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12.ヴァンパイアの慢心

夜が来た。 薄汚れたカーテンの向こうから、月明かりが漏れている。 窓を開けてみれば、欠けた月からは金色の光が降り、街は夜闇に飲み込まれていた。 「セスさん、起きてください」 マティアスの上着だけを肩に掛けたあられもない姿で、床の上で丸くなっていたセスに声をかける。床に直に寝かせたくなくて下に敷いていたセスの服は、寝乱れてくちゃくちゃと皺になってしまっていた。 軽く肩を揺すってあげると、ううっ、と短く呻いて身動(みじろ)ぎをし、うっすらと瞼を開く。紫色だったはずの瞳は、まるで血のような色に変わってしまっていた。 「……起きられますか?」 億劫そうに起き上がるセスは、まだ下肢も汚れたままだ。 愛おしくてたまらなくなり、肩に手を添えて体を支えてあげると、露骨に嫌そうな顔をされた。 「やめろ。女じゃねぇんだ」 「しかし、お疲れの様子だったので」 「気色の悪い。この程度、なんでもねぇ」 悪態をつきつつ、セスは窓の外を見た。 そして、眩しそうに目を細める。マティアスのツノを掴んで支えにすると、ゆっくりと立ち上がった。ツノには神経が通っていて敏感なので、あまり触らないで欲しいのだが、歯を噛み締めて堪える。 マティアスの上着を肩にかけたまま、窓枠を掴んで空を見上げると、セスは感嘆のため息を吐いた。 「月が、ギラギラしてやがる」 「ギラギラ?」 「まるで、太陽みたいに見える。外も、凄く明るい。昼間みてぇだ。……昨日は、余裕がなかったから気づかなかったが……これが、ヴァンパイアの見ている世界か」 赤い瞳は、見える世界すら違うらしい。 それが存外に悔しくて、マティアスはセスを後ろから抱きしめた。 抵抗することなく、大人しく抱かれてくれているセスの髪に、鼻先を埋める。 埃とセスの匂い、そしてマティアスの精の匂いがした。 「テメェの血を飲んだからか、気分もいい」 そう呟くと、セスはマティアスの肩に頭を預けるように、凭れかかってきた。腕の力を強めようとした時、急に胸にかかっていたセスの体重が消えた。腕の中にあったはずの質量が消え、マティアスは目を丸くする。 まるで影のような、黒い霧が腕の中でゆらゆらと揺れている。それはふわりと窓の方へと飛んでいった。 「セッ!?セスさん!!」 ハハハッと、低く愉しげな笑い声。確かに、セスの声だ。 窓から飛び出すと、一匹の大きなコウモリが頭上を旋回している。何度かクルクルと月の周りを回ってから、チーッ!と鳴いて飛んでいった。 「ま、待ってください!」 慌てて床に落ちていた服を拾い集め、窓から飛び出した。 すれ違った見張りの兵士が、ギョッとした顔でこちらを見ている。いきなり上半身裸の竜人が窓から飛び出してくれば、それは驚くだろう。 しかし、マティアスは彼らを無視して、とにかくコウモリを追いかけた。 駐屯地を飛び出したコウモリは、時折クルクル旋回してマティアスを待つそぶりを見せながらも、降りては来ない。追いつきそうになると、またパタパタと飛び去ってしまう。 体力と持久力には自信があるマティアスだが、流石に疲れて息が切れはじめた頃、ようやくたどり着いたのはマティアス自身の屋敷だった。 いつのまにか、自宅まで誘導されていたらしい。 ぽかんとしているマティアスの目の前で、コウモリは屋根の上にとまる。 そして、またふわりと黒い霧に変わったかと思えば、次の瞬間には人間の姿に戻っていた。 しかし、服装が変わっている。 漆黒の燕尾服だ。まるで夜闇のように黒い。マティアスが肩にかけてあげていた上着はどこへいったのか。下は履いていなかったはずだが、きちんと揃いのズボンを履いている。首元には、赤いクロスタイが巻かれていた。 灰色の髪を夜風に靡かせ、赤い目を光らせているセスに、よく似合っている。 「なんということ。