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13.ハンター不在の夜
セス・ヴィクトリノがハンターを辞めた。
その噂は、すぐに街に広がってしまった。ヴァンパイア事件が頻発しているのに、ハンターがその原因となっているヴァンパイアを駆除できずに逃げ出した。ベテランハンターが恐れをなすような、凶悪なものがこの街には潜んでいる。
そんな流言飛語に震え上がり、街の人々は扉の鍵を閉めて家に閉じこもるか、街から出て行く用意をし始めた。
「竜人様……ヴィクトリノ大尉は、本当に街を出ちまったんですか?ヴァンパイアにビビって?……まさか、本当は竜人様とのことで……?」
赤ら顔を青くしてそう語ったベイリーは、毛髪の薄い頭を撫でて悲しそうに眉を下げる。
突然ベイリーが訪ねてきたのは、セスがマティアスの屋敷に住むようになってから、三日経った早朝のことだった。
マティアスも、この三日忙しくて『シマリスの台所』に行けなかった。セスの退職手続きを代理で済ませたり、セスが住む部屋の用意をしたり、セスと蜜月を過ごしたりと、やらねばならないことは山ほどあったのだ。
だから、ベイリーがセスに用があると言っていたことも、伝え忘れていたのだった。
約束を違えてしまったことや、無駄な心配をさせてしまったことに罪悪感を覚え、マティアスの尻尾はくたりと地面に落ちる。
「その落ち込みかた、やっぱり……」
「ああ、いや。違うのです。セスさんは」
この屋敷に居ます、と言う前に。
バン!と荒々しく音を立てて、少し乱暴に応接間のドアが開けられた。不機嫌そうに部屋に入ってきたのは、パジャマがわりのバスローブを羽織ったセスだった。肩や首には、昨日マティアスがつけた歯型が残っている。
情事の名残を残したままのセスを見て、ベイリーがはわわわっと素っ頓狂な声をあげた。
「ゔぉっ、ゔぁっ、ゔぃっ、ヴィクトリノ大尉!」
「よお。ベイリー……誰が街から逃げたって?」
「あっ、いや!噂になってたもんで!お、オレはそんな訳ないと思ってたさ」
「どうだか」
ふんと鼻を鳴らして、不機嫌そうなセスはベイリーの座っているソファに腰掛けた。二人はマティアスの座っているソファの、机を挟んだ向かいで肩を並べている。
なんだか、釈然としない。
どうしてわざわざ、よその男の隣に座るのか。
「だけどな、ヴィクトリノ大尉。急に軍をやめて、三日も姿を見せなきゃ誰だって……一体全体、どうしたんだ」
「別に、たいしたことじゃねぇ。どうせ、俺とこいつとのことも噂になってんだろ」
「あ、ああ。まあ」
「だから、そういう事だ」
「いやいや……そういう事って、えぇ〜…」
つまらなそうに煙草をふかして、セスは足を組んだ。下着は身につけてはいるが、内ももにも歯型がついている。ベイリーから見えやしないかとヒヤヒヤしたが、ベイリーはそれどころではないようで、頭を抱えて俯いてしまっている。
「くだらねぇ噂はどうでもいい。ベイリー、俺が姿を見せなかった間に、なにか事件はあったか?」
「いや。特には……。ヴァンパイアに関係ありそうな死体も見つかってないし、妙な異臭騒ぎも、家出人の捜索依頼もない。昨日一昨日は雨だったからかなぁ」
「そうか……」
何か気になることがあるのか。セスは顎に手をやり、なにやら考えこんでしまった。
「ベイリーさん。確か、セスさんに用があると仰られてましたよね。すみません、セスさんに伝えるのを忘れていて」
「あ、ああ。そうだった。たいしたことじゃないからいいんですよ。ヴァンパイアがらみの話じゃあない」
頭を下げると、ベイリーは恐縮したように言った。そして、ズボンのポケットからくしゃくしゃになった紙切れを取り出す。
それを丁寧に広げると、それは可愛らしい便箋だった。なにか書きかけの手紙のように見える。
「拾ったものなんだが……ヴィクトリノ大尉宛だったみたいだから」
セスはそれを指先でつまむと、軽く目を通してマティアスの方へ放った。興味なさげな様子だ。
マティアスも手にとってみると、便箋には丸く可愛らしい文字が慎ましくならんでいる。
『セスさんへ
ずっと言いたいことがあって、でも顔を見ながらじゃ言えないから、お手紙にしました。
あなたに伝えたいことがあります。
今度の日曜に二人で』
などと、書かれていた。最後の一文字はグリグリと塗りつぶされ、どうやらここまで書いて捨てたらしい。
「誰が書いたのかはわからないけど、何かあんたに話したいことがあるみたいだから。見せた方がいいかなぁと」
「ベイリー、テメェはかみさんが居たよな」
