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5.朝日に霞む慕情

 静かな夜だ。  金色の月はまるでリンドヴルムの目のように、まっすぐに地上を見下ろし、光の視線を向けてくる。  太陽のそれとは違って、月の光は温もりを持たない。だからこそ、ヴァンパイアは昼間のように明るい満月の夜でも、平気で外を出歩ける。日光浴はできないが、月光浴はできるのだ。  そして、それはグール達も同じだ。  明るい月夜の晩。時にヴァンパイアはグール達を従えてピクニックに出かけ、弁当がわりに村を食い尽くす。 「今夜こそ、来るでしょうか」  空き家の二階に隠れて三日目。  セスはずっとここから窓を見つめていた。昨日は雨が降っていたので一度宿に帰って着替えをし、体を水で洗って来たが、この空き家から離れたのはその時だけだ。  がらんとした埃っぽい部屋の片隅で、聖典を読んでいたリンドヴルムが、不意に消え入りそうな小声で呟いた。  仮眠や用足しの間の交代要員として待機させているが、少し疲れてきたのだろう。  待ち伏せに慣れているセスは特に苦にはならないが、何時間も身動きせずにただひたすらに待つというのは、心身ともに疲労するものだ。  帰って休むようにも勧めたのだが、リンドヴルムは頑として動かなかった。 「これはこれで、得難い経験です。私は貴方の側にいたいのです」  そう言って、ニコニコするだけだった。  しかし、暇だからといってお喋りをしながら待つ訳にはいかない。  セスはリンドヴルムを睨むと指で唇をなぞって、黙れと合図をした。  吸血鬼は、耳がいい。不用意な物音をたてれば、警戒してしまうだろう。  次に、床に放り出している、水の入った革袋を指差した。そして、また窓の外へ視線を戻す。  しばらくゴソゴソ音がしていたが、蓋を開けた革袋をそっと口元に差し出された。飲ませてくれとまでは言ってないのだが。まあいいかと、口を開ける。  目は廃屋の玄関に打ち付けられた板を睨みつけたままで、唇に触れた温い水を喉に流し込んだ。  他人に飲ませてもらう事など滅多にないので、うまくいかず口の端から溢れて顎を伝い落ちる。それを柔らかな布で拭き取られた。良い匂いがする。ハンカチにまで、香水をふっているのだろうか。  廃屋のあたりには、人気はない。しかし、注意すべきは人影だけではない。中級以上のヴァンパイアなら、コウモリや黒猫に姿を変えることがある。注意深く、目に映る動くもの全てを疑い、ヴァンパイアの気配を探す。  風が吹いて、壁を這う蔦の葉が揺れた。生臭い腐肉の匂いに紛れて、違う匂いを感じる。リンドヴルムの香水ではない。  ざわり、ざわりと。背筋から腕にまで、鳥肌が浮かび上がる。  ヴァンパイアだ。  血を啜る化け物の、独特の匂い。  長年ハンターをしているうちに、時々だがヴァンパイアの出現を察知できるようになっていた。気配を匂いとして感じるのだ。  待ちわびたものが現れた喜びに、自然と口角が釣り上がる。 「ヴィ、ッ」  声を上げかけたリンドヴルムの、その長い鼻先を掴んで黙らせる。  やがて路地裏から、一匹の野良犬が姿を現した。やせ細った、汚い黒い犬だ。  その犬は、音もなく静かに、うなだれたまま廃屋の方へと近づいてくる。  そして、雑草の茂った庭に入り込んだところで足を止めた。  ごきり。黒い犬の背中が音を立てて歪む。ぶくぶくと泡立つように肉が盛り上がり、犬の体は大きく膨らんだ。ほんの数秒で、犬は人の形に姿を変える。  そこには、三十代ほどの男が立っていた。男は闇に紛れるためか、黒いローブを羽織っていた。犬になっていた間、服は一体どこへしまっていたのだろうか。  ヴァンパイアが大人の男の姿だったことに、セスは安堵を覚えた。  リンドヴルムは幼い少女の姿をしているヴァンパイアを殺す事には、まだ躊躇いがある。だが、冴えない男の姿なら、マリーの時ほどには罪悪感を抱かずに済むはず。  男はポケットから、マッチの箱を取り出す。  