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16.追憶
「おい。テメェ、どういうつもりだ」
眉間のシワをより深くして、明らかに不機嫌なセスがこちらを睨みつけている。
入浴の手伝いをした後だった。セスの裸体は、ふわふわしたバスタオルで包まれ隠れている。目に毒だから、マティアスがそうしたのだ。
「どういう、とは」
本当はなぜ彼が怒っているのか、マティアスは察しはついていた。はぐらかそうとしても無駄なのは分かっている。
尻尾の先がビリビリと震えてしまうのを、セスから見えないように脚の影に隠した。
「とぼけるな。あれだけ毎日何度も何度もヤッてて、急に三日も手を出してきやがらねぇなんて、おかしいだろうが」
不満げにまなじりを釣り上げるセスを見て、マティアスは胸がきゅうっと締め付けられる。
おそらくマティアスとは違う感情ではあるのだろうが、彼も自分との行為を望んでくれている。そんな風に思えて、嬉しかったのだ。
「おかしくはありません。……毎日何度もというのは、セスさんに負担がかかるのではと思いまして。貴方の負担を減らすための勉強もしているのです」
「勉強?」
訝しそうに眉を寄せるセスに、マティアスは頷いてみせる。
もともとマティアスは、性行為に対する知識は少なかった。学生時代に性教育として、男女の体の違いや、性交と避妊の方法、抱卵した女性の体についてや卵の世話の仕方を習っただけだ。
パートナーを性的に喜ばせる方法、なんていうものは誰も教えてはくれなかった。そこでマティアスは、街の本屋を梯子して、それを学ぶ為の本を探したのだ。
セックスについて書かれた本のほとんどは性欲を掻き立てるためのフィクションで、あまり参考にはならない。
最後に行った本屋の店主が真っ赤な顔で奥から持ってきてくれた、彼の私物だというセックスの指南書が、唯一教材として役に立ちそうな代物だった。
あげるから絶対内緒にしてと言われたその本には、適切な下準備の方法や、人間の男性の性感帯の図、それを開発する手順、行為後のケアについてがしっかりと書かれている。
きっと店主もマティアスと同じ悩みを抱えて、あの本を読んでいたのだろう。
「私は、分かち合いたいのです。私が貴方に与えられている喜びを、同じように貴方にも感じてほしいのです」
「くだらねぇ」
ため息混じりに言って、セスは目を細めた。煙たそうな、嫌そうな表情に、少し傷ついてしまう。
「いままで俺が、テメェとヤってて不満だなんて言った事があるか?何も変わらなくていい」
「しかし……」
「テメェは、俺に血と寝ぐらを与える。俺は、テメェに快楽とハンターとしてのアドバイスを与える。そういう約束だろう。それ以上でも、以下でもねぇ。いままで通り、テメェは俺の上で必死こいて腰を振っていればいいんだ」
それでは、嫌なのだ。
セスの言う、契約だけの関係ではない。二人は番なのだから。もっと、お互いが幸せになれる行為をするべきなのだ。夫婦の営みというものは一方的ではいけないはず。マティアスはそう信じていた。
それを言い返そうとした時、急にセスが浴室の外へと視線を向けた。そして、シッと唇に指を押し当てる。
「……屋敷に客だ」
「客?ベイリーさんでしょうか」
「違うな。馬車の音がした」
耳をすましてみるが、マティアスには何も聞こえなかった。
しかし、人間や竜人よりはるかに鋭い感覚を持つヴァンパイアのセスには、はっきりと聞き取れているようだ。
「もう夜の23時だぞ。こんな夜中に、不躾なやつだ」
セスはそう言って、体からじわりと黒い霧を出した。バスタオルはその中に飲み込まれ、瞬きするうちに彼のお気に入りの黒い燕尾服になる。一瞬で身支度を整える事ができるのは、素直に羨ましい。
脱衣所を出た頃に、ようやくマティアスの耳にも馬車の音が聞こえはじめた。その瞬間、背筋にぞわりと悪寒が走る。
「せ、セスさん。すみませんが、部屋に入っていて中から鍵をかけていてください」
「どうした、急に慌てて」
「訪ねてきたのは、おそらく私の父です……。伴侶である貴方を親に紹介しないのは、失礼だとは分かっていますが、父は……少し性格に難があるのです。だから、避難しておいてください」
セスは驚いたように目を丸くした。
家族の話をセスにした事がない。いや、誰にも話しては来なかった。