「え?ああ。それがどうかしたか?」
「そんなに察しが悪くて、よく結婚できたもんだ。……これはラブレターの書き損じじゃねぇか。こんなものを相手に届けられたって知ったら、手紙の主は泣くぞ」
あわあわと泡を食ってマティアスの手から手紙をひったくり、ベイリーは顔を真っ赤にしていた。そして手紙を読み直すと、あーと低く唸って俯いてしまった。
セスはといえば、眉間の皺を深くしてはいるが、口元は吊り上がりまんざらでもなさそうな顔だ。
ここに運命で結ばれた恋人がいるというのに、他人からラブレターをもらうなんて。
竜人は、あらかじめ恋をする相手が決められているので、一人に複数の人が恋をするという状況はありえない。
しかし人間には珍しくないようで、首都でも時々恋人を奪い合っての刃傷沙汰もあったし、伴侶のある人に恋をして悩み、マティアスの元に告解に訪れた人もいた。
今までは、竜人であるマティアスには、理解できないことだった。だが、今のマティアスにはすこしだけ分かる。本来なら竜人には無縁の、嫉妬という感情の苦しさを知ってしまったからだ。
「手紙の主を探して、お詫びをしなければなりませんね。もうセスさんには、私が居ますから」
「くだらねぇ。ほっとけばいいんだ。アイツも、すぐに忘れて他の男に惚れちまうだろ」
「アイツ?心当たりがあるのですか?」
「宛名を見りゃ、分かる」
セスにはこの可愛らしい手紙の主が、誰だか分かっている。それは、余計にマティアスを焦らせた。尻尾が勝手に揺れてしまう。
申し訳なさそうな顔のベイリーは、手紙を綺麗に折りポケットにしまっていた。しょんぼりしてしまったベイリーが不憫に思わなくもないが、余計なものを届けてと、若干の苛立ちも覚えてしまう。彼に罪はないのに。
セスのことになると、どうしても心が狭くなってしまうのだ。
「うう、オレはダメだなぁ……ドジで、いつもこうなんだ……もう帰るよ。邪魔したなぁ」
「ベイリーさん、あまりお気になさらぬよう。悩まれるようなら、教会へ告解をしに行くと良いですよ。神は貴方の罪に赦しを与えてくださるでしょう」
「ああ、そうですね。教会なんてずいぶん行ってないし、そうします」
少しだけいつもの気さくな彼の表情に戻り、ベイリーは頷いてくれた。
そして、重い足取りで部屋を出ていく。侍女に見送りを頼んでから、マティアスはセスの隣に座り直した。
「セスさんがヴァンパイアになったことに、ベイリーさんは気づいていたのでしょうか」
「さあな。あいつは、馬鹿だから」
「口止めしなくて、よかったのですか?」
「ベイリーにか?いらねぇよ。あいつは馬鹿でドジだが、分別はある」
煙草の火を灰皿に押し付けて消し、セスは最後にゆっくりと肺に残った煙を吐き出した。薄い唇から紫煙がふわりとあふれて、流れて消える。
煙草は嫌いなのに、セスの中を通ってきた煙は、とても美しく見えた。
「そんなことよりも、リンドヴルム。俺の不在が噂になったなら、今夜はバカみてぇに浮かれたヴァンパイアどもが、巣穴から出てくるぞ」
強いハンターがいる。それだけで、力の弱いヴァンパイアは慎重になる。街から逃げ出す者もいる。
強いハンターはその存在だけで、ヴァンパイアの犯行を抑止できるのだ。
しかし、セスが街を去ったと噂になっているならば。ヴァンパイア達は大胆に人を襲いはじめるだろう。咎めるものがいないのだから。
降り続いた雨が止んだ今日は、ヴァンパイア達にとっては絶好の狩日和だ。
「わかりました。今夜は、見廻りに行きましょう。ついてきてくれますよね?」
「まあ、かまわねぇが……俺はもう死人。この街のハンターはテメェだ。その自覚を、失うなよ」
その言葉に、背中に重いものを背負わされた気がした。
しかし、セスの方は素知らぬ顔であくびをしている。ヴァンパイアにとって、日が昇ってから暮れるまでは寝る時間だ。
「ねみぃ。俺は寝るから、テメェも休んどけ。今夜は忙しいだろうからな」
そう言い残して、セスはさっさと応接間を出て行ってしまった。
新たに用意した彼の寝室には、マティアスも入らない。
分厚いカーテンを閉め切った、暗い部屋の真ん中に、棺が置かれている。普通のベッドより、安眠できるそうだ。
そこはセスのプライベートな部屋であり、同時に墓場だ。死人であるセスが、死と共に眠るための場所。
伴侶とはいえ、へたに足を踏み入れてはいけない。
セスが居なくなった応接間で、マティアスはカーテンを開けて外を見た。
太陽は眩しくて、暖かな光を地上に撒き散らしている。セスにとっては毒だ。そして、ヴァンパイアにとっても。