どうやら、手に負えなくなったのか廃屋ごと燃やしてしまう気らしい。  そして、板の打ち付けられた扉の前まで来たところで……仕掛けていた罠にかかった。 「!?」  突然、頭上から聖水が雨のように降り注いだ。ローブを被り避けようとするが、まともに聖水をかぶってしまいヴァンパイアは悲鳴をあげた。  足元に張った糸に引っかかると、仕掛けが発動する仕組みだ。  窓枠を掴むと、セスはそれを飛び越えた。着地と同時に、獣のように跳躍する。  ギョッとした様子で振り返るヴァンパイアに向かい、剣の鞘を払い躍りかかった。あと一歩で心臓を貫けそうだったが、ヴァンパイアは咄嗟に身を翻し、切っ先はわずかに胸を切り裂いただけだった。 「大尉!」  焦ってたようなリンドヴルムの声が追いかけてくる。  ヴァンパイアは強張った表情で、セスとリンドヴルムを見比べていた。 「ちくしょう、ハンターか!」  焦りに顔を強張らせ、ヴァンパイアは飛び退る。胸の傷からは、じゅうじゅうと煙が上がっていた。  聖水がかかった部分は、火傷のようになっている。 「おい、リンドヴルム。テメェがトドメさしてやれ」  リンドヴルムに視線を送り、顎でヴァンパイアの方を示す。  緊張した面持ちで頷いたリンドヴルムは、セスより一歩前へ出る。その背中越しにみるヴァンパイアは、焦りと怒りでワナワナと震えていた。 「やられてたまるかッ!」  ガゴ!!  ヴァンパイアは、グールを閉じ込めていた扉を掴むと、打ち付けられた板ごと力づくでひっぺがした。蝶番が弾け飛び、木っ端が舞う。  さらに、扉をこちらに向け投げつけてきた。咄嗟に避けようとするが、その前にリンドヴルムがその太い尻尾をまるで鞭のように振る。バシン!と、重い音がして、扉は打ち払われ派手な音を立てて地面に落ちた。  頑丈な尻尾だ。ゆらゆら揺れて、リンドヴルムの感情を伝えてくるだけの尻尾ではなかったらしい。  ……ゔぁああっ  不気味な呻き声がして、腐臭が強くなる。  グールだ。  閉じ込められていたグール達が、ゾロゾロと開け放たれた玄関から溢れてきていた。 「っ、こんなに、大勢!?」  たしかに、予想を上回る数だ。15体ほどいる。それが、久しぶりの食事だとばかりに、セスとリンドヴルムに向かい群がってきていた。 「リンドヴルム、グールは俺が片付ける。テメェはあの童貞野郎をぶっ殺せばいい」  グール達は、体の半分以上が腐り落ちていた。食い合ったのか、四肢が欠けているものもいる。  そのため、動きは鈍かった。  グール達も、弱点はヴァンパイアとほぼ変わらない。心臓を一突き。それで活動を停止する。  ぞぶっ。腐った肉を剣が突き破る感覚に、セスは眉をひそめた。この感触だけは、いつまでも慣れない。 「ぬっ!あ、くそっ、このトカゲやろうっ」  金属が触れ合う音とヴァンパイアの罵声に、セスはリンドヴルムとヴァンパイアの方へ視線を向けた。  このヴァンパイアは、それなりに長く生きた『弱くはない』ヴァンパイアだ。手には、いつの間にはナイフが握られていた。それでリンドヴルムの剣を払い、応戦している。 「この、血の匂い……は、はは!そうだ、トカゲやろうの血を吸えば、おれは!おれは!もうこんな目に遭わずに済む!」  リンドヴルムの剣筋は、綺麗だ。たしかに、よく訓練されている。  腕前だけならば、ヴァンパイアを圧倒していた。  だが、ヴァンパイアは非常に力が強い。板を打ち付けてある扉を簡単にぶん投げるくらいだ。  剣と剣がぶつかり合うたびに、リンドヴルムの方が弾かれていた。ナイフの切っ先が腕をかすめ、硬い音がして赤い血が飛び散る。  しかし、すぐに体勢を立て直し、鋭い突きを心臓めがけて放なった。痛みで剣撃が弱まる気配は全くない。むしろ、激しくなっていった。 「ぐっ、っ!」  焦ったのか。ヴァンパイアは、腕を大きく振ってグールに合図をした。  セスに群がっていたグール達は、すでに半数以上がセスの剣で心臓を貫かれ動かなくなっていた。  残りの数体が、リンドヴルムに向かい飛びかかる。  それをチラと見ただけで、リンドヴルムはヴァンパイアから目を離さない。  