両親や家について話そうとすると、心の柔らかい部分に何か鋭いものが突きつけられたような気分になる。
家を絶やしてしまうのだから、いつかセスともに父と話し合う必要がある。それは分かっていた。
だが、それは今ではないはずだ。マティアスにはまだ、セスを父に会わせる勇気が持てなかった。
「俺は死人だ。死んだ人間を、わざわざ紹介する必要もねぇ」
そう言って、セスはマティアスの肩を軽く叩いた。彼にしては珍しく、優しい手つきだった。
不安が顔に出ていただろうかと、マティアスは気恥ずかしくなる。
セスの部屋の鍵が締まる音がしたのとほぼ同時に、ドアノッカーがカンカンと甲高い音を立てた。
夜分遅くの来客だというのに、侍女がすぐに出迎えに行く。慌ててマティアスも玄関へ向かった。
マティアスが止める前に、侍女が扉を開く。
分厚い扉の向こうには、マティアスが想像した通りの人物が居た。純白の祭服を身に纏った竜人だ。
「マティアス。なんだ、この人間の雌は」
事情を知らない侍女が、いきなり吐かれた暴言に固まってしまう。
久しぶりに会う父は、以前と何も変わらず傲慢だった。
「……お久しぶりです、父上。お元気そうでなによりです。しかし、夜中に突然訪ねてきて、私の屋敷の侍女に酷いことを言うのはやめてください」
「ひどい事だと?」
「人間の女性に対して、雌だなどと」
「相変わらず、よくわからない事を言う」
呆れたように言うと、父は後ろに控えていた自分の使用人に目配せをした。マティアスと同じ年頃の若い竜人の使用人は、マティアスに一礼だけして、ずかずかと屋敷に入り込んでいく。おそらく、キッチンに向かってお茶を淹れるのだろう。
父はお気に入りの使用人が淹れたお茶しか飲まないし、大の人間嫌いだ。マティアスの侍女にもてなされるのは嫌なのだろう。
「とにかく、あがらせてもらうぞ」
門前払いにするわけにもいかず、マティアスは応接間へと父を案内した。マティアスと同じ金色の目を細め、不快そうに父は鼻先をハンカチで押さえる。
「家畜臭いな。屋敷に人間なんて入れるからだ」
竜人は発汗せず、哺乳類のような体臭はない。そのため、あまり人間と関わらない竜人の中には人間の匂いを嫌うものも少なくなかった。父もそうだった。
人間の中で暮らしているからか、マティアスはあまり気にならない。セスの汗の匂いなどは、どんな香水よりも芳しいとすら思う。だから、人間の体臭を家畜の匂いのように言う父には不快感を覚えた。
父は偉大な聖職者で、枢機卿の任につき、この国の信徒を束ねる立場にいる。それでも、あまり尊敬する事ができないのは、この性格のせいだろう。
「父上。不躾ですが、用件をお願いしても良いですか?夜中に突然訪ねてくるほどです。急用なのでしょう」
ついトゲのある言い方をしてしまうが、父はさして気にしてはいないようだった。というより、マティアスの事などどうでも良いのだろう。
応接間のソファに腰をかけ、自分の使用人が淹れた茶を一口飲んで、ようやく父は口を開いた。
「そろそろ、ハンターごっこに飽きた頃だろう。聖都に帰るぞ」
開いた口が塞がらない。
決してヴァンパイアハンターを諦めることは無いと、今まで何度も伝えたはずなのに。父は、その全てを聞き流していたようだ。
神の声はよく聞こえるようだが、息子の声は届かないらしい。
「帰りません。私は、今はこの街でたった一人のヴァンパイアハンターです。責任があるのです」
「まだそんな世迷言を言っているのか……どうして、人間などのために我が身を危険に晒す必要がある」
父も、呆れ果てたという顔をしていた。
どうしてこの息子はこんなにも頭が悪いのか、そう思っているのが透けている。
マティアスと父は、どこまでも考え方が合わない。母が生きていた時は間に入ってくれていたが、母が亡くなってからは二人の溝は決定的に深まってしまった。
「私は後悔しているのだマティアス。あれは何年前だったか、ああ、三十二年前だ。お前をあの街に連れて行ったばかりに、お前はハンターに狂ってしまった」
「父上、四年前です」
「そうだったか?この年になると、もう五年も五十年も変わらないように感じるものでな」
四年と三十二年は全く違うと思うが、六百年近く生きた父にとっては大差ないのかもしれない。