「私に……セスさんの代わりが、できるのでしょうか」
そんな呟きは誰にも届かず、ただ太陽がこちらを見て嗤っているだけだった。
※※※※※
ワイングラスがひとつ。白いテーブルクロスの上で、月明かりを受けてきらめいている。
鋭い爪で手首を切り裂けば、どぷっと赤い血が溢れ出た。滴り落ちる竜血が、グラスを満たしていく。
ちょうどワイングラス半分くらい出血したが、すぐに傷は塞がってしまった。ウロコが剥げているだけで、傷痕は残らない。痛みも、傷さえ塞がってしまえばすぐに癒えた。
「セスさん、どうぞ」
赤い血を受けたワイングラスを、椅子に足を組んで座るセスに掲げてみせる。
あの黒い燕尾服姿に変化したセスは、足を組んで、赤い目を細めてその白い手をこちらに差し出した。恭しくその手を取り、手の甲に口づけてから、ワイングラスを握らせた。
まるで儀式だ。
一日一回、こうしてセスに血を給する。背徳感と、彼を生かしているのは自分なのだという喜びに、マティアスはうっとりとした気分になった。
「ああ……」
薄い唇がグラスの縁に触れ、マティアスの血が口内へ招かれる。その光景は、見るたびにため息が出た。それほど、美しかった。
太く逞しいセスの首に浮いた、喉仏がごろりと上下する。自らの血が嚥下される、その瞬間はエクスタシーすら感じた。
「すけべな顔しやがって。なんで、血を飲まれてそんな顔になるんだ?」
グラスの中身を飲み干したセスは呆れ顔で言って、血まみれの唇を舌で拭う。
「変態め」
罵りながらも、セスの目は笑っている。彼も面白がっているのだ。サディストの愉悦を赤い瞳に映して、くっくっと喉を鳴らして嗤っている。
「変態で、結構です。貴方の一部になれるのが、私には幸福なのです」
「そうかよ」
鼻で笑って、セスはグラスをテーブルに置いた。そして、ゆらりと立ち上がった。
身体中に、力が満ちているのが分かる。
竜血はヴァンパイアに力を与える、特別な力を帯びている。だからだろう。こんな少量でも、セスは十分満たされるようだった。
「メシも食ったし、出かけるか」
「その格好でいいのですか?」
「ああ……そうだな」
今からヴァンパイアハントに向かうのに、ヴァンパイアらしい格好をしているのはどうだろう。
セスは妙にこの格好を気に入っているようだし、マティアスも格好良いので好きなのだが。
しばらく考え込んでいたセスだが、燕尾服は一瞬闇に溶けるように霞み、瞬きする間に見慣れた軍服になっていた。
ただ、肩の十字の刺繍は無くなっている。
軍服姿はずいぶん久しぶりに見た気がするが、やはり彼には一番よく似合っていた。少し嬉しくなってしまう。
「これしか、思い浮かばねぇとはな」
しかし、セスは独り言のように遠くを見ながらぽつりと呟いた。その表情は、決して明るくはない。
そういえば、生きていた時のセスが軍服以外を身につけているところは、見たことがない。寝ている時も裸だった。
彼は、心底からヴァンパイアハンターだったのだ。他に、何も持っていなかった。お気に入りの私服も、何も……。
「行くぞ。ボサっとするな」
気がつけば、セスは窓枠に腰掛けてこちらを睨みつけていた。いまにも、コウモリになって飛んで行ってしまいそうだ。
慌てて彼の側に駆け寄ると、セスの体は窓の向こうへと消えた。
行儀が悪いとは分かっているが、マティアスもぴょんと窓から飛び降りる。ここは二階だ。足を挫くほどの高さではない。
「今夜は、月が綺麗だ。こんな夜は、食い盛りのヴァンパイアどもが図に乗って寝ぐらから飛び出してきやがる」
しかし。窓の外、屋敷の庭のどこにも、セスの姿は見えなかった。だが声は聞こえる。
不安になりキョロキョロと辺りを見回してみるが、影も形もなかった。
おそらく、小さな生き物に変身して、隠れているのだ。いくらヴァンパイアでも、姿を消したりはできない。
「セスさん……私は」
まだマティアスには自信がなかった。この街には、セスが敗北したヴァンパイアがいる。それは今も宵闇に潜み、街の人々やマティアスの血を狙っているのだ。
不安とプレッシャーに尻尾が左右に揺れる。
「浮かれた馬鹿どもに、テメェが思い知らせてやるんだ。この街には、マティアス・ロルフ・リンドブルムというハンターがいるとな。……安心しろ、一応俺も見ているし、助言もしてやる」
愛しい人にそんな風に鼓舞されて、情け無い顔をしてはいられない。
マティアスは自分を奮い立たせると、背筋を伸ばして歩き出した。
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