まるで、まるっきり、ヴァンパイアじゃあないですか」 思わず、そう呟いた。 それは非難めいた言葉でなく、心からの感嘆によるものだった。怪奇小説に描かれている、恐ろしくも美しいヴァンパイア・ロードそのものの姿に、妙な感動を覚えていた。 「くっく。そりゃあ、そうだ。俺はヴァンパイアに成り下がっちまったんだからな」 「セスさん……さっきから、とてもご機嫌じゃあないですか?」 「ああ、そうだな。そうかもしれねぇ」 コウモリになって飛んでいったり、ヴァンパイアらしい格好に変身して見せびらかしたり。なんだか、手に入れた力を面白がっているようだ。 彼の意外な一面を見て、マティアスは落ち着かない気分になる。セスにも、こんな子どものようなところもあるのだ。たった四〇年ほどしか生きていない若者らしい、無邪気な可愛らしさが。 なんだかキュンとしてしまい、咳払いをして誤魔化す。 「ところで、私の上着はどこへ?」 「コレになった」 「それは……なんというか。どんな衣装にでもできるのですか?」 「多分な」 「それはすごい」 黒い上着を摘んでこともなげに言うが、マティアスは不思議でしかたがなかった。白い祭服が、黒い燕尾服に変化してしまうとは。 ヴァンパイアが犬に変身しているところを以前見たことがあるが、あの時も服はどうなったのか気になっていたのだ。人型に戻った時は普通に服を着ていたが、犬の姿の時はもちろん毛皮しか身につけていなかった。 「俺を噛んだ糞ヴァンパイアは、多分始祖だって話はしたな」 屋根から軽々と飛び降りると、セスさんは赤い瞳を光らせながら言った。煌々と燃える目には、力がみなぎっている。 「つまり、セスさんは第一世代のヴァンパイアですね」 「ああ。しかも、竜血を飲んだ……。なかなか、凶悪なヴァンパイアになっちまった」 なるほど。 通りで、元気なはずだ。マティアスの血を飲むまでの憔悴ぶりが嘘のようだった。 今のセスは、マティアスが束になっても敵わないような、強力な力を持つヴァンパイアなのだ。 それでも、彼に恐怖は感じない。警戒する必要もない。彼が普通のヴァンパイアのように、人を襲う事などあり得ないからだ。 「だが、それでも。やっぱり、ヴァンパイアは制約が多い」 ひたりと、セスは屋敷の扉に手を当てた。 「……どれだけ力があっても。招かれなきゃ、中に入れねぇ」 慌ててノッカーを鳴らすと、すぐに内側から扉が開けられた。侍女の一人が出て来てくれたのだ。彼女は、セスとマティアスを見比べ「おかえりなさいませ」と頭を下げた。 「セスさん。今日から、ここが貴方の家です。出入りは、自由に。全て、好きに使ってください」 そう言って、マティアスはセスに手を差し伸べた。意外にもすんなりとその手を取り、セスは屋敷に足を踏み入れる。 不謹慎だとは思うが、胸が高鳴った。 これからは、ずっと一緒に暮らせるのだ。 ふと、セスの髪を見ると前髪のあたりが束になって固まってしまっていた。さっきマティアスが出した精液だろう。 すぐに侍女を呼び、湯浴みと夕食の用意を頼んだ。今日はあちこち歩き回った上に、たくさんセックスをしたからか、お腹が空いている。 「その、セスさん。髪が汚れてしまっています。食事の前に、お風呂に入ってください」 「風呂があるのか?」 「ええ、もちろん。毎日入りますから」 「ハッ、毎日だと。贅沢な話だ」 この街では、お風呂は数日おきに公衆浴場に行くのが一般的らしい。 セスの住んでいた宿では、別料金だが湯を沸かし湯桶に入れて入浴させてくれるサービスもあるそうだ。しかし、毎日入浴するというわけにもいかないのだろう。 マティアスとっては、お風呂に毎日入らないというのは、あまり考えたくないことだった。 基本的に、竜人は綺麗好きだ。体を覆うウロコは水や汚れを弾くが、それでも常に体を清潔に保ち、香油を塗っておくのが良いとされている。 首都でも、割とどこの家庭でも簡易的な釜と湯船があった。 国軍本部で従軍神父として働いていた時も、もちろん自宅には湯船があり、毎日欠かさずお風呂に入っていた。 