時の流れというのは、自分の年齢や環境でその速さを変える。マティアスも、四年前までとそれ以降では、全く時間の流れ方が変わった。密度が濃く、目まぐるしく、ゆっくりと時は流れる。まるで、子どもの頃のように。
四年前、マティアスは父に連れられてリードという地方都市を訪れた。
その街を治める領主は信心深く、誠実だった。領民の平穏を願い、長い年月と巨額の私財を費やして立派な大聖堂を建てた。
無事に竣工した事を祝福するという建前で、父はその地の視察に向かった。その大聖堂が気に入れば、あの街に別荘でも建てるつもりだったのだろう。
マティアスを連れて行ったのは、なんの気まぐれだったのか。もしかしたら、将来マティアスが枢機卿の任についた時の為に、何か教育をするつもりだったのかもしれない。
「あの街でヴァンパイア騒動などに巻き込まれなければ、お前は素直に私に従っていたろうに」
そう言う父も、あの街の事を思い出しているようだ。
二人がリードに着いた時には、街はまるでゴーストタウンのようになっていた。
数日前。街は恐ろしいヴァンパイアに襲われたというのだ。
その始祖のヴァンパイアは、グールの大群と共に街に雪崩れ込んできて、大聖堂に火をつけた。そして、その焼け跡に居を構えた。
リードに居たヴァンパイアハンターは、すでにグールの一員と化し、領主は領民を引き連れ街の外に避難していた。
わずかな食糧を分け合い、身を寄せ合いヴァンパイアの恐怖に震えている人々。煙の上がる街。立ち込める死臭。
そんな地獄のような光景に、マティアスは言葉を失った。
想定外の事態に、父はすぐに聖都に帰ろうとしていたが、人々は救いを求めて父にすがった。さすがに彼等を置き去りに息子と逃げ出す事は出来なかったのだろう。しぶしぶという顔だったが、彼等のキャンプに泊まって説教などをしていた。
そしてマティアス達がリードを訪れて二日後。近隣の街から、数人のヴァンパイアハンターが集まってきた。
残念ながら、マティアスは父に止められ彼等に会う事は出来なかった。ただ、薄暗く狭いテントの中で、彼等の勝利を祈っていた。
まだ剣も握ったことのない、やせっぽちの神父には、それしか出来なかったのだ。
父や領主、領民も。同じように膝を降り、我々は夜通し祈った。
街からは、時折轟音と、悲鳴が聞こえる。血の匂いと腐臭に、自然と涙が出た。
神々しい太陽が、黒い峰からその姿を現した時。夜の闇が払われ、朝焼けに空が赤く染まった。
そして、その朝日を浴びながら、ハンターが街の門から出てきた。たった、一人だけ。
その朝、街は人の手に戻ったのだ。
「確かに、そうかも知れません。あのリードで、戦うハンターの為に祈りを捧げていた時。取り返した街で、焼け落ちた大聖堂を見た時。神の慈悲を乞うだけではなく、自らの手で護らねばならないものがあると、私は学んだのです」
仕事が終わるとすぐに帰ってしまったので、マティアスはそのハンターの名前も顔も知らない。
称賛も謝礼も何も受け取らずに消えたヴァンパイアハンター。そのあり方に、単純に憧れも感じた。
「若い時は、そういう勘違いをする時もある」
「勘違いでは、ありません」
「あのハンターが始祖のヴァンパイアを倒せたのは、神の奇跡。神が、彼に勝利を与えた。我々の祈りが通じたからだ。何かを護りたいというならば、神父として神に仕えるのが一番の近道だ」
自然と、尻尾が縦に揺れてしまう。
ばしんと、絨毯の敷かれた床を尻尾が叩く音が、応接間に響いた。
命を賭して戦っていたハンター達ではなく、離れた場所で祈っていた自分達の手柄だと、そんなふうには思えない。彼等がハンターとして培ってきたものが、ヴァンパイアを倒したのだ。
「全部勘違いなんだ。怪我をする前に聖都に帰るぞ」
「嫌です。私は、この街が好きです。それに、軍から正式に辞令を受けて」
「それなら、すぐに解任の辞令を出させてやろう。これまで通り、お前の上司に命じてな」
さも当たり前のように言って、父は二杯目のお茶を飲んだ。
一瞬遅れて、父の言葉を理解する。同時に、背筋が寒くなった。
「まさか、父上」
「軍には、熱心な信徒がいるのだ。アレらは人間の中でもまだマシな部類だな」
「……ずっと、邪魔をしていたのですか」
「お前がハンターを諦めるようにという親心だ。教官が余計な事を教えなければ、田舎に飛ばされたなら、諦めるかと思ったのに。全く、ここまで馬鹿だとは思わなかった」
