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第2話

「ママはー!? ママはー!? ママがいないよー! うわあああん!」 「‥‥‥‥」  小さな怪獣が泣き喚く。そういえば昔、怪獣のバラードという歌をうたったな、とぼんやり思う。  学校から帰れば週に2、3回はこの荒れ狂う怪獣に遭遇する。  またあいつらガキを放っておでぃととやらに行ったのか。いい歳こいて。あんな大人にはなりたくない。などと中学生日記のようなことを思いながらため息をつき、靴を脱ぎ、既に惨憺たる状態と化した我が家へ乗り込めば、靴下の裏にびちゃっと冷たい感触が走った。足元には蓋が閉められていないオレンジジュースのペットボトルが転がっていた。白い靴下にオレンジ色が染み渡っていく。気持ち悪い。 「兄ちゃん! ママは!?」  俺の足にしがみ付きママママと叫びながらズボンを引っ張る健人も、裸足の足をオレンジの水溜まりへ突っ込んでいた。しかし気付いていないのか気にしないのか、構わずビシャビシャと踏みまくるものだから、跳ね返った水滴がほら、衣替えしたばかりの夏服のズボンに‥‥ 「ママは死にました。もう帰ってきません」 「マっ‥‥え?」  大きなクリクリとした目がさらに見開かれ、俺を見つめる。俺はそれを冷めた目で見つめ返しながら、しがみついていた健人の手を汚物でも払うかのように振り払った。 「マ、マ‥‥ママ、死んじゃったの?」 「そうですママは死にました」  当然嘘なのだが。ムカついたので、そういうことにしてやった。健人の目にはみるみるうちに涙が溜まっていく。あ、泣く。既に泣いていたけどさらに泣く。  言葉の暴力も虐待なんだぞ、と削ぎ落とされた良心が心のゴミ溜めの中で叫ぶ。 「マ、ママ、い、いないの? なんでぇ? あ、会えないのぉ?」 「‥‥‥‥」  痙攣したかのように肩をひくつかせている健人。いつものように怪獣の鳴き声を上げるかと思いきや、健人はただポロポロと涙を流し、体を震わせ、全身に降り注ぐ言葉の刄から身を守るように俺を見据えていた。それはあまりにも、純粋な、悲しみの塊のようなものに思えた。 「嘘だよ」  ほぼ無意識に出た言葉に、健人はキョトンと目を見開き、俺は眉間にわずかにシワを寄せた。あー、つまんねえ。死んだと思ってたババアが帰ってきてそこで初めてネタばらし、と思っていたのに。 「ママ‥‥生きてるの? 死んでないの? か、帰ってくる?」 「来る来る」 「ほんとに?」 「ほんとほんと」  テキトーに相槌を打ちながら靴下を脱ぎ洗面所へ向かうと、後ろからピチャピチャと水分を含んだ足音が着いてくる。どうせそれを拭くのは俺だ。てめーの愛しのババアじゃなく、このお兄さまだ。 「ほら」  タオルを顔目がけて投げ付けると、見事顔面でキャッチした健人がキャッキャッと楽しそうな笑い声を上げる。遊んでもらってるとでも思ったのか、投げたタオルをまた投げ返された。 「兄ちゃん、パスー!」  なんの遊びだよこれは。パスと言いながら健人は濡れた足のまま狭い洗面所から廊下を走り回る。お前また汚れるだろがこの野郎。  手にしたタオルをぎりぎりと握り締めながら、長く、なるべくゆっくり息を吐く。落ち着け、俺。せっかく泣き止んでんだからここで殴りでもしたらまた面倒なことになる。  タオルをもう一度投げ返し、拭け、と言うと、健人はパチパチと瞬きをし、へらっと笑って涙に濡れた顔を拭いた。そっちじゃねぇ、足だ、と言いたかったが脱力しすぎて言葉になることはなかった。  一番煩わしいのはこれだ。怒りも憎しみも真っすぐにぶつけられない、ぶつけることを躊躇わせる、この幼い存在。花の茎をポキンと折るみたいに、容易く傷つけられる、危うくて脆い存在。  あまりにも無垢なそれを前にしたら、躊躇せざるを得ない。この瞬間が、この気持ちが、自分の中に生まれるこの一瞬の隙みたいなものが、俺はたまらなく嫌いだ。

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