一瞬セスの方が戸惑った。そして、慌ててリンドヴルムに襲いかかろうとするグールの背中を突き刺した。最初にセスがグールは俺が片付けると言ったから、リンドヴルムはグールには一切注意を向けていないのだ。ヴァンパイアと戦うことだけに集中している。 「ちっ、くしょっ!あっ!」  剣撃と同時に死角から伸びてきた尻尾が、ヴァンパイアのナイフを打ち払った。パッと、血飛沫が飛ぶ。  よく見れば、リンドヴルムの尻尾がいつもと少し違う。先端あたりのウロコが逆立ち、まるでスパイクのようになっている。人間があれで打たれたら血が出るだけではすまなそうだ。 「……テメェはもう終わりだ。散々食い殺しやがって、クソ吸血鬼が。最後に人間らしいことをしてから死ね」  最後のグールを片付けて、セスはヴァンパイアに睨みをきかせた。ヒッと息を飲んだヴァンパイアの赤い目には、恐怖が映り込んでいる。  ハンター二人に追い詰められ、聖水で力を奪われ、武器も無くした。もう、死は免れないと気付いたのだ。  散々人間を食っておいて、自分が死ぬのは怖いだなんて。なんて浅ましい化け物なのだろうか。 「テメェを噛んだやつは、どんなやつだった。それを、教えろ。そいつも、ぶっ殺してやる。自分自身の仇をとって欲しいだろう」  ヴァンパイア達は、大抵……こう言うと素直に答えた。  自分を化け物にしたヴァンパイアが憎いのだ。ハンター以上に、ヴァンパイアを憎んでいるのは、ヴァンパイア自身だ。  この男もそうだった。一瞬燃えるような目をしてから、そっと顔を伏せた。 「……女……だった……暗がりで、後ろから……顔は見てない。でも、手が見えた。細い女の手だった」 「この街で、噛まれたのか?よそから渡ってきたのか」 「……おれは、この街で生まれて、この街から出てねぇ。ずっと……この街で」  俯いて、ぶつぶつと何やら呟いているが、声が小さくて聞き取れない。どうせ、くだらない泣き事か、後悔の言葉だ。  これ以上は、何も聞き出せないだろう。  大人しくなったヴァンパイアを見て、リンドヴルムはまた躊躇(ためら)っているようだった。  無抵抗の相手に剣を向けるのは、気が咎めるのだろう。  だが目線で促せば、リンドヴルムは胸元で聖印を切ってから、一息で心臓を刺し貫いた。  マリーの時とは違い、全くブレのない動きだ。  男は自分が刺されたことすら、気づかなかったかもしれない。一瞬で砂に変わり、その場に崩れ落ちる。  パッと砂を払ってから、リンドヴルムは剣を鞘に収めた。 「よくやった、リンドヴルム。思ってたよりは、剣の腕は立つみてぇだな」  声をかけると、リンドヴルムはセスの方を見て目を細めた。尻尾の先がビリビリと震えている。  もしかして、これは照れた時か嬉しい時にこうなるのだろうか。 「いえ。ヴィクトリノ大尉のおかげです」 「何もしてねぇぞ。今回は」 「……戦意を失ったヴァンパイアを見て、私はまた、躊躇(ちゅうちょ)してしまいました。だけど、貴方が見ていてくださると、正しいことをするのだと思えたのです。側にいてくださるだけで、勇気が湧くのです」  月のような、金色の瞳。人の目をまっすぐに見て話すのは、リンドヴルムの悪いくせだ。そんな風に見られると、心の内を覗こうとされているようで、落ち着かない。  その眼差しに耐えられず、セスは顔を背けて「そうかよ」とだけ返した。  誰かに純粋な好意を向けられることなど久しぶりで、どうしたものかわからない。  一歩、リンドヴルムがこちらに踏み出してくる気配を感じる。なんのつもりなのかはわからないが、わざと気づかないふりをして背を向けた。  リンドヴルムのことなど、どうでもいいという顔をして、セスはグールの死体に視線を移す。  身なりの悪いものばかりだ。胸を大きく開けた女は、売春婦だろう。他は流れ者か、ホームレスだ。  そういう、居なくなっても誰も騒がないようなもの達は、ヴァンパイアにとっては都合の良い餌だ。  人知れず餌食になって、こうして死体が見つかってもおそらくは引き取り手はない。 