くれませんか？」 「ウロコをですか」 　思わず、セスは吹き出した。ニナは顔を真っ赤にして、セスを睨んでくる。 　竜人のウロコには、不思議な力があると言われていた。大事に身につけていると運命の人に出会える、なんて言い伝えもある。実にバカらしい、根も葉もない噂話だ。 　そうか、だからさっきから若い女がリンドヴルムに注目しているのかとセスは納得する。 　祭りで素敵な出会いがありますようにと、お守りにしたいのだろう。 「その、えーっと、とってもキレイだから。ダメですか？」 「……分かりました。また、剥がれたら差し上げます」 「自然に剥がれるのって、何日に一回くらい？いつもらえるの？今週中には」 「やめとけ。あんたも、何日に一回爪を切るんだとか聞かれちゃ、気持ち悪いだろ」 「あっ……ごめんなさい、わたし」 「いいえ。気にしていませんから、お気になさらず」 　リンドヴルムが明らかに困っていたので、助け船を出す。彼女はようやく自分がぶしつけなことを聞いていることに気づいたらしい。 　あわあわしながらリンドヴルムに謝っていた。 　笑顔でニナを慰めていたリンドヴルムだが、彼女が気まずげに笑いながらその場を立ち去ると、少し肩を落として尻尾を揺らした。 「嫌なら嫌って言えよリンドヴルム」 「ああ、いえ……嫌というわけでは……首都に居た時も、よくウロコをねだられましたから」 「ふうん」 　口ではそう言うが、あまりいい気はしていないようだ。それはそうだろう。もしセスも、髪を切ったらくれなどと親しくもない女に言われたら困惑する。 「ただ、少し疲れてしまう時があります。竜人様と呼ばれたり、物珍しげにされるのが……。みなさんがヴィクトリノ大尉のように接してくださればいいのに」 　たしかに、みんなリンドヴルムが竜人だからと意識し過ぎだ。 　竜血はヴァンパイアに与えてはならない。リンドヴルムがヴァンパイアに噛まれないように、彼自身を鍛えてやらねばならないし、未熟なうちは守ってやるべきだとは思っている。 　しかし、それ以外で彼を特別視する気は無かった。ツノのある竜頭も、ウロコに覆われた皮膚も、そんなものはあのニナのそばかすと同じだ。 「俺は単に、テメェが毎日毎日朝から晩まで付きまとってきやがるから、慣れただけだ」 「それは……私は少しでも貴方と一緒にいたいのです。そして、出来るだけ多くを学びたいと……迷惑でしたか？」 　尻尾の先をビリビリ震わせて、リンドヴルムはセスから目をそらして言った。それがどんな感情の表れなのかは、まだよく分からない。 　正直言えば、毎朝起こしにくるのも四六時中一緒なのも、面倒くさいとは思っていた。 　だが、そこまで不愉快ではない。後たった三週間の間のことだ。首都に帰るにしても、正式にこの街のヴァンパアハンターとして認めてやるにしても、後三週間。それ以降は、こんな風に構ってやるつもりはない。 　それまでは、好きにさせてやろうと思っていた。 「くだらねぇ」 　リンドヴルムの問いを切り捨てて、セスは背後は見ずに歩き出す。 　規則正しい足と尻尾を引きずる音が聞こえた。大人しく付いてきているようだ。 　こんな風に犬のように懐いてくる部下を、迷惑には思えはしない。そんな、今まで知らなかった、自分の甘ったれた一面をあまり自覚したくないのだ。