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第3話

「あ」  下駄箱に靴を押し込んだ瞬間、後ろから今最も聞きたくない声がした。振り向くことなく歩きだすと、その声の主も影のように着いてくる。 「ま、待てよ、待てって」  呼び止める時ですら命令形。まったくなんだこいつは。構わずスタスタと歩き、階段に差し掛かる少し前で肩を掴まれた。 「‥‥おはよう」 「‥‥‥‥」  よくもまぁ普通に話し掛けられるもんだよ。  肩に乗った手の熱がシャツ越しに伝わり、あの日の息遣いや眼差しまでもがフラッシュバックのように脳裏に甦る。純、純、と吐息混じりに呼びながら俺の身体を好き放題いじり倒し、熱に浮かれた眼差しで見つめ‥‥  手を払い除けながら振り向き、俺より少し背の高い北村を真っすぐ見据えた。俺と目が合った北村の瞳が期待の色に揺れる。きもっ。 「話し掛けないでくれますかホモ村くん」 「ホ‥‥、ちげーよ俺は‥‥つかその敬語、やめろって」  また命令形かよ。敬語ごときでウダウダ言ってんじゃねーよ、俺はお前にファーストキスを奪われ胸やらちんこやら触られたんだぞこのクソホモ野郎。立派な強制わいせつ罪じゃねーか。 「純は人と距離置く時いつも敬語になるよな」 「そうですかね」  階段を上りだすと、隣に北村が並ぶ。歩調を速めると北村も速め、遅くすると北村もそれに倣う。なんなんだこいつ、ストーカーか。気持ち悪い気持ち悪い。 「俺さ‥‥その、純がなんか元気なかったから、なんつーか‥‥気に、なって」 「その元気がないやつに追い打ちをかけたのはホモ村くんです」 「‥‥悪かった」  しゅん、とうなだれる北村。お前がうなだれるようなことか。気になって、とか言いながら押し倒してくるようなやつには何を言ったって俺の良心は‥‥ゴミ溜めの中でわずかに息をしている良心は、少しも痛まない。  こいつは健人とは違う。俺と同じ高校生で、受けた傷だって自分の中で消化できる年齢だ。  健人みたいなガキは自分が傷つけられてるとも知らずにその出来事をそのまま受け入れてしまいがちだ。今だってそうだ。親に放置される日々があいつの日常になっている。それを当たり前のことだと思い込んでいる。普通の親はこうなんだ、これが普通の家族なんだ、と。  厄介なのは、それが当たり前じゃない、普通じゃないと気付いた時だ。  成長すれば自ずと見えてくるだろう、周りと自分との意識の差、環境の差。それに気付いた時、今まで当たり前だと思っていた日々や過去は全て自分に牙を向けるものへと変わる。あぁ、自分はずっと傷つけられていたのか、とその時になってようやく気が付く。  だからといって、今更どうすることもできない。手遅れだ。既に心に根を張った過去からは逃れることはできない。それを土台に成長してきてしまったら、もうその上で生きていくしかないんだ。  だけどこいつや俺は違う。  傷つけようと近づいてくる相手や危険な出来事には事前に気付き、逃れることも予防線を張ることもできる。たとえ傷つけられたとしても、受けた傷が根を張る前に消化するやり方を、知っているはずだ。  だから俺はなんの躊躇いもなく、こいつを傷つけることができる。傷つけたいと、思う。自分でもどうかしてると思う。だけど止められないんだ、何もかも癪に障るんだ。お前なんか、お前なんか‥‥ 「死ねばいいのに」 「‥‥え」  足を止めると、一段先に上った北村が驚いた顔で振り向く。俺はそれを見上げながら、まるで教科書を音読させられている時ような平淡な声で、もう一度「死ねばいいのに」と言った。北村は悲しそうに眉を歪めた。 「純‥‥まじでどうしたの。そういうこと言うやつじゃなかったっつか、昔はもっと穏やかだったっつか」 「どうしたのってお前が言うのかよ。あー、笑わせる。昔は、とかさ‥‥俺の何を知ってるっていうんだ」  喋りながら、あ、今のドラマのセリフみたいだ、と思った。そうだ、みんなドラマみたいなんだ。  ドラマのように恋愛しちゃう親や、ドラマのように泣き叫ぶ健人や、ドラマのように俺に熱をぶつける北村。お前ら、そんな自分に酔ってるだけなんじゃねーか。酔いが覚めたら、現実なんてものはただ時計の針のように素知らぬ顔で進むだけだ。随分酔ってましたね、ほら、そんなことしてる間に、もうこんなに時間が経っちゃってますよって。  酔いも夢もいつか覚める。その時お前らはどうするんだ。 「めんどくせーなぁもう」 「純‥‥」 「お前は俺が好きなのか」  一段上がり、北村に並ぶと、北村は鞄を持つ手に一旦ギュッと力を込め、しかしその動作とは対照的に「わかんねぇ‥‥」と力なく呟いた。その瞬間、体からすぅっと力が抜けていくような感覚がした。  つまんねーやつだ。それこそドラマのように告白でもされれば、思い切り踏み躙ってすっきりできたのに。 「まじ怖い。好きかもわからんやつ相手にあれだけできちゃうお前まじ怖い」 「だっ、だから、あれはお前が‥‥悩んでるみたいなのになんも言ってくんねぇから‥‥なんかイラついて」 「カッとなってやったってやつか。カッとなって現れた本性がそれか。お前は真性ホモだな」 「そう‥‥だったのかも」  俺も諦めが悪い。北村が甘んじて俺の暴言を受け入れていることをいいことに、これでもかと、再起不能になるくらい‥‥俺と同じくらい、ダメにしてしまいたいと思ってしまう。俺だけがこんなに不健全で、ゴミ溜めのような日々の中で息しているだなんて、ムカつくじゃないか。  北村は現実に打ちのめされたような、半透明な、不安定な目の色をしていた。 「かわいそうに」 「え」  パッと顔を上げた北村が俺を見る。 「ホモなんて、お先真っ暗じゃん。結婚も子どももできない。家族もできないままひとりで老いて孤独死するんだよ」 「‥‥そんな先のことまで考えたことは‥‥」 「お先真っ暗だ。お前に未来はない」  足早に階段を上りだすと、北村が慌てて着いてくる。冷てえな、と文句を言いながら。  お先真っ暗だ。俺と同じだ。結婚も子どももいらない。親や健人を見ていると、ほとほとうんざりしてくる。あんなのは、いらない。 「純、まじ性格悪くなった」 「お前のせいでな」  あと親父とババアと健人のせいで。  階段を上り終え廊下に足を踏み出すと、隣で北村が小さく笑った。なんだよ、と目を向けると、北村はやわらかく目を細め、俺を見る。 「でも、敬語じゃなくなった。良かった」  北村は嬉しそうにそう言った。そんなことで一喜一憂してるこいつが哀れで気持ち悪くて仕方なかった。

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