目眩がした。あの厳しく辛い訓練も、肩に十字の刺繍を授かった日の喜びも、嘘だったのか。
なぜマティアスが怒っているのか分からない、といった顔で平然とこちらを見ている父は、なんて傲慢で、陰湿な男なのだろう。
何か言いたいことがあるような気がするが、マティアスの語彙には汚い罵詈雑言はなかった。口をつぐみ、ただ父を睨みつける。
こんなにも、絶望感を覚えたのは初めてだった。
「にゃー」
二人の間で張り詰めていた沈黙を破ったのは、甲高いケモノの声だった。
驚いて振り返ると、応接間の扉のところに見た事のないネコがいる。黒い毛並みの、立派な雄ネコだ。
「ネコを飼っているのか」
動物嫌いの父は、そのネコを嫌そうに一瞥した。そして、手で追い払うような仕草をする。
すると、突然。ネコは跳躍し、父の顔をしたたかに引っ掻いた。
「ギャッ!?」
ウロコに守られているからさほど痛くは無いはずだが、驚いたのか悲鳴をあげてソファから飛び上がった。
毛を逆立ててフシャー!と威嚇の声をあげながら、ネコは父に襲いかかる。
「ま、マティアス!なんとかしろ!」
「そう言われましても……では、ネコが大人しくなるよう、神に祈ります」
「そうでは、ない!捕まえて部屋から出してくれ!」
「先程、ご自分が仰ったのですよ。護りたいなら祈るのが良いと」
珍しく狼狽した様子の父に、そう皮肉を返す。これくらいの仕返しは、許されるはずだ。
怒り心頭という様子の父は、少し乱暴にネコを振り払うと、ソファを蹴るように立ち上がった。
「人の揚げ足を取りおって!もう知らん!」
すっかり機嫌を損ねてしまったらしい。父は鼻息荒く祭服の裾を翻し、応接間から飛び出して使用人を呼びつける。
扉が乱暴に開かれたとか思えば、あっという間に馬車の車輪の音が遠ざかっていった。
「……助かりました、セスさん」
足元のネコに声を掛けると、にゃあと一言鳴いてから黒い霧に変わった。それがゆらゆらと揺れながら、愛しい人の形に変わっていくのを眺める。
「別に。あのジジイのダミ声が、俺の部屋まで聞こえてきて不愉快だっただけだ」
つまらなそうにそう言うセスの肩を、そっと抱き寄せた。冷たい体を抱きしめると、目蓋の奥が痛くなる。
夢を叶えようとしている自分の気持ちを実の親に踏みにじられ、妨害されていた。
その事実は、マティアスの心をひどく傷つけていた。
「……前にも言ったが」
セスの手が背中に回り、抱擁を返される。甘い、セスの匂いがした。
「お前は、剣の腕は立つ。それはお前の教官が、あのクソジジイの傀儡ではなかった証拠だ。お前の教官は、あいつのせいでお前に知識を与える事ができなかったのかもしれねぇ。だが、せめてお前が自分の身を守ることができるようにと、剣の腕を鍛えたんだろう」
心から流れ出していた血が、止まったような気がした。
苦しい訓練の日々を思い出す。
もともとマティアスは、聖書より重いものを持った事がなかったのだ。そんな男が自在に剣を振れるようになるための鍛錬は、非常に厳しく、過酷で、時には血の尿が出る事もあった。
それに耐えきり、教官に認められて、神父服の肩に十字の刺繍をいれて貰ったのだ。
あの日々は、嘘ではなかった。そう思って良いのだろうか。
「安心しろ。今のお前は、新米ヴァンパイアハンターの中ではマシなほうだ」
セスの言葉に、マティアスの眦が涙で濡れる。この人に出会えてよかったと、心から神に感謝した。
そして、同時に体に熱が灯るのを感じる。
「わ……たしは、貴方に出会えたから、ハンターになれました……そして、今も、私は貴方に救われている……」
貝殻のような形の耳に口元を寄せ、マティアスは囁いた。
「貴方は私の全てです。セスさん」
くっくっと、低い笑い声。その声音には、愉悦が滲んでいる。「大袈裟だな」と嗤いながら、満更でもないようだ。そのまま、ソファの上に彼の体を押し倒す。
今すぐ、セスが欲しかった。慰めを求めていた。
「しねぇんじゃなかったのか?」
口ではそう言うけれど、セスは自らするりとタイを外した。二つ並んだ穴のある、白い首筋に口付ける。マティアスは、もはやたった一人の家族となったセスに縋り付いた。
「負担をかけないよう、努力します」
こんな夜には、彼に甘えても良いはずなのだ。二人は、もう番 なのだから。
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