「こんな貴族みてぇな屋敷だ。風呂があってもおかしくねぇか」 「セスさんも、毎日好きな時にお湯を使ってくださっていいのですよ」 「面倒だろう……風呂はそんなに、好きじゃない」 竜人よりも汚れやすいはずの、発汗する哺乳類である人間が、毎日お風呂に入らなかったら匂いが気になったりかぶれたりしないのだろうか。 セスを抱いていても特に臭いとは思わなかったが、これからはぜひ毎日お風呂でピカピカに磨いてやりたい。 肌に良い油も塗れば、セスはより艶めかしくなるだろう。 「一緒に入りますか?私が洗って差し上げます」 「……そっちの方が面倒だ。どうせ、洗うだけじゃすまねぇだろう。大人しく待ってろ。風呂はどっちだ?」 「そこの廊下の、突き当たりです」 少し期待しながら問うたが、確かに。ぐうの音も出ない。セスの裸体を見て、勃起しないでいる自身はない。さっき散々搾り取られたのに、もうムラムラと性欲が湧き上がってきている。 今セスと一緒にお風呂に入れば、きっとまた彼を貪りたくなってしまう。 もじもじしているマティアスを鼻で笑って、セスはさっさと風呂の方へと去っていった。 なんとなく、寂しくて尻尾が垂れる。 「旦那様。お手紙が届いております」 仕方がないので、リビングのソファに腰掛けてセスを待っていると、別の侍女の一人がしずしずと封蝋で閉じられた封筒を差し出してきた。 赤く固まった蝋には、リンドブルム家の家紋が刻印されている。翼のある巻き角の竜が、鍵を咥えたエンブレム。 父上からだ。 この紋章を使うのは、リンドブルム家のものだけ。今はもう、マティアスと父しかいない。 「……わかりました。ありがとう」 「お手紙を届けてくださった使者の方は、急ぎ返信をお願いしますと仰られていました」 「ああ、父はせっかちなのです。毎回、そう言付けられるのですよ」 リンドブルム家は、真竜の一族といい、竜人の中でも特に血統に優れた家のひとつだった。 バハムート家、ニーズヘッグ家、ファフニール家など……いくつかある、『伝承の竜』の名を冠した家のことだ。 なぜこれらの竜を『伝承の竜』と言うのかは、よくわかっていない。竜達の伝説自体は遠い昔に失われ、名前のみが竜人の中で受け継がれているのだ。 家名のことを考えると、マティアスは少し気が重くなった。 セスは人間で男性だ。卵を産めはしないだろう。 マティアスには兄弟はいない。母は100年ほど前に事故で亡くなったので、今後もマティアスの下に弟や妹が産まれることもない。養子でも迎えれば家名は残せるだろうが、リンドブルムの血筋はマティアスの代で絶える。それは数百年先の話だが、もう確定事項だ。 蜜蝋を爪で砕き、封筒を開く。几帳面な、父らしい字で書かれた手紙が出てきた。およそいつもどおりの、恨み節だ。 ヴァンパイアハンターになるために聖都を出て行った息子のことを、父は恥としか思っていないのだ。自分の跡を継いで、教会内での要職について欲しいと思っていたのだろう。猊下と呼ばれる立場に居るものからすれば、ヴァンパイアハンターは卑しい仕事に見えるらしい。 毎週のように届く手紙からは、よくも私の期待を裏切ったなという憎しみが滲み出ている。 しかし、いつもと違うのは最後に『近々、様子を見に行く』と書かれていたことだ。 思わず、尻尾が床を叩く。 もちろん、セスとのことなど父に何も言っていない。 人間で、同性で、ヴァンパイアになってしまった恋人を、どう紹介すれば良いのか。 運命で決められた相手だから、父も反対したり仲を認めなかったりはしないはずだ。ただ酷く落胆し、怒り、最悪の場合親子の縁を切られるだろう。 眉間を押さえて、ため息をつく。 手紙をくしゃりと丸めて、暖炉の火に放り込んだ。パッと火の粉が散り、あっという間に燃え落ちる。 その火を見ていると、突然。 バターン!という音と、侍女の悲鳴が聞こえた。浴室の方からだ。 