「彼らのために、祈る時間を頂いても良いですか?」  死体のそばに跪いたリンドヴルムが、神妙な表情で言う。悪魔のようなツノが生えているくせに、この男は心底聖職者だ。グールなったものにまで、神の慈悲を与えようとしている。 「……テメェの好きにしろ」  今までは、自警団に頼みグールの死体を共同墓地に放り込んで貰い、それでセスの仕事は終わりだった。  グールのために祈ろうなんて、考えたこともない。だが、そうだ。彼らもちゃんと神父に祈りを捧げて貰って、天の国へと送って欲しかっただろう。  白い神父服の膝を泥で汚し、腐った肉に優しく触れて祈りを捧げるリンドヴルムを見て、セスは言葉にできない複雑な感情を覚えた。  それは嫉妬や怒りにも似ているし、友愛や尊敬にも似ている気がする。  ただ、不快ではなかった。  胸の奥でざわざわするその感覚を味わいながら、セスは祈るリンドヴルムの横顔を眺めていた。  全てのグールに祈りを捧げ終わった時には、夜が明けてしまっていた。  東の方から空は白み始め、やがて朱色の火玉のような太陽が、遠くに見える峰の向こうから顔を出す。  朝日を浴びたグールの死体が、じゅうじゅうと音を立てて焼け、やがて灰と骨だけになってしまった。あたりに立ち込めていた腐った肉の悪臭も、かなり薄くなっている。  ようやく祈るのやめ、こちらに向き直ったリンドヴルム見て、その腕が赤く染まっている事に気付いた。ナイフで斬られた時の傷だろう。 「リンドヴルム。腕を出して、聖水で洗っとけ。ヴァンパイアやグールにつけられた傷は腐りやすいからな」 「はい」  リンドヴルムは上着を脱ぎ、シャツをはだけて腕を出した。盛り上がった胸部は、さほどウロコが目立たない。薄い皮膚と筋肉のみに守られているようだ。  肩のあたりからはウロコがくっきりと大きくなりはじめ、肘や肩は特に分厚く大きなウロコが守っていた。  聖水の瓶を片手に、リンドヴルムの腕を掴む。しかし、なぜか傷らしいものは見当たらない。乾いた血がこびりついているだけだ。  ただ、何枚かのウロコが剥がれかけグラグラしていた。  とりあえず、血を洗い流すように聖水をかけてやる。セスの親指の爪ほどのウロコは、聖水を浴びて濡れキラキラと輝いていた。 「あ」  思いついた、というように声を上げると、リンドヴルムはその一枚をつまんでピッとひっぺがした。  思わず、セスは小さく呻いて顔を(しか)める。なんだか、ぞわぞわする光景だ。  ささくれを剥くような気安さでウロコを取ってしまったリンドヴルムは、不思議そうにセスを見ている。 「ちょうどいいので、これをニナさんに差し上げ……どうかしましたか?」 「痛くねぇのか、それ」 「痛いですが、ほとんど取れかかってましたから。それに……」  ウロコの下から現れた血の滲んだ皮膚は、すぐに血が止まり薄皮が張った。  リンドヴルムの腕のウロコが剥げているあたりに、そっと指を這わせてみるが、やはり傷らしいものは見当たらない。 「竜人は、傷の治りが人間より早いのです。ウロコも次の脱皮で元通りになりますよ」 「お前、脱皮するのか……」  なんだか妙な気分だ。ヘビのようにツルツル皮が剥けて脱皮するリンドヴルムを想像すると、背中が痒くなる。あまり考えないようにして、セスは新しい煙草に火を付けた。  服を整えたリンドヴルムは、ポケットにウロコをしまい、骨の山になってグール達を悲しげに眺めている。 「メシ行くぞ。リンドヴルム」 「あまり、食欲はありません」  当然だろう。ヴァンパイアを殺し、腐った死体が骨になるのを見た後に、食欲なんかあるわけがない。 「それでも、付き合え。生きてる間しか、メシなんざ食えねぇんだ」  太陽の光を浴びて、まともな食事をする。  ヴァンパイアにはできない。死人にも。  足取りが重いリンドヴルムを引きずって、セスは人間であることを謳歌するために、ニナの店を目指したのだった。

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