驚いてソファから飛び上がり、慌てて浴室へ向かい駆け出す。 「どうしました、……セスさん!?」 脱衣所に飛び込めば、着替えを持ってきたらしい侍女がへたり込んでいた。浴室のドアを開くと、洗い場に尻をついて呆然としているセスがいる。 侍女の目からセスの肌が見えないようにかばいながら、マティアスは浴室の仲を見回した。 特に、なんの変哲も無い。岩をくり抜き磨いて作られた浴槽には、お湯がたっぷりと張られている。ゆらゆらと湯気は立っているが、触ってみればちょうどいい温度だ。熱くて火傷をしたとかではないだろう 「うっ、るせぇ。なんでもねぇ」 「……貴女は、なぜ悲鳴をあげたのですか?」 「あの……お着替えをお持ちしたのですが、ジャバッと音がした後、突然呻き声と大きな音が聞こえて……お倒れになったのかと思って驚いてしまったのです」 セスが何も言わないので、侍女に問うてみれば、うつむき気味にそう答えた。 水音の後……。床を見れば、湯がかけられて濡れている。 そうかと、納得した。 マティアスは、侍女が持っていた体を拭くための布を手にとる。 「分かりました。貴女はもう下がってください。後は、私がやりますから」 「は、はい。旦那様」 侍女は顔を赤くして、セスの肌を見ないようにして脱衣所から出て行った。 セスが、小さくため息を吐く。浴室のドアを閉め、マティアスは布をお湯につけた。 「お湯を流せなかったのですね?」 「ああ……」 ヴァンパイアは、流れる水を嫌う。雨すら、彼らにとっては触れることのできないものだ。 湯桶から床に向かい流されたお湯も、ヴァンパイアにとっては毒なのだろう。 「……クソ、油断した。みっともねぇ」 毒突くセスの腕をそっと持ち上げ、濡らして絞った布で優しく拭う。 セスは目を見開いて、黙り込んでいた。抵抗はしないので、そのまま腋《わき》も拭く。 「清拭なら、湯が流れないから大丈夫でしょう。髪は、湯船の中で洗ってしまいましょう。ためたお湯なら、大丈夫ですよね」 「なぜ、ここまでする。テメェは風呂屋の湯女みてぇなことを」 「大事な人の体です。当然じゃないですか」 上半身を綺麗に拭い、次は逞しい脚を膝に乗せる。湯で洗い絞りなおした布で、ふとももを拭いた。人間の肌はウロコがないので、筋肉の付き方がよく見える。濡れた肌は、乾いた肌とは違う手触りで、手に心地よかった。 「……楽しそうにしやがって」 「そう見えますか?」 確かに、楽しいかもしれない。 足の指まで丁寧に拭っていると、セスはくすぐったかったのかクスクスと笑いはじめた。 ふと、股間に目をやれば半勃ちに勃起している。 「テメェは、俺をいい気分にさせるのはうまいな」 そう言って、セスはマティアスの頭を撫でた。そのまま、指先でツノをなぞる。ゾクゾクした。敏感なツノは、愛撫されたら性感帯になる。 性器や下腹部も拭き、先程マティアス自身を招いてくれた後孔も綺麗にした。そこを見るとまた勃起してしまいそうになるが、摩擦のせいか赤く腫れてしまっていたので我慢する。 湯に浸かってもらって、髪も洗うことにした。予想通り、溜まった湯の中ならば問題はないようだ。 髪を丁寧に濡らし、聖都で人気の良い香りのする石鹸を使い洗う。 この街で一般的に売られている石鹸は無臭のものか、動物性脂肪で作られた臭い石鹸ばかりなので、わざわざ取り寄せているのだ。 「うっ、なんだこの……香水みてぇな匂いは」 「石鹸ですよ」 「石鹸だと?こんな匂いがする石鹸があるのかよ……」 胡散臭げな顔をしているセスだが、マティアスは楽しくて仕方がなかった。 そうだ。櫛を買おう。毎日一緒にお風呂に入り、体を拭いて髪を洗って、この柔らかな手触りの髪を、思う存分梳いて綺麗にするのだ。 灰色の髪を掬い口づけをしながら、マティアスは父からの手紙のことも忘れて、これからの蜜月への期待に尾を震わせたのだった。

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